虚構の恋1 | ナノ


 ――此の物語は虚構である。然し、其の総てが虚構であるとは限らない。
   何故ならば、歴史だけが残る以前、私は確かに其処に居たのだから。





   【虚構の恋】





 書き記された言葉を、気怠そうに見やった後、それを記した張本人である男、イドルフリート・エーレンベルクはくしゃりとその紙を握りつぶした。
 全身に十字をあしらった衣装を身に纏っておきながら、信仰する神など持たないとでも言いたげなその視線で、イドルフリートは彼方へと目をやった。
 そこは、暗く冷たい井戸の底ではなく、まして彼の愛した海でもない。
 もっと寂しくて、孤独で、どうしようもなくつまらない場所だ。
 何もない、何処までも広がる只の空間に申し訳程度の家具とペンや本、それから、ぽつりと窓が一つ。そこから見える外は、目まぐるしく変わるいくつもの世界。イドルフリートが触れられない、懐かしさ。 輝かしい航海は終わりを迎え、焔をなくした少年の復讐劇は幕を下ろし、皆が光へ旅立って往く。
 それでもイドルフリートは未だに取り残されたまま、ひとりだった。そこから外は覗けたけれど、もはや干渉することは出来なかった。
 少し、やりすぎてしまったのかも知れない。
 あそこは明るくて、眩しくて、己がどういう存在なのか忘れられる程には、心躍る場所だったから。
 航海士と策者、二つの顔を持っていながら、完全にその性質を使い分け、イドルフリートはそこに在ることを楽しみ続けた。
 そこに在る間、イドルフリートは確かに人であったし、海を愛する航海士だった。否、今なお、航海士である自分をイドルフリートは否定していないから、彼はやはり今も航海士なのである。
 彼が現実と呼ぶそこは、そう呼ぶには酷く混沌としていて、どちらかと言えば生きにくい場所だったのだけれど、イドルフリートが唯一惚れ込んだ男は、そんな場所であっても尚、いやむしろそんな場所であったからこそ、輝いていたように見えた。
 イドルフリートが航海士としてそこにいるようになったのは、本当に偶然でしかなかった。偶然に偶然が重なり、イドルフリートはそこに居続けたのだ。
 その時は、この何もない空間から抜け出せるくらいには、彼は力を持っていて、そこに存在できるくらいには、彼は意志を持っていた。
 それが今ではどうか。
 ここには鍵どころか扉もない。窓はあるけれど、どれだけ力を込めても破れることはない。
 イドルフリートがここから出ることは、できない。力任せに窓を殴りつけても、己の拳が紅く泣くだけだ。
 これは罰なのだろうか。
 『書の意思の総体』と同列の存在でありながら、ただ一人の男に肩入れしてしまったことへの、罰なのだろうか。
 イドルフリートは椅子に腰掛けて、机の上の分厚い装丁の古びた本を捲った。
そこに記されたのは、彼の記憶。
 『航海士イドルフリート』の輝かしい軌跡だった。







 ――曖昧な記述の頁をなぞる。


 潮風に靡かせた金の髪を、煩わしげに払った男は、己の置かれた状況を冷静に受け止めていた。
 狭い、物が散乱した路地裏。光は遮られて陰となり、全体的に薄暗い雰囲気を醸し出していた。彼の目の前には物騒な得物を手にした男が4人。背後は気配から3人程だろうか。じりじりと近寄ってくるが、彼はまだその腰の剣に手を伸ばしてはいなかった。 やれやれ、とでも言いたげに腕を振った後、彼は口を開く。
「さて、無勢に多勢の低能諸君。ここまでくれば満足かな」
 彼の言葉通り、今の状況を10人が見れば10人とも、多勢に無勢だと感じただろう。当たり前だ。彼は一人、相手は数人。いくら無勢が手練れであれど、数の暴力という言葉があるように、数を揃えられてしまえばひとたまりもない。
 しかし、その状況はどこか違った。
 金髪の男がさも余裕そうに剣も抜かず、ただ立っているだけであるのに対し、得物を持つ方は数だけ見れば圧しているはずなのに、何故か焦りの色が消えないのだ。
「なにもんだテメェ!」
「何者も何も…先程名乗っただろう。もう忘れてしまったのかな?
 仕方がない、低能諸君のためにもう一度名乗ろうか。私の名は、」
「っふざけるな!」
 わざとらしくため息をついて、落胆に似た振りをするが、声音とその内容はどうにもそうとはとれない。その様子に痺れを切らしたのか、イドルフリートと名乗る男の目の前から、彼に向かってナイフを手にイドルフリートに向かって駆け出した。
 イドルフリートが仕方ないな、と言う表情をした後、彼の目の前からイドルフリートは男の姿を消した。
 男は一瞬にして思考停止に陥るが、だからと言って直ぐに身体まで停止させることはできない。あ、と男が口にしたときには、男の身体は地面に叩きつけられた後だった。
 端から見れば難しいことではない。イドルフリートはただ、ナイフの軌道から自分を外し、足払いをしたに過ぎない。
 自らの勢いはそのままに地面とキスをした男は、腕を張ることも出来ずにそのまま顔面から行ったのだろう。鼻でも強かに打ちつけたのか、一瞬呻いたあと、そのまま動かなくなった。
「や、やりやがったな!」
「ふふ、さぁ、まとめてかかって来給え!」
 イドルフリートは楽しげな笑みとともに威勢よく言い放ち、相手を挑発する。そこまで来て彼は、ようやく相手の人数をしっかりと認識した。前に3人、後ろに4人。特に手練れもいないようだ。
 陣を敷かず作戦もなく、力に物を言わせてただ害そうとするだけでは、イドルフリートの敵ではない。
 男達の刃物や鈍器の軌道を縫うように、ただ身体を持って行くだけ。それはさながら踊っているようにも見え、一向に掠める気配すらない凶器に、男達は焦れていく。
 イドルフリートは楽しんでいた。楽しくて楽しくて仕方ない、と言う表情だった。それが更に男達の気に触ったらしい。
 もとは今の倍は人数が居たのだが、この路地裏に来るまでに、今と同じように数を減らされてしまった。それでも彼等は引かずに今に至る。
 地面に転がる男達の身体、その殆どが自滅だったが、次第に数は減っていき、残るは3人となった。
「そろそろ降参してはどうだい?」
「はっ、何を馬鹿な」
 形容するならいやらしい、ニヤニヤとでも言えそうな笑みで降参を促すが、もちろんきくような相手ではない。
 イドルフリートが喉元を狙うナイフを間一髪の所で避けようとした時、下げた足に違和感と、それから浮遊感のようなものが彼を襲う。
 果物の皮でも踏んだのだろうか。あまりにもありきたりなそれに、しまった、と思ったときには体勢を崩してしまっていて、ナイフは喉ではなく頬を掠めていった。
「つっ…!」
 古典的な、と思う暇もなく、一瞬表情を崩した男の手首を取って無理な体勢で身体を捻る。背中をつけば一貫の終わりだが、背中を見せないという余裕は今のイドルフリートにはなかった。
 辛うじて一人、地に伏せることは出来たのだけれど、体勢を整える前にイドルフリートは残った男に羽交い締めにされてしまった。
「…!離し給え低能ッ!私に触れるな!」
「へへ、ようやく大人しくなったかよ。テメェには散々世話になったからな。仲間の分まできっちり代金頂くぜ」
 くそっ、と悪態をつきもがくも、がっちりと腕を押さえられていては逃れるのも至難の技だ。
 ひゅ、と風を切る音が聴こえて、イドルフリートの脇腹に重い衝撃が走った。どうやら蹴られたらしい。
「っ…」
 声は出さなかった。
 咳き込むこともなく耐えるばかりの彼に、気をよくしたのか更に暴行を加える。
 足や腹、身体が殆どだったが、血のついた顔に手が伸びたとき、イドルフリートの背後から後頭部にかけて、また違う衝撃が彼を襲った。
 驚いたのは彼だけではないようで、彼を羽交い締めにしていた男が、それに力を緩めた隙を狙って、イドルフリートは拘束から抜け出した。
「誰だテメェ、こいつの仲間か!?」
「いやいや、俺はただの通りすがりだ」
 弱いものいじめをしているように見えたので、と答えた男に、不意を打たれた男達は後ずさる。
「大分お疲れのようだが、俺はそっちにつこうかな。さて、続けるなら相手になるが」
 イドルフリートを指さして、男は言い放った。勝ち目がないと思ったか、他の理由があるかはわからないが、男達は覚えてろ、とお決まりのセリフを言い放ってその場から走り去った。
 殴られた腹を押さえてイドルフリートが呆然としていると、男は彼に声を掛けてきた。
「大丈夫か?」
「あ、あぁ…大したことはないよ」
 姿勢を正してイドルフリートは男に背を向ける。黒い髪に良く焼けた肌、いかにも精悍そうな身体つき。
 助かった、とだけ口にして、イドルフリートはその場を去った。呼び止めるような声は、聴かなかったことにして。