Rot | ナノ


 穏やかで、麗らかな、春の日の昼下がり。汗ばむような陽気もなく、ひたすらに心地よい季節。
 薔薇の咲き誇る庭を通り、屋敷の外を目指す。狭いその道でも、纏うドレスは引っかかることもない。道行く人がどれほどそこに慣れているかが、容易に見て取れた。
 背後では、慌ただしく彼女を呼ぶ侍女達の声が聞こえるが、一瞬だけ振り返っても、べ、と舌を出して悪態をつくだけに留まった。
「捕まって等やらないよ。君達はずっとそこで私を探していてご覧よ」
 ふふ、とどこか悪戯めいた笑みとともに、そう言葉をこぼしながら、足を止める事なく薔薇咲き誇る庭を駆け抜ける。その颯爽とした様は、まるで風のようだった。
 銀糸の混ざる宵闇を思わせる髪、日に焼けてなおも病的なまでに白い肌、さらに珍しいのは、月のような色をした瞳。しなやかな肢体に愛らしい色味のドレスを纏う彼女は、名をメルヒェンと言った。年の頃は16程だろうか。行く先を阻む木々をかき分ける指先は漆黒で彩られ、僅かに息が上がったか、上気する頬に朱が差す様子は、どこか幼さとはかけ離れているようにも見えた。
 薔薇の回廊を抜け、光射す森を行く。凡そ自然の緑の中には似つかわしくない姿ではあれど、メルヒェンは構うことなく目的の場所を目指す。
 森に囲まれた屋敷から、向こうに見える山の麓までが、彼女の家だ。生まれてからずっとここにいるが、彼女自身も己の家を全て把握している訳ではなく、屋敷から出たことはあっても、広大な敷地の外には行ったことはなかった。
 厳しくなるお稽古事、お勉強。自由に生きていたいのに、きっと自由は縛られる。どうせ家のために嫁がされるのなら、いっそ白痴を装おうか。
「いっ…」
 パキン、という小さな音と共に、足首に鋭い痛みが走る。思わず足を止めて確認すれば、折れて跳ねた木の枝が、そこを傷つけたらしい。白に描かれた鮮やかな一筋の赤から、じわりと血が滲んでいた。
 大した傷ではないと、メルヒェンは更に先へ歩みを再開させる。もう、着くはずだ。
 屋敷から逃げ出すのは、何も今回が初めてではない。このままでは、家に縛られると気付いて以来の、せめてもの抵抗だった。
「着いた…」
 何をするでもなく、ただ時間を潰すだけだったけれど。広大な敷地の一角にある小さな湖の畔が、彼女の心休まる場所だった。いつもの木陰に座り、目を閉じる。そうすれば、感じ取れるのは木々と水の匂い、草木が揺れる音、風が肌を撫でる触覚になってくる。メルヒェンにはそれが、何よりも癒しだった。
 そんな彼女だけの空間に響く、第三者の異質な音。
「おや」
 自然にはあるまじきその声に反応して閉ざした瞼を上げれば、視界に映り込むのは長身の男で、その姿にメルヒェンは思わず眉を顰めた。
 しかし、そんなことなど気にも止めないのか、その男は太陽を受け止めて輝く金色の髪を揺らしながら、メルヒェンに近寄ってくる。その足音が煩わしくて、彼女は無意識に視線を男から外して俯いた。
 近く寄れば、自然と見下ろされる格好となった。メルヒェンは座っていて、彼は立っているのだから当たり前だ。
「何故、ここに?」
 先に口を開いたのは、男の方だった。膝をついて、視線を合わせながらそう問うてくる意味がメルヒェンには分からなくて、つい、彼の方を向いてしまう。
 傷みを知らない金糸と、淡い浅瀬の海のような瞳が、酷く印象強い。社交場に出れば、女達は放っておかないのだろうと思える程、整った顔立ちをした男だった。
「貴方こそ、何故こんなところに?」
 きり、とまっすぐ見つめれば、返って来るのはにこやかな表情と、不遜な言葉。
「今は私が先に質問したのだよ。質問に質問で返すのは低能のすることだ」
「…私の家の敷地に、知らない者がいたのなら、問い質すのは当たり前ではないのかい」
「それとこれとは話が違うだろう。まったく、人の話もきけないのかね?ルードヴィング家のご令嬢は」
 人を小馬鹿にしたような言葉に、メルヒェンはぎりりと唇を噛む。それに気付いた男はまるで噛むなと言いたげに、そこに指で触れようとした。
 けれどもそれは、彼女が男の手をやや強めに払うことで制されてしまう。
「これはこれは…」
 払われた手をぷらぷらと見せつけるように揺らして、男は一歩下がった。
「余程のおてんばなようだ」
 にたりと笑った顔に不穏なものを感じて、メルヒェンは立ち上がろうと足に力を入れる。けれどそれは叶わず、目の前の男の手が肩を押さえつけ、ぐっと顔を近づけられた。その近さに気恥ずかしさを感じて顔をそらそうとするも、やはり彼によって顔を固定されてしまう。
「っ…くっ」
「もう一度訊こうか、お嬢さん?君は、何故、ここに?」
「貴方にそれを言う理由はないよ。手を離し給え」
 噛みつくようにそう言えば、男は一瞬きょとんとした後、はは、と声を上げて笑った。それがとても馬鹿にされているように感じ、かっとなったメルヒェンは、反射的に手を上げる。
 しかし、振り下ろされた手は、狙った彼の頬にたどり着く前に、簡単に止められてしまった。
「へぇ…?」
 そのまま目を細めた彼が、するりと頬に指を這わせて、
「…っ、む、!!?」
 先程よりもずっと近くなった。唇に触れる湿った感覚への驚きと恐れにメルヒェンは身体を堅くするが、それでも彼は執拗に唇を合わせ続ける。
 頑なに閉ざされた唇を楽しみ、割り入るように擽るように、押しては引くように舐め続ける。
 しかしいつまで経っても、震えたままその先を許さない彼女に何を思ったか、男は唇を離した。
 吐息を漏らすメルヒェンが、口の端から伝う糸を拭いながら男を睨むと、彼はすっと目を細めて笑う。
「何を、する…!」
 嗚呼、真っ赤に染まる表情が愛らしい。男は端正な顔に笑みを貼り付けたまま、メルヒェンの顎を再び持ち上げた。
「ふふ…すまないね。あまりにも、愛らしい表情をしていたものだから」
「…そんな言葉で無礼を許すと思うのかい?早くどいてくれないか……え、と」
 そういえば、彼とは初対面だった。素性は愚か、名前も何も知らない。呼ぶ名も知らぬ相手に口付けを許したなどと、到底誰にも言える話ではない。
 するりと頬を撫でられ、顎を取られる。向き合わされた視界に映る男は、深い海色の目を細めたまま、ただ笑った。
 再び唇が触れるのではないかと思うほど、近い。それでも目をそらすことなく、メルヒェンは男を見据えた。そして、その唇は、再度彼女を苛むことなく、言葉だけが紡がれる。
「私の名は、イドルフリート。イド、と呼んでくれ給え」
 にこりと微笑まれた男の言葉に、メルヒェンが一瞬目を見開いて、すぐに彼と同じように笑みを浮かべた。
「では早速だけど、イド。早くどいてくれないか?」
「おや、私は名乗ったのに、君は名前も教えてくれないのかい」
「それは貴方が勝手に名乗ったんだろう?私が名乗らなければならない理由にはならないさ。それに」
 依然、イドルフリートを威嚇するような視線を向けるメルヒェンが言葉を途切れさせた。接続詞を反復して、彼がその続きを促す。
 途絶えた言葉の先を、メルヒェンはイドルフリートの瞳を見据えたまま、投げつけるように吐き出した。
「貴方は、もう私の名など、疾うに知っているものと思っていたけれど?」
 言葉に含まれた棘など、イドルフリートはものともしない。けれど、今度は彼の方が、驚きの表情をする番だった。それはほんの僅かな、小さな変化でしかなかったのだが。
 見上げてくる強気な瞳が、イドルフリートに揺れることはない。その滅多にない月色が、怯えに揺れることはない。
 くすりと笑む彼に対して、表情を綻ばす事のない彼女。けれど、するりと頬を滑る指に、小さく肩を跳ねさせたのを、イドルフリートは見逃さなかった。
「嗚呼、君は賢いね」
「先程は低能と呼ばれたと思ったが」
「おや、根に持つ質かな…そんなことはどうでもいいさ。そうだね、君は賢いが…」
 そこで言葉を切り、彼は品定めをするかのような視線で彼女を見下ろす。まだ幼さの残る顔立ちは、イドルフリートより幾分か年若いものに感じられたが、美しいと形容するに相応しい様相をしていた。
 胸元の大きく空いたドレスは、愛らしさを感じさせる色味でありながら、彼女の白い肌を引き立たせるものだ。メルヒェンの持つ、両手に余るほどの果実の間を強調しながらも、色気のようなものとは縁遠くさせている。まだ、彼女は、少女なのだ。
 その纏う布の下には、華奢な体躯が隠されているのだろう。先程の口付けでも良くわかる。まだ色を知らない、無垢な蕾だ。
「君はまだ、何も知らないね?メルヒェン・フォン・ルードヴィング」
「なっ……んっ!!」
 にこりと微笑んで、反論しようと開いた彼女の唇を、再度己のそれで塞いだ。メルヒェンはイドルフリートの肩を押したり、胸板を叩いたりと抵抗を見せるも、少女の腕力で男が怯むはずもない。
 先程と同じように、口腔への侵入だけは防ごうと堅く閉ざした努力を嘲笑うかのように、彼の手が徐にメルヒェンの胸元へと伸びた。
「ひゃ、ぁ…!?ふぁっ」
 驚いて声を上げた拍子を狙って差し込まれる、生温いもの。それが男の舌だと言うことを気付くのに、気が動転していた彼女には数拍の時を要した。
「んっふ、んぅっ」
 くちゅりと鳴る水音。何故自分がこの男に口付けられなければいけないのかわからなくて、余計とメルヒェンは混乱する。
 我が物顔で動き回るそれに呼吸まで奪われて、段々と苦しくなった。生理的な涙を浮かべながら薄目を開ければ、男にはそんなことは微塵もないようで、涼しい顔で唇を貪っている。
 それが悔しくて、メルヒェンはせめてもの抵抗にと、差し込まれた男の舌に歯を立てた。
「っ…!!」
 それに驚いたか、彼は唇を離した。
「これは、想像以上だね」
 ふと漏れた呟きは、何の意味があるのだろうか。酸欠であるが故に、ぼんやりと霞がかった思考では、何も考えられるはずもなく、荒い呼吸を繰り返しながら、潤む瞳でイドルフリートを見上げる。
 解放された安心感と、早く此の場から逃げないとという想いから、メルヒェンはもぞりと身体を動かすが、背後には木、目の前にはイドルフリートで逃げ場などない。
「…離れて、くれないか」
 ぐいと口元を拭いながら、涙目ながらも強気なその姿勢を、崩したくなった。
 細めた瞳にどんな色が宿っているかなど、メルヒェンには知る由もない。わかったところで理解できなかったかもしれない。
「やっ…!」
 足元からするりと手を這わせれば、上質な布の下からは滑らかな触感が伝わってきた。それ以上は捲られまいとメルヒェンはドレスを両手で押さえるが、そうすれば上は無防備になってしまう。哀しいかな、人に腕は二本しかない。
 抱き寄せるようにしながら俯くメルヒェンの柔らかな髪に口付けると、ふわりと甘い香りが漂った。ふと目を向けた先に、細く白い足首が覗く。
「…これは?」
 一筋の赤い色は、すでに血も凝固しているが、肌の白さと相まって、イドルフリートの目にはとても映えて見えた。その傷に指先を這わせながら問うが、メルヒェンは唇を噛んだまま答えようとはしない。
「こら、噛むんじゃないよ。ほら答え給え。この傷はどうしたんだい?」
「ふぁ…っ、あ、く、来る…とき、ふ、木の枝で…」
 噛まないようにと無理矢理口を開かせ、その中に指を突っ込んでやる。喋りづらいのか、途絶え途絶えで吐息混じりに話す様子が、色を煽った。
 溜息混じりに笑みを零して、イドルフリートはメルヒェンの白い足を持ち上げ、傷に口元を寄せる。
「……?」
「消毒もせずに…化膿でもしたらどうするんだい?」
「ひゃっ…」
 そのまま固まった血を舐めとるように舌を這わせた。ちらりとメルヒェンの様子を伺えば、頬を朱に染めながら、必死にその感覚に耐えているようだ。
 足首から、するりと太股まで指を這わせ、白い肌の滑らかさを堪能する。彼女の口から抜き去られた指はそのまま、輪郭から首筋を伝って年の頃の割に豊満な胸へとたどり着いた。
「いい、本当に良い…」
 何とかそれ以上は触れられまいと、腕だけで抵抗を見せるメルヒェンであったが、その細い腕では男の力に適うはずもなく。
 露わにされる自らの身体に気恥ずかしさを覚えると同時に、何をされるかわからない恐怖に震えた。
「ひぃ、ぅ…っ一体、何…をっ…」
「無垢な御嬢様は、ただ身を委ねていればいいよ。直に何も考えられなくなるさ」
「ふぁ…っ」
 衣装の留め具を外され、取り払われていく布。白日の下に曝される、性を知らない身体に、イドルフリートは息を飲んだ。
 これまで何人もの女性を相手にしたけれど、此は、狂わされる。
 ゆっくりと触れられたそれは柔らかく、まるで細い枝に実る、収穫を待ち望んでいる果実のようだった。頂に触れ、美しい月色を涙で濡らしながら肩を震わせる様は、イドルフリートの目には誘われているようにしか映らない。
「さわ…触らないでっ…やぁ…っ!」
「抵抗は、君が辛いだけだが?」
 ぺろりと耳を撫で、吐息を吹きかけるように、イドルフリートはメルヒェンに囁く。太ももを撫でていた手は、そのまま秘められた場所へ向かった。
「んっ、」
「怖いのかい?怖いだろうね…?初めてなのだろう?」
「……っ」
「君が私に心を開いてくれるなら、優しく愛してあげよう」
 首筋を舐め、甘く噛むと、メルヒェンはふるふると首を振る。言葉での拒絶はない。快感に不慣れな彼女は、既に口を開けば甘い吐息しか漏れないのだろう。だからこうして、必死で態度に見せ、拒絶する。
 生理的な涙で濡れた瞳が、綺麗だと思った。手に入れたいと思った。まるで宝石だ。外に触れた事のない、純粋で無垢な宝石。
 力の入らない手で肩を押してくるメルヒェンの両腕を片手で捕らえて、イドルフリートは再度メルヒェンに口づけた。
「んっんん…っ」
 メルヒェンの、誰にも触れさせたことのないだろう其処に、イドルフリートのしなやかな指が優しく触れる。
 目を見開いて驚き、先程より強く抵抗を見せた。唇を解放してやれば、喘ぎとともに漏れ出るのは拒絶と疑問の言葉。
「やっ…なん、でっ…ふぁ…!」
「ふふ…っ!」
 男の表示に浮かぶのは、愉悦。暴き立てる指先は、優しさを纏いながらも凶暴で、今まで知らなかった男と言うものが、メルヒェンにはとてもおそろしい物に思えてならなかった。
 恐怖感を煽られて、メルヒェンの瞳からとうとう、水膜が破れて雫が頬を伝う。
「ひっく…ぃゃだ…いやだっ!」
 振り払った手が、イドルフリートの頬を掠める。それに驚き彼の手が止まったことで、拘束から逃れることが出来た。
 暴き立てられた布をかき集めて、自分の身体を抱きしめながら、メルヒェンはただ泣く。初めて触れる恐怖感が、限界を超えてしまったらしい。
「ゃ、やぁ…ぐすっ、」
「お、おい…」
「いやっ触らないで…触るな…っ!」
 本格的に嫌々と泣き出してしまったメルヒェンを見て、イドルフリートは彼女から距離をとった。
 しゃくりあげるメルヒェンの肩に触れながら、泣き止まない彼女に焦りを見せる。
「ひぐっ、ふっ、く…」
「め、メルヒェン…」
 その様子は、最初の気の強さからは到底かけ離れていて、イドルフリートの目からすれば、幼い少女のようにも見えた。
「悪かった、だから、泣き止んでおくれ…」
「えぐっ、」
 嫌われてしまうのは計画には入っていない。そもそも今日は、行為に及ぶ予定ではなかったのだ。少しずつ、本当に少しずつで、ゆっくりでいい。
 イドルフリートは結局、メルヒェンが泣きやむまで、泣き疲れて眠ってしまうまで、一定の距離から離れることも、近寄ることもなかった。



 目を覚ました時、見慣れた天蓋がそこにはあった。
 いつのまに戻ってきたのだろう。何か、とても怖い想いをした気がする。目も何か、腫れぼったく感じる。
 ぼんやりしていると不意にノックの音がして、部屋に入ってきたのは弟のメルツだった。メルヒェンとは対照的な、眩い月光に似た銀の髪。血のような緋色の瞳。
「メルヒェン?大丈夫?」
「メルツ…私は、」
「エーレンベルク卿に、何もされなかった?」
「エーレンベルク…?」
 聴けば、その男は、メルヒェンを抱いてこの屋敷に来たらしい。父と親しげに話す姿を見て、知り合いなのだとはすぐわかったそうだ。腕に抱かれた彼女は眠っていて、話をしていたら眠ってしまったから、放っておくわけにもいかずに送りに来たのだとは、後に父からきいた話だという。
「…エーレンベルク」
「メルヒェンは無防備だから。ねぇ、本当に大丈夫?」
「……大丈夫さ」
 笑顔は作れているだろうか。声は震えていないだろうか。メルヒェンの返答にメルツは一瞬表情に影を落とし、彼女の身体を抱き締めた。
「ねえ、メルヒェン。君が自由になりたいのは知ってる。家の為に嫁がされたくないのも知ってる。何れこの家を継ぐのは僕だ。君が望むのなら…」
「メルツ。君がそれを言ってはいけないよ。私は私のやり方で、私のやりたいようにさせてもらうから」
 メルツが言いたいことはわかっている。彼も彼なりに考えてくれているのだと。けれど、それに甘えてしまうのは何かが違う気がした。
 何の解決にもならないのかも知れない。ヴェッティン家からの打診もある。早くしなければ。気だけが急いて、空回りしてしまう。
「だから、心配しないで」
 イドルフリート。森で逢った男が、メルヒェンを屋敷まで運んだのだとは見当がつく。本当にあれは偶然だったのだろうか。
 誰もが意図しないところで、何か面倒事に巻き込まれそうにも思えて、メルヒェンは深く息を吐いた。



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運命の分かれ道


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2012.9.29