小説 | ナノ

遠い世界に住むひと


よく晴れた昼下がり。
俺は安田さんから銀さん宛の届け物を頼まれて、指定されたマンションへと向かっていた。
都心部から少し離れた、閑静な住宅地。
途中、白いワンピースを着た、清楚な感じの若い女の子と擦れ違う。
女の子は目が合うと微かに笑顔を作って軽く会釈をした。
この近所に住む、金持ちの家のお嬢様なのだろうか。
長い髪にはふわふわとしたウェーブがかかっていて、まるで古い映画に出てくる令嬢のようなイメージだ。
(俺には一生縁がないタイプというか……)
よく言う、“住んでいる世界が違う”ってヤツだ…なんて考えながら、女の子の後ろ姿を眺める。
やがて角を曲がったところで、彼女の姿は見えなくなった。
その先は高層マンションが密集していて、俺もその中から、指定された物件を探さなければならない。
高級マンションなんて、俺にはどれも同じように見えるし、名前も横文字で似ているから、なまじ簡単な肉体労働よりも余程骨の折れる仕事だ。

だから漸く目的のマンションを探し当てて、部屋に辿り着いた時には、先刻擦れ違った女の子のことなどすっかり忘れていた。
表札と部屋番号を確認して、インターフォンを鳴らす。
「はぁい」
中から聞こえてきたのは、若い女の子の声。
(あれ?ここって銀さんのマンションだよな?)
もう一度、メモに書かれた部屋番号と表札を照らし合わせたが、やはり間違いはない。
まさか、銀さんの愛人のマンションとか…?
自宅だと都合が悪いこともあるだろうから、愛人宅を使うなんていうのも、有り得ない話じゃないよな。でもそんな事情なら、名義も別の人間にするのでは……?
そんな推測とも妄想ともつかない考えを頭の中で巡らせていると、内側からロックが外される気配があり、ドアが開けられる。
「どちら様ですか」
顔を覗かせたのは、声の主と思しき若い女の子。
(あれ、この子、どこかで見たことがあるような……)
俺の訝しげな表情に彼女も気付いたようで、「あっ…」と小さく声を上げる。
そうだ、あの時擦れ違った令嬢風の女の子……だけど何故、その子がこの家にいるんだ?
「ここは、銀さ…あ、いや、平井さんのお宅で間違いないですよね?」
「はい、そうですけど…」
とはいうものの、偶然、苗字が同じというだけだったらどうしようか…と、背中を冷たい汗が一筋流れた時、
「何だ、誰か来てるのか?」
部屋の奥で聞き覚えのある声がした。
間違いない、銀さんの声だ。
彼女に、
「あ、俺、森田っていいます……」
と名乗ると、彼女は振り返って、「森田さんっていう方が…」と答えている。
何だ、森田か…入ってもらえ……と返事がして、女の子が「どうぞ」と笑顔で俺を招き入れる。
「お、お邪魔します……」
まさか、ここは本当に銀さんの愛人宅だったりするのか…?
俺は差し出されたスリッパに足を通しながら、目の前を歩く女の子の背中を見た。
確かにスタイルは良いし、顔も可愛い。
それにお嬢様っぽくて気品もあるから、銀さんの好みかもしれない…。
そんな下世話な想像をしている俺は、何十畳あるのかわからない広いリビングに通された。
「よう、森田。悪かったな、こんな所まで運ばせて」
「銀さん…!」
値の張りそうな革張りのソファで寛いでいる銀さんの姿を認めて、部屋を間違ったわけではなかったのだと安堵した一方で、傍らでにこにこと微笑んでいる女の子の素性が余計に気になってくる。
(愛人なのか…?いや、銀さんは独身の筈だから恋人というべきか…?)
銀さんは暫く俺の顔を眺めていたが、唐突に楽しそうな笑い声を上げた。
きっと、不思議がっているのが顔に出ていたのだろう。
「森田よ、何か気になることがあるんだろ?」
「は、はあ…。でも聞いていいのか迷っちゃって…」
本人もいることだし、何というか、あまり聞かれたくない関係だったら申し訳ないな…と女の子のほうを窺うと、彼女は相変わらずにこにこと笑っている。
「何を今更……。いいから、遠慮せずに言えよ」
「じゃあ、お言葉に甘えてお尋ねしますが…彼女、銀さんの恋人ですか?」
本人の前で愛人ですか?とは聞けなくて、俺はぎこちなく「恋人」と発音した。
銀さんはそれを聞いて、可笑しくて堪らないといった様子で笑いをこらえている。
「そういや、森田は初めて会うんだったな。そいつは、俺の娘…ノアっていうんだ」
女の子は、幾度となく同じようなシチュエーションに遭遇しているのだろう。笑顔のまま、銀さんと俺のやり取りを聞いていた。
「え、銀さんって子供がいたんですか!?」
「ノアのこと、安田達から聞いてなかったのか?」
「ええ…」
銀さんは、「別に隠しているわけではないんだけどな」と愉快そうに笑っている。
俺は、ノアと呼ばれたその女の子に視線を向けた。
「あなたが森田さんだったんですね。父がいつもお世話になっております」
ぺこりと頭を下げる。流石…銀さんの娘さんだけあって、しっかりしているというか。
それに……彼女は本当にお嬢様なんだよな。だって、父親が銀さんなわけだし…。
でも、銀さんの子供って何か色々と大変そうだ。
「良かったら、お座りになって」
ノアさんは俺に銀さんの向かいのソファを勧め、紅茶を出してくれる。
父親の仕事の邪魔をしたら悪いと思ったのか、キッチンのほうにいるようだった。
「可愛い娘さんですね」
お世辞でもなく、本心からそう言った。
「そうだろう」
てっきり謙遜するかと思った銀さんは、俺の言葉にしみじみと肯く。
意外と子煩悩なのだろうか。銀さんの知らない一面を垣間見た気がして、何だか嬉しくなった。
まぁ、確かにあんな可愛い娘なら、俺も溺愛しそうだけれど…。
「銀さんと二人暮らしなんですか?」
「いや、別々の部屋で暮らしてる」
今日は安田さんから、俺がここに荷物を持ってくることを知らされていたので、前以て娘の部屋に来ていたのだそうだ。
銀さんがかつてノアちゃんと一緒に暮らしていた邸宅は別にあるが、傍にいると何かと危険が多いので、普段はお互いに一人暮らしをしているとのことだった。
「せっかくの親子水入らずの時間を邪魔したみたいで、何だかすみません」
「いやいや、構わんさ。どうせ近所に住んでるんだから、会おうと思えばいつでも会える…」
「それならいいんですけど…」
銀さんは口に出してこそ言わなかったが、その表情には「娘よりも仕事が大事」だと書いてあった。
そうだよな…と、俺は一人で納得する。私情を挟んで右往左往するようでは、あんな―常人には到底考えられないような―大仕事を続けていられるわけがない。
だけどノアちゃんのほうは、きっと、寂しい思いもたくさんしているんだろうな。そう考えると、つい先ほど出会ったばかりの女性の存在が、急に自分の中で重きをなしてくるから不思議だ。

荷物を渡して数時間話し込んだ後、俺は帰ろうとして席を立った。その気配を察してか、ノアちゃんは見送りのために俺の側にぴたりと付き添っている。
けれど銀さんまで席を立つと、不意に、その視線が泳いだ。いや、揺らいだといったほうが正しいのかもしれない。銀さんまで帰ってしまうのではないかと、不安を覚えたのに違いなかった。
その証拠に、銀さんがわざと口に出して「俺はまだここに居るから」と言ったら、途端に、明るい表情が戻ってきた。
上り框の所で、銀さんと並んで俺を見送ってくれるノアちゃんを見て、いつかこの子を安心させてやれるだけの存在になれれば…と強く感じた。
その為には、銀さんが安心して俺に仕事を任せられるよう、独り立ちしなければならないわけだが。
それに、銀さんが父親じゃ、大抵の男は頼りなく見えるだろうから、もっと包容力のある大人の男にならないとな。
いや…そんな男が現れたとしても、銀さんが自分の手元から離しやしないか。
何せあんなに可愛いのだから。
……そこまで考えて、ノアという娘は、本当に簡単に手の届かない存在なのだなと、心の中で苦笑した。
(銀さんの娘というのも、俺にとっては住む世界の違う人間だぜ……)
夕陽に照らされた帰路を歩きながら、ここへ来る途中に思い浮かべた言葉を反芻してみる。
彼女は高貴な高嶺の花で……その花を手に入れることができるのは、一体どんな人間だというのだろうか。

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