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空蝉 - 第四話 -


障子の隙間から差し込む西陽が、部屋の中を淡く橙色に染めている。
「恵瓊、紗世のこと、何と思うな」
「…と申されますのは?」
ちらりと視線を上げて、恵瓊は探るように向かいに座った隆景を見る。
「いちいち言わずとも、わかっておろうに」
端正な容貌に怜たい微笑を浮かべ、この城の主は喉の奥で低く笑った。
「吉川元春殿とのことですな」
「左様……」
二人は碁盤を挟んで対峙している。隆景は唇の端を微かに吊り上げたまま、細い指先で黒い碁石を進めた。
「昨夜、兄上が来るまでは半信半疑であったが…今では」
隆景の視線が碁盤から動かないので、恵瓊もつられてそちらに目を移す。
「この棋譜通りじゃ」
隆景が扇子で弾くようにして角を打った。盤上では、黒の碁石が、白の碁石を遥かに凌いでいる。


紗世はゆっくりと布団から出て、侍女に手伝わせながら身繕いをすると、まだ少しふら付く足取りで廊下に出た。
昨夜、元春がこの雄高山城を訪ねてきた際の酒宴で、緊張のあまり酒を飲み過ぎてしまった。
しかも、隆景に顔色の悪さを指摘されるまで、酔っていることにすら気付かぬくらいに気を張っていたのだから、完全な悪酔いだった。鈍く痛む頭を抑えながら、本丸へと向かう。今日は隆景側の親族がこの城に集まっているのだ。
紗世が着いた時には既に、当主の元就を始め、一族の主立った者達が顔を揃えていた。
「元春は何故来なんだかのお」
と、元就が一番奥の上座で盃を片手にぼやいていた。紗世はその名前を不意に耳にして、大きく肩が跳ねた。
「元春は私のことが苦手なんですのよ」
そう返事をしたのは隆景の実姉にあたる五龍の方である。
「とはいえ、元春一人なら来たであろうに…。あれは蕗女どのの言いなりだからの」
「全くですわ」
五龍の方と新庄の方の仲が良くないというのも、紗世は噂で耳にしていた。
ふと元就が顔を上げ、入口に佇む紗世を見て嬉しそうな声を上げる。
「おお、そこにおるのは紗世どのではないか。そんな所に立っておらず、早うこっちへ」
既に酔っているのだろうか。いつにも増して陽気である。隣では五龍の方が微笑んでいる。
「紗世どのはいつ見てもほんに美人なこと」
五龍の方は紗世を実の妹のように可愛がってくれており、何くれとなく世話を焼いてくれる。てきぱきと座る場所を整えているのを見ると、どちらがこの城の女主人なのかわからないくらいだ。
「義父上さま、義姉上さまにおかれましても、ご機嫌麗しゅう…」
形通り元就達に平伏すると、二人は、
「わしら相手にそんなに畏まらなくとも良い。紗世どののような美人にそんな改まって三つ指付かれると、此方が照れるでな」
「そうですよ。父上はともかく、私には何も遠慮せんでいいって、いつも言うてはるでしょ」
とにこにこ笑うばかりである。
「隆景ももうすぐ来る筈です。輝元、紗世どのにご挨拶を」
傍らでそう口を挟んだのは隆元であった。紗世は夫に似たこの義兄をまじまじと見てしまう。
隆景の兄という点では隆元も元春も同じなのに、この男に同じように抱き締められるところを想像しても特別な感慨は沸かない。隆景に雰囲気が似ているので、元春と一緒にいるよりはこの義兄と一緒のほうが落ち着くのだが、それは雛鳥が安全な巣の中にいる時に感じるような感覚で、鼓動の高鳴りなどとは無縁のものであった。
「ご無沙汰しております、叔母上さま」
父親に言われた通りに、輝元が挨拶をする。その様子はまだたどたどしく、
「輝元どの」
紗世はつい口元が綻んだ。
その隣で、ひっそりと影を潜めるようにして座っているのは、隆元の嫁にして輝元の母である尾崎の方。その白い項を見下ろしながら、紗世は心がざわめくのを感じた。
(この人は、隆景さまと…)
隆景が尾崎の方と密会しているという噂が、もう長いこと、侍女たちの間でまことしやかに流れている。紗世は敢えて真相を突き止めようとはしなかったが、なるほど、自分と目を合わそうともしない様子からして、強ち的外れでもなさそうだ。
「紗世、無理を言って済まなんだ。体のほうは、もう良いか」
気が付くと、背後に隆景が立っていた。元就や隆元の側近達の相手が一段落したのだろう。紗世の隣に腰を下ろして、手酌で酒を呷った。
「お蔭様で、だいぶ楽になりました」
「それは良かった。だが、今日は酒は飲まぬが良いぞ」
最後はちょっとばかし苦笑したが、咎めている風では決してない。通りかかった女中を呼び止めて、冷たい水を持ってくるよう命じた。しかし、「二人分」というのが僅かに引っかかる。
「隆景さまも、もうお酒は飲まないのですか?」
無邪気に聞いたつもりだった。だが一瞬、隆景の表情がそれとはわからないくらいに硬くなったのを、紗世は見逃さなかった。
(はて…?)
理由はすぐに判明した。もう一杯は尾崎の方に渡す分だったのだ。
「これは…気付かなんだ。隆景、気を遣わせて済まぬ」
女中が尾崎の方に水を渡すと、その夫である隆元が慌てて礼を述べに来た。
「義姉上は下戸だと伺っておりましたのでな」
隆景は穏やかに笑ってそう答えたが、紗世がちらりと尾崎の方を盗み見ると、彼女は白皙の頬をほんのりと朱に染めて、水の入ったギヤマンを見つめている。紗世には、御方の気持ちが手に取るようにわかった。もし自分が彼女の立場で、思いを寄せている男が同じことをしてくれたらあんな表情をするだろう。あの噂はやはり本物に違いない。

宴会が盛り上がり、あちらこちらで大声が響く中、
「紗世どの、一寸こちらへ」
と五龍の方に肩を叩かれた。隆景は兄や異母弟たちと話が盛り上がっているようで、中座する二人には気付かない。
五龍の方が紗世を連れ出した先は、本丸から遠く離れた居館の庭だった。
「義姉上様、いかがなされましたの」
背中に声をかけると、縁側に座るよう促された。紗世が黙って腰を下ろすと、彼女も隣に座る。
「余計なお世話かもしれぬが…あの女には気を付けるのじゃ」
形の良い眉を細めて、義姉が苦々しく呟く。
「あの女、とは…?」
紗世はほぼ見当がついていたが、確認もかねて敢えて訊ねた。
「尾崎の御方様ぞ」
その名前を聞いて、やっぱりと思う。
「あの女、隆元がいるというのに、何かあれば隆景のほうに相談しやる。まぁ、隆景がどう思うておるのかはわからぬが、尾崎の御方は明らかに下の弟に気があるのでな」
「五龍の御方様は、その…御二方が一緒にいるところを見たことがありますの」
紗世は予想していたことだったので狼狽えることはなかったが、この先の彼女の話次第では、紗世の乏しい想像力など呆気なく吹き飛びそうである。
「安芸吉田の郡山城で何回も見とるから言うてるの。そして噂をすればほら…」
そう言って五龍の方が示した先には、話に上っていた当の二人が肩を並べて歩いている。
雰囲気からして、ただの世間話というふうでもなさそうだ。紗世は愕然とした。
「そんな、まさか……」
「こないだなんかは、尾崎の御方様が隆景に縋るようにして泣いておられた。隆元にそれとなく聞いてみたのだけれど、何も知らぬと言う」
「……」
紗世は今にも二人の前に飛び出して事情を問い詰めたいのだが、五龍の方がそっと袖を引いて首を横に振る。
「まだ、完全な浮気と決まったわけではないよって、紗世どのも落ち着きなはれ」
「でも…」
(隆景さまに縋って泣いていたのでしょう?)
そう心の内で問い掛けながら、しかし冷静になると、元春と長く抱擁を交わした自分が尾崎の方を責められる立場にはないような気がしてくる。紗世は渋々といった体で座り直した。
息を潜めて耳を澄ませば、二人の会話が洩れ聞こえてくる。
「……兄上には、私から話しましょう」
「いつも隆景様にご迷惑ばかりおかけして、本当に御免なさい…。でもどうしても、殿には相談できず……」
「御方様が気に病まれるのも無理のないこと…ゆえに、あまりお気になさるな」
さめざめと泣く尾崎の方を宥める隆景の口調は、紗世に対する時と変わらず優しい。
紗世は、自分が嫉妬深いほうだとは思っていないが、流石に目の前で見せ付けられると、胸が苦しくて仕方ない。隆元がいながら隆景にも寵を受ける尾崎の方を、はっきり憎いと感じた。義姉にそんな感情を抱いたのは初めてで、紗世は当惑する。頭の中で鐘を打ち鳴らしているように、不快な耳鳴りがした。
それは警鐘に似ていて、
「隆景様…私、本当は…」
一頻り泣いた後、尾崎の方が思い詰めたような表情で顔を上げた時、思わずはっとした。紗世には、その先の言葉がありありと想像できる。
(告白する気なのだ…)
五龍の方も緊張した面持ちで状況を眺めていたが、尾崎の方が躊躇っている隙を見逃さずさっと立ち上がった。紗世を置いて早足で庭を横切り、ずいと二人に近付く。
「これはこれは隆景どのと尾崎の御方様ではございませんか」
隆景はさほど驚いた様子もなかったが、尾崎の方は傍目に見ても気の毒なほど狼狽していた。
「姉上…どうしてかような所に」
「紗世どのに付き合って貰って、酔い覚ましに城内を散策していたのですよ」
五龍の方が勢い良く、縁側の紗世を振り返る。まさか紗世に見られているとは思ってもみなかったのだろう。驚いた様子の隆景と視線が合った。
自分は今どんな顔をしているのだろう。何か言おうとしても、金縛りに遭ったように、唇が動かない。
「紗世…」
隆景が名前を呼んだ刹那、紗世は踵を返して廊下を駆けて行った。

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