見上げた月は、どうしようもなく遠かった。
手を伸ばしても、掴むのは虚空で、欲しいものに手が届いたことはないし、望むものに触れられた試しはない。
触れたいと、触れられますようにと祈ることはなかった。それは、祈ってもどうしようもないから祈りをやめた、などということではない。初めから祈ることなどしなかったし、逆に神を呪ったりもした。
繰り返されたのは復讐で、それに意味を持たせるなんてこともなく、ただ淡々と義務的に、それらを指揮していった。
其れが、与えられた役割だったからだ。
けれどそれも、もう最後。じきに迎えは来るだろう。前がどうだったかは記憶にないけれど、考えることに意味はなく、恐怖すら微塵も感じない。
何も知らない彼に役割を教えてくれたのは、同じ顔をした男だった。理由などは教えられなかったけれど、今となってはどうでもいい。その記憶すら曖昧だが、彼にとっては大切な、復讐をなぞる方法は、確かにその男から得られたものだ。
唄われた詩も今や墓標に過ぎない。彼はもういない。暁光を迎えることもなく、宵闇の中でただ眠りにつくだけだ。
見上げた月が、一瞬、涙を流すかのように煌めいた。
「あ…」
小さく声を漏らし、逃がさぬよう腕に閉じこめる。届いた心は、最後の一幕の訪れを示していた。
「策者殿、策者殿」
虚空に向かって呼ぶのは、求める人の名前。何か動作をする度にじゃらりと鳴る鎖が、今はとても煩わしい。
腕に抱かれているのは、抱く彼によく似ていた。今は瞳を閉ざし、目を覚ます気配はない。
「イドと呼べと言わなかったか、メル」
どこか気怠げに答えた男は、何もない闇の中から生まれたかのようにすら見えた。ここは異土へ至る井戸の底。既に光など届かない。
メルと呼ばれた男の腕に抱かれたものを視界に入れ、策者、イドルフリートは一歩、彼の方へ歩みを進めた。その度にふわりと漂う金色は、光のない井戸の底に於いて尚、輝くかのようで。対峙する彼、メルは眩しいとばかりに目を細めた。
「漆黒の髪に走る月光、生気の感じられない肌…目鼻立ちも、君にそっくりだな」
「それは…私は、私達は、貴方を…」
「ふふ、わかっているさ。さぁメル、」
最後まで言われる前に、メルは自らイドルフリートに口付ける。驚いたように目を見開いたのち、ぱちりと瞬かせた。
触れるだけのそれ。離され見えた表情には何の変化もなく、ただ光のない目でイドルフリートを見据えるのみ。
「一体、どういう風の吹き回しかね?」
「別に、大した理由ではないさ」
愉悦に似た笑みを乗せるイドルフリートの問いに、メルは理由を返さない。理由を述べたところで、先は何一つ変わらない。ならば、そこに理由など必要ない。
細められた目がメルを射抜いても、彼はじっと目を反らさなかった。しかし、瞬いた瞬間に頬に手をやって引き寄せられ、耳元から何かをかじるような音が聴こえた。
「…っ!?」
「ふふ、どうしたんだい。嗚呼、痛かったかな?」
「いや…痛くはない、が…何故、」
「そうだね、大した理由ではないよ」
そう言ってくすくすと笑うイドルフリートには、その時が近いことなど分かりもしないのだろう。そういう風にできているのだ。
彼は策者。彼がいなくては、この喜劇は生まれない。万物の真理から外れた童話は、策者が居てこそ成り立つものだ。
ふいに視線を下げ、新たなる来訪者へと目を向ける。彼はどんな憾みを持つのだろう。それもまた、永遠に知れぬこと。
童話が在るから策者がいるのか、策者がいるから童話は続くのか、メルにはわからない。
「私は外にいるからね」
「……Ja.」
張り付けたような笑みのまま、イドルフリートはそう言い残してその場から姿を消した。闇から生まれたように見えた彼は、今度は闇に融けたようだった。
彼が言う外が何なのか、メルは知らない。知らなくてもいい。薄々は感づいていることでもある。
腕に抱くものを見下ろす。宵闇の髪、血の通わない死した肌、隠れた瞳は、きっと月色をしている。それらはすべて、自分と同じ色。
まだ、目を覚ます気配はない。少しだけ羨ましく感じた。これから、彼はあの策者殿と一緒に居られるのだから。
少しだけ必要ない呼吸をして、メルは彼の頬に一つ口付けを落とした。
最後の仕事は、彼に全てを伝えることだった。その後どうなるのか、そんなこと今はどうでもいい。
「さぁ、Guten Morgen.メルヒェン」
何処からか用意された豪奢な椅子に座らせ、軽く頬を食みながら言葉を掛ける。それが合図かのように、同じ顔をした男はゆっくりと瞼を上げた。
ぼんやりと虚空を眺める瞳は、やはり同じ色をしていた。何も分かってはいないのだろう。それどころか、疑問すらもないはずだ。記憶には何も刻まれず、まっさらで放り込まれる異土の底。
「メル」
もう一度、名前を呼ぶ。一瞬ではあったが、ようやく目がかち合った。生まれたばかりの童話は、とても無垢な瞳だとメルは思う。
光も射し込まない暗い中でも、彼の姿ははっきりと分かる。髪の色、瞳の色、肌の色、姿形は同じでも、まとう衣服は違っていた。落ちぶれたような襤褸の自分とは違った、憾みを唄わせる者に相応しいと思う、それ。
「…」
ぱちりと一つまばたきをして、彼は何か言いたげに口を動かした。
「…何だい。言ってごらん」
「僕は……」
「ん?」
「僕、は…?」
「嗚呼、そう。そうか」
ふむ、と未だ胡乱げな表情の彼を見やって、メルヒェンは何事かを考えこむ。しばらくしてから、合点がいったような表情をして、虚空を視る童話の頬からついと撫で、顎を持ち上げる。
「君の名は、メル…メルヒェン。…それでは、君の物語から始めようか」
かちり。目と目が合った音がした気がした。同じ月の色が、揺れる。否、同じなどではない。この瞳は、情を知ってしまった自分などとは違い、無垢で純粋で、無知だ。
今はもういないあの人は、同じように自分を見たのだろうか。それも知れぬこと、知らずともよいこと。いずれは意味をなさなくなる思考だ。
「ある森に棲み着いた、賢女の物語さ」
頁を辿るようにゆっくりと、言い聞かせるようにメルは物語を紡ぐ。
月光の少年と、鳥籠の少女の哀しい童話を。光ない世界から光に触れたことは果たして幸せだったろうか。知らずともよいものは、果たして少年に何を与えただろうか。
唄うような声に、彼は聞き入るかのようにじっと、ただじっと見据えていた。それに対して何を感じ、何を考え、何を思っているかはわからない。
「何故、」
「ん?何だい、メルヒェン」
「何故その森に、親子はいたんだい」
「…それは、」
事の始まりを、最初の童話を、疑問に思ったことはなかった。
「其れは………彼が」
「おっと、そこまでだ、メル」
「っ…」
突然見えなくなった視界に、驚きはすれ取り乱すことはしなかった。見られていることは知っていたから、この童話を進める上で不都合な真実ならば止めに来るのも分かっていた。
唐突に現れた金色の影にも、メルヒェンは動じない。ただ無感情に視線を移すだけだ。己を見つめる視線に気づいたイドルフリートは、悪意のない貼りつけたような笑みでメルヒェンを見て、くしゃりと髪を撫でた。
「まだ、分かっていないような顔だね」
「……?」
「自己紹介は後でいいだろう。君の出番はしばらくはない。眠ってい給え」
そう言って瞼に手をやれば、メルヒェンは何の疑問もなく瞳を閉ざした。
まだ、足りないものがあるのだ。それを伝えるのが、メルの最後の仕事だった。
「…離してくれないか、策者殿」
「君がきちんと私の名前を呼んだら、離してあげよう」
「…イドルフリート、はなして」
「違う」
「………イド」
耳元で囁かれる毎に、動かないはずの心臓が跳ねる気がした。ひかれているのだ、とただぼんやりと思った。手を離され、向かい合う彼に、遠い碧を感じる。思えばメルは、イドルフリートの素性を何一つ知らない。何故此処にいるのか、何故こんなことをするのか。知っているのは、自らの容姿が彼を模している、ということだけ。それも、何故なのかは知らない。
細められた瞳はすべてを見透かしているようだと思った。
「まだ終わらないのかい」
「いや…」
この心が真か偽か、あるいは幻想か現実か。そんなことは些細な問題だ。少なくともメルは、彼に、触れることの叶わないものを見たのだから。
だから、祈ることを止めたのだろうか。そばにあれば充分だと思ったから。
「もう、終わるさ」
ふいに視線を外し、椅子に腰掛けたまま目を閉ざすメルヒェンを見やり、一歩近づいた。膝をついて覗き込んだ顔は、メル自身と同じでありながらどこかあどけなくも見えた。青年というよりは、少年とも言える顔だった。
両の手で包んだ頬にも何も感じない。血の巡らないそれは冷たいと言われても良いのだろうが、自らも同じなのだから、何かを感じるはずがない。
彼がこの先、策者の良き駒となれるよう願いを込めて、一つ、眠るメルヒェンの額に口付けを送る。役目を失った駒は消えるだけ。機能を失った心は眠るだけ。醒めない夢を、彼らは今も見ているのだろうか。
それも、直に知れるだろう。それを認識する機能があるかどうかは、別として。
「イド」
「何だい。珍しい」
自分から名を、呼ぶだなんて。
少しだけ口角を上げたメルを、イドルフリートは驚いたような顔をして見ていた。ぎこちないような笑顔だったが、天から差し込む月の光が仄かに彼を照らしているのが酷く幻想的で、儚げだった。
「……メル?」
「貴方は私を忘れるだろう」
「何の予言だね、それは」
「予言ではない、事実だ。変えようのない、ね」
わずかに眉を潜めたイドルフリートが、表情を変えぬままのメルを見やる。自らの持つものをメルヒェンに預け、メルはふと空を見上げた。そうして眩しげに目を細めた。
「けれど心配しなくていい。貴方の駒は必ず貴方の側にいる」
「何が言いたい」
「何度も繰り返したことだ、何も心配いらない。貴方は、一人にはならない」
「意味が解らない。屍揮者は、君一人だろう?」
やや棘のある言葉。本当に理解出来ていないのだ。前を覚えているのは、今やここにいるメル一人。唄われた詩を墓標として、今も井土の底で眠っている。
「嗚呼…そうだね」
「まったく…何を言い出すかと思えば。気でも違えたのかと思ったぞ。さて、私は次の話を誂えるから、彼を使えるようにしておいてくれ給えよ」
「あ…」
そう言い残して、イドルフリートはその場からまたいなくなった。ここから出ていったのだ。
別れを告げることすら叶わなかった。けれど告げたところで自己満足なのだから、どうだっていいか、とも思う。
彼が目覚めに至るのは簡単な事だ。メルの砂時計が落ちきってしまえばいい。自分は彼に取って、良き駒で在れただろうか。そうであればいい。彼が望みを叶えるために、メルはここに居たのだから。
暁光はまだ遠い。いつか至るだろう其処で、また逢えたなら。唇から漏れる言葉は、どこか遠い異国のもの。
「Tu fui,ego eris...」
その日を心待ちにしている。
その日が来ない事を、心から願っている。
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私はかつて貴方だった。貴方はいつか私となるだろう。
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2012.12.8