廻る歯車 | ナノ


――君は、誰?
 ――私は、君さ。
――君は何故此処にいるの?
 ――君が此処にいるからさ。
――どうして私は…?
 ――覚えていないのかい。君は…
――ねぇ、何故私は此処にいる?
 ――それは、私が此処にいるからさ。

 終わらない問答。気付けば彼は其処にいた。暗く狭い其処が、深い井戸の底だと認識するには、彼には知識が足りなさすぎた。
 何も知らない彼に知識を与えたのは、衝動でも人形でもなく。けれど愛しいお人形は、その影に気付いた節はなかったから、其れは自分にだけ感じられるのだろうとは、薄々感づいていた。
 腕に抱くのはお人形。言葉で愛を確かめ合うだけの、稚拙なお飯事を繰り返す。けれど彼は、其処に居るモノが二人だけではないという事を知っていた。
「ウフフ、愛シテイルワ、メル」
「ああ、私もだよ、エリーゼ」
 彼女は何故気付かないのか。こうして歪に愛を囁き合う今も、【彼】は直ぐ其処に居るというのに。
 後ろから伸びる手を気にしながら、彼は人形が満足するまで囁き続ける。其の手がどこに向かおうとしているのか、何をしようとしているのか。それは嫌と言うほどわかっていたから。


「私がいるのに、彼女に愛を囁くなど…いけない子だ」
 背後から伸びた手は、彼の身体に触れる前に動きを止めた。何も言わずに好きなようにさせ、立ち尽くしたままゆっくりと目を閉ざす。腕に抱いていた人形は今はなく、その手には常に持つ指揮棒すらもなかった。
「無視はよくないな…メルヒェン?」
「私が誰かを好くのに、君の許可がいるのかい?イドルフリート」
「君は私のモノだと、常々から言っているだろう?君は私が…」
「…君に、支配されているつもりはないのだけど」
 耳を貫く甘さを伴う声。唇が触れるか触れないかのところで囁かれる言葉。それが脳髄に響いたところで、メルヒェンに感じられるものは何もない。
 纏う空気の冷たさくらいは感じられずとも知れたことだが、それがわかってもメルヒェンは何もすることはない。
 イドルフリートの金糸が、ちらりと視界に映る。この狭い場所に差し込む月の光が、柔らかく其の色を照らしていた。
「君は綺麗だね」
 振り返ったメルヒェンが、イドルフリートを其の視界に捕らえてそう言った。細められた瞳は、眩しさでも感じたのだろうか。
「おや、光栄な事を。どうしたんだい、珍しい」
 くすりと微笑む表情は月光によって淡く照らされ、色を孕む。彼の持つ其れは、メルヒェンとは対照的だった。
「だが、君も美しいよ」
「寝ぼけた事を」
「おや、事実さ。宵闇に走る月光、隠れた満月。その色のない唇から発せられる艶やかな声も、全てが美しい」
「…よくそんな言葉が、すらすらと出てくるね」
 宵闇を纏う屍揮者。彼の名は、メルヒェン・フォン・フリートホーフ。死して尚、復讐に憑かれた哀れな童話。しかし、彼にとっては自分が死んでいようが生きていようが関係のない事だ。
 当たり前だ。彼には生前の記憶がない。メルヒェンは生を知らない。生きていた頃の記憶はなく、彼にあるのはこの狭い空間だけ。イドルフリートの存在すら、彼が【生まれて】ずっとあるのだから、当たり前のことだった。
 そんな彼に、彼自身の死を告げたのは、他ならぬイドルフリートで。けれど自覚のない死を告げられても、生の概念を持たぬ身では理解しようもない。
「メルヒェン?仕事は順調かな?」
「君は仕事と言うけれど、ただ物語をなぞるだけじゃないか。造作もないことだよ」
 メルヒェンの言葉をきいて、イドルフリートは笑みを更に深くした。そもそもメルヒェンは彼の笑みしか見たことはない。貼り付けられたような表情を変えることは滅多になく、また変えたとあっても口元を歪める程度。感情らしい感情など、どこにもありはしない。
 近づかれ、耳元で囁かれる言葉は、さながら衝動のようでもあった。その感傷の本当の名前など、メルヒェンは知らなかったから、ただ受け流すだけ。触れることもない上辺だけの愛だと、メルヒェンは思っていた。
 触れて欲しいなど、そんなこと、あるはずがない。エリーゼが愛してくれる。それだけで十分だ。この心は、紛れもなく自分のものだ。
「私は、私さ。それ以外の何者でもないし、何にも支配されない」
 呟く言葉に、イドルフリートは表情を変えない。彼の方こそ、何か幻めいたものを感じる。メルヒェンにしか感知できず、触れようともしない。確かに彼に全てを教えられたと言って過言はないけれど、それすら幻想なのだとしたら。
 確実に言えるのは、メルヒェンがメルヒェンであるということだったが、それすらも薄氷の上の意識のような、けれど確かなものだった。
「メル…」
「何だい、イドルフリート」
「いや、何でもない」
 ふと、寂しそうな声がしたかと思ったが、イドルフリートはやはり笑っているだけだ。
「少し休むといい。次が近づいたら、起こしてあげよう」
「ん…頼むよ、イド」
 井戸を背に腰掛けて、メルヒェンは瞼を閉ざす。遠ざかる意識をどこへやろうというのか、イドルフリートは片膝をついてメルヒェンに手を伸ばすが、触れることは叶わなかった。

 そんなことを、何度繰り返しただろうか。
 舞台上の登場人物であるメルヒェンには、記憶というものが必要ないのか、眠れば何もかもを忘れていく。策者たるイドルフリートにもそれは想定外だったが、何よりの想定外は、彼が自ら創ったメルヒェンを愛してしまったことだろうか。
 宵闇の髪、走る月光、満月を模した眸に、青白い死人の肌。イドルフリートの理想とはかけ離れていたはずだ。何故、などとは自分に訊いてもわからない。
 眠るメルヒェンの頬に触れようとして、けれどその指先が彼に触れる前に、イドルフリートは頭を振ってその手を止める。触れたところで何になる。冷たいこの手では、与えることなど出来やしない。
 いつか彼が気付くまで。その問答は、続けられるのだ。気付けば終わる。終わらせてはいけない。それではただ無為に続いていくだけだ。
「メル、私は…私は君を…」
 イドルフリートは祈るように思考を巡らせる。答えなど、最善など出て来るはずもなかった。


 濁った満月の瞳が覗く。ぼやけた視界に、金色の影がかすめた。鼻腔を擽るこの香の名前を、何と名付けたらいいだろう。きっとこれは、この暗い場所には似つかわしくないものなのだ。
 嗚呼、それの名前を、彼は知らない。
「Guten Abend、君の名前は分かるかい」
「……?」
 優しげな声で、けれど何処か尊大に、この闇の中にあって尚美しい金糸を持つ男は、今し方目覚めた彼に問いかける。彼は一度だけ口を動かし、しかしまた閉ざしてしまった。
 それを否定と取ったのか、上体だけを起こした彼と目線を合わせるべく、男は膝を着いた。
 よく見ればその瞳は、【】のようだ。そんなものは、知らないのだけど。
「……貴方は」
「私は、君だよ」
「どうして、ここに?」
「それは、君がいるから」
「何故…私は、」
「覚えていないのかい」
 ずきん、と。彼は感じるはずのない痛みを覚え、額に触れた。すると男は少し哀しげに目を伏せ、けれどすぐにまた彼と視線を絡ませてはっきりと言い放つ。
「…君は、死んだんだ。メルヒェン・フォン・フリートホーフ」
 メルヒェン。其れが自分の名か。何処か他人事のように、けれども不思議と、その名前は自分のものとしてすとんと胸に落ちた。
 黒で彩られた白い指が、金の君に触れようとして、しかしそれは、いけないよ、という男の言葉だけで制されてしまう。何故、と問うても答えはもたらされず、代わりに男の指はメルヒェンの向こうを指した。
「ぁ、」
 つられて振り返ったメルヒェンの視界に、小さな人形が目に入る。赤と黒の髪飾り、小さな顔、手、身体を覆う、ドレス。
「さぁ、メルヒェン?彼女の、名は?」
 まるで唄わされるようだと思った。その笑みの名前をメルヒェンはとうとう知らぬ儘、彼女の名前を口にする。
 それは自然と出て来たもので、それ以上でも、それ以下でもなかった。これを記憶と呼ぶのなら、そう、覚えていたのだ。
 彼女の、名前を。
「エリーゼ…」
「そう、よく出来たね。さ、抱いておやり」
 促され、取る手に。見覚えがあるかなど、彼にはわからないことだ。抱き上げたその人形は不思議と腕にしっくりと馴染んだ。
 ぱちりと開く瞼、覗く青い瞳がメルヒェンの表情を映す。漆黒の髪に混ざる銀色の光、青白い頬は男の云う通り生者のものではない。酷い隈のある瞳は、白のようなそれでいて金のような、不可思議な色だった。何より、そこに映り込む顔は、目の前の男に酷似している気がする。初めて見る顔のはずなのに、嗚呼これが私だと、すぐに理解できた。
「メル、メル」
 球体関節の少女の指が、メルヒェンの頬に触れる。小さくて、硬質で、そして冷たい。愛シテイルワと告げられた言葉が、やけに耳に馴染んだ。
「わた、しは…」
「憶イ出シテ、メル。アナタノ役割ハ、ナァニ?」
「私の、役割…」
 そうだ。いつの間にか手の中にあったそれは、恨みを、憾みを指揮するためのもの。罪には罰を。
「…裏切りには、復讐を」
「ウフフ、イイ子ネ、メル」
 気付いたときには、金の影はその場から姿を消していた。何処へ行ったというのだろう。名も知らぬ彼が立っていた場所をちらりと見ながら、寂しいと感じた等と。知らない相手に、そんなこと、あるはずがないのに。



 イドルフリートは、月を見上げていた。この森は停滞し続け、夜から移ろうことはない。
 あの月は、まるでメルヒェンだ。手に入れたいと願うのに、遠く離れていってしまう。
「アラ、策者様ガ感傷ニ浸ッテイルノカシラ?珍シイコトモアルモノネ」
「…そんな事はないさ」
「アノ子、私ガ貴方ニ気付イテイナイト思ッテイルワ」
「ああ」
「何故貴方ハアノ子ニ触レラレナイノカシラネ?キャハハハ」
 この場にメルヒェンはいない。今は深く井戸の底で童話をなぞっているはずだ。それが彼の仕事だから。
 憎たらしい人形の言うことも、分からなくはない。エリーゼはまだメルヒェンに近い存在だ。だから、触れることができる。しかし、策者たるイドルフリートは、本来は頁の外側にいるべき傍観者。自ら望み作り上げた登場人物には、触れることは叶わない。
「だが、君はあれが消えれば共に消える。やや例外とは言え、君も登場人物に変わりはない」
「…私ハイイノヨ。私ハ、メルト一緒ナダケデ幸セダモノ」
 謙虚な事をいいながら、エリーゼの口元には愉悦が浮かんでいた。エリーゼは、イドルフリートがメルヒェンにどんな想いを寄せているか知っている。言外に、貴方は取り残されると言いたいらしい。
 その意味に気付いて、イドルフリートは一瞬だけ眉根を寄せ、然しすぐにいつもの笑みに戻る。
「君はまったく。可愛くない人形だな」
「オ誉メニ預カリ光栄ダワ、偶像ノ策者様?」
 何度繰リ返スノカシラネ、とくすくす笑う人形に背を向けて、イドルフリートは目を閉じる。それはさながら、童話から逃げるように。



 彼の名前はイドルフリートと言うらしい。どこからともなくやってきて、よくわからない話をして、またどこかへ去っていく。彼が来る時は、例外はあれどエリーゼがいないときが多かった。
 彼の話は、メルヒェンには知らぬ物ばかりだった。もちろん記憶もないから、それは当たり前なのだけれど、懐かしさすら感じない、目新しいものばかりだったのだ。
 彼は普段はどこにいて、どこからやってくるのだろうか。彼の話す世界は、どんな場所なのだろうか。
「イドルフリート」
「おや、何だい?メル」
「君は一体何者で、いつもは何処にいて、何処から、何故やってくるんだい?」
「…またそれか。私はただの落ちぶれた策者だと言っただろう。それ以外は…君は知らなくていいことだ」
 随分と上から目線な回答だが、問いの答えは半分も得られていない。けれどそれ以上に。
「また…?」
 この質問を、自分は初めてしたはずだ。
「メル?」
 けれどイドルフリートの反応は、何度も同じ問いをされ、飽いたものだった。
 少し俯いて、考え込む素振りを見せる。自分の方こそ、何処から来たのだろう。無くした記憶を探すつもりもないが、存在に対して疑念を持ったことがないと言えば嘘になる。
 そして、いつも側に居てくれるエリーゼには愛慕を、知らぬ話を聴かせてくれるイドルフリートには、親愛の情を抱いている。それは、次第に芽生えていったものではなく、目覚めた時からメルヒェンの中にあったもの。
 一度だって触れてくれないイドルフリートを、寂しく思っていた。近くにはいてくれるけれど、その手で撫でられたことは一度もない。それはまるで、大きな手を待つ子どものようで。
「イド、私は…私は、誰…」
「何低能な事を言ってるんだ、君はメルヒェンだろう」
 触れてはいけないと言われた。だから触れようとすることもなかった。
 薔薇が薫る。不意に伸ばした手が、イドルフリートを掠める。触れた、と思ったのだけれど、その手には何の感触もなく。代わりに別の、何か。すり抜けたのは、イドルフリートではなく、メルヒェンの手。
「ぁ、」
「メル!」
 遠くで鳴る音は、鍵の開く音。中で守られたものが、溢れて呑まれる感覚に、足がもつれる。
 何度目かの問答と、その度に変わる【私】。童話をなぞることに造作はないけれど、それでも疲れはある。眠ってしまえば記憶は零に戻ることにも気付かず、何度彼を哀しませたのだろう。彼に創られた私ではあるけれど、彼の思うとおりにできない事に、彼をどれだけ失望させたのだろう。
「い、ど」
 そうだ、はじめは知っていたんだ。震える手を握ることも、彼はしない。できやしない。自分は、彼の描いた幻想なのだから。
 辺りに光が溢れる。エリーゼ、は、どこにいるのだろう。何故。
「メル。メルヒェン、こちらへ来なさい」
 イドルフリートに手招きをされて、井戸の外に出る。井戸を覆うように咲き誇っていたそれが、先に漂ってきた香りの正体なのだと知った。
 精一杯に咲くそれを踏み荒らしてしまうのは申し訳なくて、せめて花を踏みつけないように歩いた。
「憶い出したのかい、メル」
「……わたし…は」
「…君は、私が私のために描いた幻想の産物だ。復讐を遂げるのは屍揮者でなくてはならない。私は策者でしかなかったからな、私は、共犯者が欲しかったのだよ」
「嗚呼、憶い出したよ、イド。最初から、最期まで」
 そうして、どうなって行くかまで。イドルフリートはその後、どうするのだろう。また次に、彼の共犯者に成りうる幻想を紡ぐのだろうか。
 それは、なぜだか寂しかった。とさりと地面に腰を下ろして、メルヒェンは自らの手を見た。自覚したと同時に、無に帰そうとしていることが分かった。
「けれど、私は、」
 その先の言葉は、続くことはなかった。それより先に、メルヒェンが彼の名を呼んで制したからだ。
「ねぇ、イドルフリート。この薔薇は、私のものかい?」
「薔薇?」
「私のものなら、君にあげるよ。受け取ってくれるかい」
 無数の薔薇。それだけを残して、言葉の返事も待たずに彼はその場からいなくなってしまった。光の欠片を追う先にあるのは、満月。
「月に、帰ったのかい、メルヒェン……、だが」
 棘も気にせずにイドルフリートは薔薇を手折り、ゆっくりとした動作で顔に近付ける。それは哀しむ素振りでも、悔いるそれでもなく、ただ、浮かぶ悦楽を隠すためのもの。その数の薔薇の花言葉を、いつか語ったことがあった。
 今回の彼は記憶が脆かった。けれどそんなことは些細なことだ。これは彼が気付くまで繰り返される喜劇。
「何度君がいなくなろうと、私は君を離さない。君は、私の…」




何度目の君かなど、もう忘れてしまった。





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さよならすらも、虚構。


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2012.9.30