憧憬 | ナノ


 微睡みの中、嗚呼またか、というある種の諦観にも似た心境にいた。
 まただめだったか。彼は一体、何を望んでいるのだろう。次は、次こそは。
 次第に黒から白に塗りつぶされる彼の世界で、微かな温もりを感じて、彼は自身の世界から引きずり上げられるように、意識を浮上させた。
 目をあければそこは白い天井で、白以外何もない、淋しい、しかしそれは確かに始まりの空間だった。
「………?」
 ずっとそのままの体勢だったのだろうか、少し身じろぎをすれば、ぎしりと関節が音を立てたような気がした。
 痛みは感じないはずだ、と彼は思うが、心がその感覚を覚えているのだろうか、それは確かにあるようにも思われた。
 それでも背中はそこまで痛まなかったから、背にあるのは柔らかいものだというのはわかる。
 白い、天蓋のある、広い寝所。
 首だけ動かして周囲を見渡せば、椅子に腰掛ける見覚えのある後ろ姿があった。
「イヴェール、ローラン」
 敵意を隠そうともせずに彼が小さくそう呟くと、人影はその声に反応するように、彼の方を向き、柔らかい微笑みを見せた。
「J'ai encore vu...イドルフリート」
 こいつはいつもそうだ。人の話など聴いてなどいない。何度呼ぶなと言ったところで、聞き入れられた試しなどはない。
 苦虫を噛み潰したような表情をした彼は、かつて美しいと言われた自身の金髪をくしゃりと握り締め、イヴェールと呼んだ彼を睨みつけた。
「何を怖い顔をしているんだい?イドルフリート。嗚呼、いつものようにイドルくん、と呼んだ方が良かったかな?」
「……その名を口にするな」
 反吐が出る。続いた言葉を唸るように吐き出して、髪を乱したイドルフリートはチッ、と一つ舌打ちをした。口癖すら出てこない。
 明らかに敵意を剥き出しにしているイドルフリートだが、イヴェールは意に介した様子もなく、椅子から立ち上がると靴を鳴らしてイドルフリートの方へ近寄った。
「つれないなぁ、どうして君はいつもそんななの?」
「…五月蝿い、」
「僕だって、君が帰ってくるのを楽しみにしているんだよ」
「黙れ…」
「ねぇ、イドルくん。今度の童話は、どんな話なんだい?」
 イヴェールは、ここから出ることはない。生まれる前に死んだ彼が存在できるのは、ここだけだ。
 にこにこと裏のない笑顔が、イドルフリートにとっては何よりも恐ろしかった。
  Hiver Laurant
 冬の名を冠する彼は、名の通り無垢で、無邪気で、そして誰よりも残酷だった。
 まるでお気に入りのおもちゃを離さないかのように、イヴェールはイドルフリートを逃がさなかった。
 それは、そこに自分の世界がない、と言われているようで。
「…ッ」
 そこまで思い至って、イドルフリートはふるふると小さく首を振った。考えるな、私は、私を必要としてくれる場所へ、自由なあの場所へ還るのだから。
「ねぇ、イドルくん。君は逃げられないんだよ」
 頬に手を添えられて、そのあまりの冷たさに、イドルフリートは息を呑む。
 さながら、雪のような。
 溶けることのない、永遠の冬のような。
「何を考えているんだい?…あぁ、イドルフリート航海士。君はまだそこを、諦めていないんだね」
「うるさい…」
「もう6回目だよ。メルくんも可哀想じゃないか。イドルくんさえ諦めれば、すべてが丸く収まるんだ」
 真っ白い場所で、永遠に捕らわれろというのか。そんなのは御免だ。それを享受できる程、イドルフリートは狂ってはいなかった。
 いっそのこと、狂ってしまえば楽になれたかもしれないが、イドルフリートにはすべきことがある。こんなところで、うかうかしているわけにはいかない。
 それを見透かしたかのように、イヴェールはくすりと笑って、イドルフリートを見下ろしながら言った。
「必ず其処で会おう、だっけ?よくそんな約束、できるよね」
 忘れたわけじゃないでしょう?君の役割、とイヴェールは耳元で囁く。
 イドルフリートはイヴェールの襟を掴み、力任せに引きずって今まで自分がいたそこへ叩きつけた。
 軽い。驚く程軽い身体。
 柔らかいそこはただイヴェールを受け入れるだけで、彼の背を打つことはなかったが、沈んだ上にイドルフリートがのしかかり、腕を首へと押しつけた。
 そこまでされても、イヴェールが動じることはなかった。
 ぐ、と首に体重をかけ、イドルフリートはイヴェールを睨む。
「君が、それを、口にするな…!」
 確実に絞まっているはずなのに、イヴェールは表情一つ動かさない。
 気味が悪い、とすらイドルフリートは思った。背筋に悪寒が走る。
 怒りを見せるイドルフリートを、さぞ面白いとでも言うように見上げてから、イヴェールはくつくつと喉を鳴らし、笑った。
「そんなことをしても死なないよ、僕は。生まれてすらいないんだからね」
 イヴェールは両の手でイドルフリートの頬に触れた。びくり、とイドルフリートの肩が揺れたが、イヴェールは気にもせずに続ける。
「それに、僕が消えたところで何も変わらない」
 地平線は巡り続ける。役割からは解放されず、永遠に縛られたまま。屍揮者も、策者も、悪魔も、狼も。そして、天秤ですら。
 イドルフリートがそれに捕らわれた理由は、彼自身にはわからなかった。運命だった、と言ってしまえばそれまでではあるが、イドルフリートとて一度は夢を描き、海を、そして自由を愛した身。こんな何もない、ただ回り続けるだけの場所で捕らわれるなど、まっぴらだ。
「私は!」
「あの将軍がそれほど大事?」
「…っ」
「ねぇ、イドルくん」
「黙れ…!」
 約束がある。忘れていてもいい。忘れていて構わない。
 けれど何も持たないイドルフリートにとっては、代え難い約束だった。
 そのために、彼を利用するのに罪悪感はあれど、何も言わずにここまで来た。
「君は、いくつの約束を抱えれば気が済むんだい?」
「…解放されるならば、いくつでも」
「そう。じゃあ、僕とも約束してよ」
「…誰が」
「あと一回。次、メルくんとの約束を果たせなければ、もう諦めてよ」
 異を唱えようとしたイドルフリートを無視し、イヴェールは約束を口にする。
 イドルフリートは表情を変えなかった。代わりにイヴェールの首を押さえている方とは逆の手を、ぎり、と血が滲みそうな程握り締める。生憎と、この身体はそうはならないのだが。
 分の悪い賭けは嫌いではなかったが、後がないというのは心許ない。
 時間がないわけではないが、彼との『約束』は受けるべきか、イドルフリートは僅かに迷ったのち、イヴェールから離れて言った。
「…私には果たすべき約束がある。それを果たす前に、私は終われない」
「…成立だね」
 売り言葉に買い言葉かとも思ったが、そこでまた逢うためならばどんな約束も交わそう。
 その表情に、どんな意味があるかは推し計れなかった。
イヴェールはイドルフリートの視界を両手で優しくふさぎ、耳元でそっと口を開いた。
「さぁ――」
 往っておいで、イドルフリート。
 イドルフリートは言葉を発する暇もなく、彼のその意識を彼方へと追いやったのだった。











 再び深く眠りについた男を、イヴェールは酷く寂しそうに見下ろしていた。
 彼は、イドルフリートに嫌われていることは充分に承知していたし、仕方のないことだと諦めてもいた。
 そして、次、このような形で彼がここに戻ってくることが無いだろうことも。
 生まれてすらいないイヴェールとは違い、幾度か死を迎えたとは言えイドルフリートは確かに生きていたし、今も生き続けている。
 繰り返す光と闇の童話は、恐らく光で走るのを止めるのだろう、とイヴェールは思っていた。
「イドルくん…」
 もう、彼が傷つくのは見たくなかった。
 何度も井戸に落ち、衝動に飲まれ、やがて異土に足を踏み入れて、絶望を繰り返しながら、イドルフリートはそれでも諦めなかった。
心をすり減らし、壊れてしまう前に諦めて、此処にいてくれれば、もう彼は傷つかなくて良い。
 最初はそんな想いからした約束だった。
 イヴェールは再び、元いた椅子へ腰掛け、その前に置かれた赤い石を見る。
 小さな口、七の苦悩、小さな川、緋い葡萄酒。はじまりの嘘。
 顔の前で手を組んで、さながら祈りを捧げるような姿勢で、イヴェールは目を閉じて呟いた。
「イドルくんのそれは、夢かも知れないよ。それでも、」
 きっと彼は約束を果たす。メルヒェンとの約束も、イヴェールとの約束も。最初で最後の、最大の約束も。
 嗚呼、大事な気持ちほど届かないものだな、とイヴェールは苦笑した。
「またしばらくひとりかあ…」
 寂しそうにしながらも、イドルフリートがしあわせならばいいか、とイヴェールは思う。
 それで役割から逃れられるものではないのだろうけれど、それすら糧になるのなら、再会を夢見て微睡むのも悪くない。
「誰か起きてこないかな」
 一人で地平線を見続けるのは、退屈だ。せめて話し相手がほしいな。そう彼は思う。
 双子姫は一緒にいてくれるけれど、話し相手という点ではいささか心許ない。さみしいと思う感情は抑えられるものでもなかったけれど、それもイヴェールは耐えるのだろう。彼は、地平線を描き続ける彼らが大事だから。
 そこでしか存在できないイヴェールとは違い、ここから羽ばたける者達を想い、ただ彼は唄うのだった。

 ――その世界には君が、生まれて往くに至る、



****
君が笑える世界を、僕は探し続けるよ


戻る
2011.10