君が願う物語1 | ナノ


 白々と夜は明け、辺りが光に溢れていく。嗚呼、これが物語の終わりか、と、私は息をついて傍らに立つ疲れたような青年の手を掴んだ。
 繰り返された復讐劇ではあるけれど、これももしや筋書き通りの事なのだろうかと思う。動かない空は急激な変化を始め、其処には朝と夜の境界線が出来始めた。
 かつてと言うほど昔では無いが、私は彼と約束をした。共に既に死んだ身だが、この宵闇の森から出る時は、必ず二人でという約束だ。だから私は、掴んだその手は決して離さないように、光の先に手を伸ばす。
「メル、行くぞ」
「……イド」
 やっと、この陰気な場所から抜け出せると、そればかりに必死だった私には、彼がどのような表情をしていたかなど、到底知るはずもない。そしてそれは、私が生涯、知ることの出来ないものになろうなどと、その時は考えてもいなかったのだ。
 その時の私は、溢れる光の目映さに、温かさに夢中だったと言えよう。だから、その手が振り払われようなどというのは、思ってもみなかったことだ。
「メ…っ」
「イド、――――」
 急に解けた手に驚き、振り返ったその先に、柔らかな笑顔が目に焼き付いたまま。そうして私は、世界に別れを告げた。







 目を覚ました時、彼は冷えた板張りの床の上に倒れていた。窓から差し込む光は明るく、嗚呼朝か、と何の気なしに思って、それから無意識に動かした関節が軋む感覚に、ゆったりと身体を起こした。
 見渡せば、教会の中の小さな部屋だ。かつて誰かが、書き物をするためにでも使っていたのだろう。小さな窓から外を覗けば、先は朝だと思ったけれど、太陽の高さは彼に昼だと教えていた。
 しかし、何処を見ても、彼の探すもの見つからず、彼は小さく声をかける。その声が震えていたなどというのは、彼は否定するだろう。
「…メル?」
 返答は、なかった。あまり抑揚のない声色で、それでもどこか嬉しそうに、イド、と彼を呼ぶ声は聴こえない。ここではないところにいるのだろうか。必ず共に、太陽の下へ行くと約束したのだから、彼もどこかにいるはずだ。
 彼が倒れていた小さな部屋には、彼―イドルフリートの他には誰もいなかった。もちろん隠れる場所も見当たらない。ならば、外にいるのだろうか。
「メル」
 戸を開けた向こう側に溢れる光に、イドルフリートが目を細める。扉を開けた先にある井戸は、先程までと寸分変わらず、そこに合った。不意に背後を見上げても、其処にあるのは先と同じ、教会だけ。違うことと言えば、その向こうにあるのが夜空ではなく、青空であるということくらいだろうか。
 メル、と幾度か声をかけ、周囲を見渡してみる。それらしい人影は何処にもない。隠れん坊でもしているのだろうか、そう言うことは好むようには思えなかったが、とイドルフリートはさくりさくりと小さな教会を回ってみた。足元には、夜露に濡れた苔藻ではなく、色とりどりの花々が彩っている。
「メル?出て来給えよ」
 イドルフリートが先程より少し大きな声で、周りに聞こえるように問いかけるが、返ってくるのは風の音や鳥の声ばかりだ。ざぁ、と風が一瞬強く吹いて、目を背けたイドルフリートの視界の隅に、野ばらで覆われた井戸が映り込んだ。
 そういえば、井戸に落ちたのだった、まさかあの中に、と考えて、彼の足が早くなる。いくらか焦燥に駆られていたのも事実だった。
 井戸の前に立ち、目を閉じて一つ深呼吸をする。何を緊張しているのか、イドルフリートにも分からない。そのことに彼自身も驚き、苦笑を漏らした。覚悟を決めたように一度閉ざした瞼を開けて、そして覗き込んだ、井戸の中。
 其処には、何もなかった。
 湛えていたはずの水も、勿論、彼の姿も。思わず井戸の縁に手をかけて、身を乗り出した。けれどもやはり、枯れ果てた井戸の底が見えるばかり。底には、何もなかった。
「メル…?悪ふざけも大概にし給えよ…」
 冷や汗が伝う。嫌な予感しかしなかった。無理矢理作ろうとした笑顔は、口元に酷くガタガタな弧を描かせるに止まった。
 何故いないのか、約束だったではないか、そんな疑問ばかりが頭を過ぎる。別の場所にいるのか、とも考えたが、彼がそんなことをするとは思えない。
「つっ…」
 引いた手に痛みを感じて、イドルフリートは己の手を目線の高さまで上げる。野ばらの棘に引っかけたのだろう、一筋の傷からうっすらと血が滲んでいた。
 彼はぼんやりと、赤い玉が手のひらを伝うのをただ見ているだけ。その痛みに、どこか違和を感じながら。
 不意に背後から、小さく物音が聴こえて、イドルフリートは振り返る。メル、と呼びながら、イドルフリートは協会の戸を凝視する。音は、あの中からかと思う前に、身体はそこに向かって歩き出した。歩幅が大きくなる事も、早足になることも止められない。
「メルッ!」
 勢いよく開けた扉の先に、彼の望むものはいない。音がしたのは、気のせいだっただろうかとイドルフリートは肩を落とす。
 どうしたらよいか分からずに、部屋の中に歩み入るイドルフリートの視線の先に、一冊の本が目に入った。紺に近い背表紙に、掠れた箔押しの文字。それが長く時を経ていることは、装丁を見る限り明らかだ。
「………光と闇の童話…?」
 まるで吸い寄せられるかのように、本に手を伸ばす。何とか読める本のタイトルにはそう書かれていて、イドルフリートは安直な、と思いながら本を開いた。



 確か、そうだ。私がそこで目を覚ました時、既に彼はそこにいた。翻る闇色の髪に、いくつかの銀筋、月のような瞳が、こちらを見ていた。
 先程、井戸をのぞき込んだとき。何者かに背を押され、逆らえず井戸に落ちたはずだが、気のせいだろうか。そう錯覚させるほどには、感覚は現実的だった。
「ねぇ、ねぇ君、目は醒めたかい?」
「………っ」
「嗚呼無理に動かなくてもいいよ、直に慣れるだろうから」
 そう言った彼は、首を傾げて私に目を合わせてくる。不思議な色だと、しばらくその目を見返していたが、そんな私に彼も目をそらすことはなかった。
「…どうしたんだい?」
「、ここ…は?」
「ああ、ここはイドの底さ」
「井戸の…?」
 そう嬉しそうに、目を三日月のように細めて言う彼が、何故そんな表情をするのか、私にはわからない。何も言わないで居ると、彼はずいと更に顔を寄せて、私を見てきた。
「わかって、いないのかい?」
「…?何を、」
「君は、死んだんだよ?」
 事も無げにそう言ってのけた彼は、私の手を取り、指に歯を立てる。彼の言葉がすぐに理解できない私はされるがまま。彼の歯が食い込み、不快感のようなものはあれ、痛みは感じなかった。
 まさに突然のことであった。ふふ、と笑う彼の表情を、私はただ見ることしかできない。死と言う事実にも、現実味のない意識にも。こんなに意志ははっきりと残っているのに、死んだなどと分かるものか。
 しかし、痛みのない、皮膚が破れても血が勢いなく滲むだけのそれも、私に現実を突きつけることしかしてくれなかった。
「僕は君を待っていたんだ」
「私を?」
「イドに呑まれずに此処まで堕ちて来られる人を待っていたんだ」
 でないと物語が先に進まなくて、とどこか恍惚の表情で言う彼が、一番現実的ではないような気もしたけれど、私はそれでも彼の話を聴いていた。
 航海を待たずして死んだというのに、何故私がこれほど今を受け入れているのか、私自身理解はできていない。
「僕は屍揮者であるらしいけれど、僕だけでは何もできない。だから、君に譜面を書いてもらいたいんだ」
「私に?しかし、私はそういった方面は…」
「大丈夫、君の衝動を、そのまま描けばいいのだから」
 ね、とどこからか出してきた羽ペンを握らされ、後には引けないような気すらしてきた。半ば強引ではあるが、それもいい。
 自然と沸き上がってくるような不可思議な感覚は、彼の言う衝動というものだろうか。底に渦巻く何かが、冷静になれば手に取るようにわかる。大きなものは七つにわたり、ずるずると周りを這いずっているように思えた。
 私がそれを見ているのが分かったのか、彼はやはり嬉しそうに表情を歪めた。自分の目に狂いはなかったと、そう言いたげに。
「やっぱり策者は君だったんだね。ねぇ、君の、名前は?」
「………イドルフリート」
「イドル、フリート…では、イド、と呼ばせてもらおうかな」
「それで良い。して、君は何という?」
「メル」
「…それは愛称か?フルネームは?」
 そう問えば、困ったようにメルは、わからないとだけ告げる。
「そうか…では、君の名前はメルヒェン。Märchen von Friedhofだ」
 我ながら安直だと思う。墓場の童話などと、人につける名ではないが、恐らくは彼も私と同じ、死んだ身の上。名を持つ意味も既にないのかもしれないが、それでもそう、彼に名を付けたくてしかたなかった。
 もちろん私にもそれの意味は分からなかったが、ふとメルヒェンが纏うものに視線が行く。それは、スーツのようでもあったが、余りにボロボロでその体を為していない。じゃらりとなる鎖飾りは、不思議と私のものに似ていたが、縛られるように身体を這う鎖は、細い体躯の彼が纏うには、どう見ても重そうだった。
「その服は、屍揮者というには不似合いだね?」
「ん、そうだろうか?僕にはよく分からないが……、そうならば、君が描いてくれないか。屍揮者に相応しい衣装を…」
 ほら、と言われると同時に、彼の冷たい手で視界を覆われる。屍揮者に相応しい衣装、と言っても私自身、芸術に造詣が深いわけではないから、指揮者というものが実際どうなのかと問われれば分からない。
 私の想像しかないが、赤いベスト、纏うのは私と似たようなもので良いだろうか。ストライプの入ったケープつきの燕尾服、靴はブーツが良い。細部は私のものと大差なくていいだろう。あとは、黒と赤の羽で飾った指揮棒があれば、完成だ。我ながら良い出来だと思う。
「もう、いいかい?」
「うん」
 手を離されれば、驚いた。今思い描いた衣装を身に纏ったメルヒェンがいたのだから。
「メル…?」
「ふふ、これが君にとっての屍揮者に相応しい衣装なのだね」
 君のものと似ているね、と後ろ布をひらひらさせながらメルヒェンは楽しそうにくるりと回ってみせた。
 何となく、理解した。これが衝動を描くということか。なるほど、これならそう難しいことではなさそうだ。
「お気に召したかい?」
「嗚呼、とても」
 うれしそうな様子に、それはよかった、と私が言う前に、甲高いような、少女の声が割って入る。それは、大分下の方から聴こえた気がした。
「メル、アラ、着替エタノネ」
「エリーゼ!どうだろうか?」
「ウフフ、トッテモ似合ッテイルワ、メル!」
 声のする方を見やれば、その持ち主は人形であった。それもまた驚いたことではあるが、私がまだ動けているのだから、人形が動く事もあるだろう。いや、彼女は人形ではなく、今や少女なのだ。
 メルヒェンがメルとだけ名乗っていたのも、彼女によるところが大きいらしい。ひょいと軽々と彼女を抱き上げ、メルヒェンは慈しむように笑った。
「名前ももらったよ。メルヒェン、と。ほら、彼、イドだよ」
「アラ、貴方…」
「イド、彼女はエリーゼ。僕の友達さ」
「フロイライン、初めまして」
「初メマシテ、イド?」
 小さな手と交わす握手は、とても不思議なもののように思えた。
「イド、もうわかっただろう?さぁ、物語を始めよう」
 急かすようにそう言うメルヒェンは、どこか幼子のようにも見えた。まるで寝床で話の続きをせがむ子供だ。
 私は、そうだな、と苦笑してから、メルヒェンの頬に触れ、僅かに低い背を補うように顎を持ち上げた。
「まずは君からだ。さぁ、唄ってごらん…?」
 そうして奏でられる宵闇の唄。それが私の知る、メルヒェンと私との出会いだった。



 捲る指先はどこか重く、イドルフリートは溜息を零した。『童話』『鳥籠』『魔女』。この話は、イドルフリートの知らぬものであった。それは、メルヒェン自身と、彼の幼なじみ、そして母の物語。
 そしてこの中で、メルヒェンが自分と同じように、井戸に堕ちたのだと知った。正確には、落とされた、のだったけれど。
「メル…」
 童話の名を冠した彼の名を継いだ物語。メルヒェンの物語。そんなような気がする。不思議ではあるけれど、思うに、彼自身、何故己が井戸にいるのかはわかっていなかったように思う。
 イドルフリートがメルヒェンに唄わせた宵闇の唄は、彼の一つの物語であり、彼の屍揮者としての性質を位置付ける為にも必要なものではあった。イドルフリートが作者であるなら、自らは表に出るべきではない、という物語に志向性を持たせるための唄だ。
 メルヒェンに辿らせた童話が、この本なのか。そんな非現実的なとも思うが、先程まで自分がいたのは、まさしく非現実な場所だったから、それを考えれば、何ら不思議はないのではなかろうか。
 暗く狭い井戸の底。あれが現実ではないとは思えない。彼らは死んだはず、だった。それを幻想とするには、些か現実的すぎた。そんなことを考えながら、不意に、手のひらに目を遣ったイドルフリートが、先程井戸で感じた違和感に漸く気づく。
 痛みが、在った。メルヒェンに噛まれた時には確かに無かった痛みが、そこにはあったし、血も滴り落ちた。手のひらに爪を立ててみても同様に、だ。
「………?」
 おかしい。胸に手を当ててみても、どくりと規則正しく脈打つ心臓は、確実に生者のものだ。つまり彼は今、生きている。
『君は、死んだんだよ?』
 メルヒェンは確かにそう言っていたし、井戸に堕ちたという認識はあった。イドルフリートは混乱した。現実と、否、現実だと認識していたものが噛み合わない。けれど、手に走る痛みも、そこから滲み落ちる赤い玉も、イドルフリートが生きていることを鮮明に伝えるだけだった。
「どういうことだ…?」
 確かに、井戸に堕ちた前後の記憶が酷く曖昧だ。気づいた時には井戸の底で、メルヒェンに見つめられていたと言っても過言ではない。
 思い出せ、とイドルフリートは自分で自分を問い詰めた。井戸に堕ちる前、自分は何をしていたのか。そもそも何故自分は此処にいるのか。
 ここにいるのは、出航が近かったからだ。イドルフリートは航海士だ。船長に無理を言って、自分の故郷に届け物をするためにこの森を通った。確か、4日ほど時間が欲しいと言ったはずだ。彼は、お前がいないと航海は始まらない、と言いながら許してくれた。
 そして無事届け物は終わり、帰りに通ったこの森で、この教会を見つけ。何気なく惹かれるように入ったそこで、この本に触れたのだった。そうだ。これはずっとここにあった。
 其処から先は、見入っている内に夜になっていたのだろう。不思議と本の内容は覚えていないが、はっと気づき、外に出たところで、
「背中、押されて…」
 井戸に、堕ちたのだったと思う。思えばこの本に触れた時、ざわりと室内なのに空気が嫌に動いたような気もした。
 もし。自分の推測が、やや幻想めいていても正しいのなら、イドルフリートは今までこの書物の世界にいて、先にこれに囚われていたメルヒェンと童話を作っていた。頁を捲っていくと、イドルフリートが描いた少女たちの衝動が、メルヒェンが指揮した童話が確かに其処には描かれている。
 しかし、童話と唄の狭間でしかなかったイドルフリートとメルヒェンの出会いは、物語からは排除され、イドルフリートの名前だけが、綺麗に忘れ去られたようにどこにもない。
 まさか、メルヒェンは、まだここに囚われたままなのではなかろうか。パラパラと捲る頁、文字の書かれたその最後は、暁光で終わっているのだけれど、やはり其処にもイドルフリートの名はなく、メルヒェンだけが屍揮者のまま、暁光を迎えたそのままで、止まっていた。
「メル…」
 手を、振り払ってしまったから。何故自分だけが出てこられたのか、イドルフリートにはわからない。けれど、彼が手を振り払ったことで、彼だけが残されてしまったのなら。
「必ず君を、助け出す」
 イドルフリートは一つそう呟いてから、その本を懐にしまい、教会を後にする。記憶が曖昧なせいで、どれだけ時間が経ったのかはわからない。船は、出てしまっているだろうか。時間はわからないが、急がなければならない。イドルフリートは、港町への道を駆け出した。



 メルヒェンと約束をしたのは、丁度4つ目の童話を終えた時だと思う。怠惰の衝動は既に昇華し、一つの物語へと変貌を遂げていた。
「船乗りで、井戸に堕ちて死ぬなんて…君くらいだと思っていたけれど」
「何だ、何が言いたい?」
「いや何も…」
 くすりと笑う顔。メルヒェンは、私が勝手にどこか表情に乏しいと思っていただけであって、考えた以上によく笑う。ただ、それが表に出にくいだけだ。あまり変わらないだけだ。
 その声に抑揚はあまりないが、何となく、彼の僅かな変化も分かるようになっていた。
「あの子、君によく似ていたように思うけど、まさかと思うが…」
「何だね。私の身内ではないよ。似たような境遇の娘なんて五万と居るだろう」
「そう?」
 私が航海士であるというのは、すでにメルヒェンは知っている。海とはどういうものであるのか、船とは、陽の光とは、メルヒェンはよく私に話をせがんだ。何も知らないのだろうか。どうやら彼の記憶の始点は、この井戸であるようだった。それならば何も知らないのは当たり前であるように思えた。
 童話を謳った復讐劇の狭間の領域で、私とメルヒェンは確かに互いを分かり合っていった。メルヒェンを形作るものは、屍揮者という性質だけであったから、正確には、メルヒェンに私を伝えたというのが正しいだろう。
「ねぇイド、海はどんなところか、もっと教えてよ」
「もっと、と言うがな…」
「ダメなのかい?」
「いや、君は私の話を聴くより、実際に君の目で見た方がいいだろう」
「ん?」
 目を瞬かせて、メルヒェンは私をじっと見つめる。小首を傾げるその仕草はどこか無垢で、幼いものだった。身体こそ青年のものではあるけれど、まるで子供のまま、身体だけ大きくなったようだ。
 向かい合わせに座るメルヒェンは、私にもたれ掛かったまま、顔だけはこちらを向いている状態。人肌恋しいのか何なのかよく分からないが、メルヒェンはよく抱きついてくる。どちらも死んだのだから、そこに温かさなどないのだが。
「君は物事を知らなすぎる。私から話を聞くのではなく、自分で見て、感じ給えよ、メル」
「自分で…?」
「そうだ。想像するのもいいが、やはり君自身の目で見た方が、ずっと楽しいぞ」
「ん…じゃあ、君が案内してよ、イド」
「私がかい」
「イドから聴いた世界だから、イドが僕に教えて」
「……いいだろう。そのためにはまず、この話を終わらせて、森から抜け出さないとな」
 するりと触れた頬はやはり冷たく、それでもメルヒェンは心地良さそうに自ら私の手にすり寄る。まるで、猫のようだ。
 此の森は、どこまで行っても、どれだけ遠くへ行っても、戻ってくるのはこの井戸だった。それはまるで、森だけで世界が完結しているだとイドルフリートに思わせた。すべての衝動を唄わせるまでは逃がさないとでも言いたげに、どれだけ離れても、気づけばこの井戸に戻ってきているのだ。目的など、意志などは分からなかったけれど。
「約束だ」
 差し出した指に、メルヒェンは一瞬戸惑うような表情を見せた。まさか指切りを知らないのだろうか。ほら、と手を取ってやれば、彼はおずおずと小指を私に絡めてきた。
「…約束」
 どこか泣きそうな、けれど嬉しそうな表情。それの意味するところは、私にはわからなかった。けれど確かに、私はメルヒェンと約束をしたのだ。



 明るい。当たり前だと思っていた陽光が、これほど明るく有り難いものだとは、今まで考えもしなかった。鼻腔をくすぐる潮の香り、どこかぺたりとした風が、彼の肌を撫でていく。
 イドルフリートは、とある港町にいた。彼が所属する船が停泊しているはずの町だ。どれだけの時間が経ったのか、その流れさえ曖昧だが、町の様相が変わっているようには思えず、イドルフリートはひとまずそこに安堵した。まだ船がいるのか、それとももう出立してしまったのか。感覚も曖昧な彼にはわからない。手にした本を抱え直して、イドルフリートは港へと足を進めた。
 くぅ、くぅ、とカモメの鳴く声が耳に心地よく入ってくる。やはり己の場所は海なのだと、再度認識をした。建物の合間から見えた影に、自然と早足になっていく。まだ、まだいるのだろうか。そんなに時間が経っていないのだろうか、と、イドルフリートは歓喜を表情に出すことを抑え、足早に駆け抜ける。途中で人にぶつかりそうになったのも、持ち前の運動神経の良さから回避して、ただ船を目指した。
「は、はぁ…っ、は、ぁ」
 荒く息を吐きながら、落ち着かせるように仰いだそれは、間違いなく自分が乗っていた船だ。太陽の逆光のせいで、酷く眩しくてイドルフリートは目を細める。
「イド!?」
 不意に背中に掛けられた声に、イドルフリートが振り返る。もう聴くこともないと思っていた声だった。酷く懐かしく感じたイドルフリートは、少しだけ鼻の奥が痛んだような気がしたが、それでも気丈に笑って言った。
「コルテス、帰ったぞ」
「帰ったぞってお前…っ、本当、心配したんだぞ、4日経っても戻らないから…!何かに、巻き込まれたのかと…」
 コルテスの安堵しきった表情で、心配掛けたのだというのはわかったが、その弛みきった顔は人前には曝さないで欲しいなどとイドルフリートは思う。
 潮風に曝されても一切くすむことのない金糸が、遊ぶように揺れ、細められた海の瞳を隠す。一瞬閉ざされた視界の淵で、船長、コルテスがこちらへ向かってくるのがわかったが、イドルフリートがその場を動くことはなかった。
 抱き寄せられた感覚。僅かな痛みと温もりが、イドルフリートにこれが現実だと実感させた。
「ふふ、私がそんな簡単にくたばるとでも思ったかい?」
「実際に4日過ぎて7日目で戻ってきたやつが言うなよ。待つのも限界だったんだぞ…」
「嗚呼すまないな、巨乳の美人と戯れていたらつい」
 くすくすと笑うイドルフリートの頭を、コルテスは呆れたように小突く。彼は何かと人を抱きしめる癖があるから、もう慣れっこだ。と言うよりも半ば予測していたことだ。
 3日。コルテスは今日で7日目だと言ったから、あの曖昧な中での観測の誤差は、それだけだと言うことになる。もっと長い間、囚われていたように感じたのだが、けれどもこうして嘘をついてもどうしようもないコルテスが言うのだから、それは間違いないのだろう。
 もちろん、イドルフリートにとっての事実を言っても受け入れられないだろうから、あのことを誰かに言うつもりは全くない。
(3日、か…)
 時の流れにすら鈍感で曖昧で、それでも3日などという時間では有り得ない。
(メルヒェン…)
 鞄にしまった本に囚われているはずの彼を思い出し、コルテスに抱きしめられたまま、そっと瞼を閉じる。きっと彼はそこで、今も誰かを待っているはずだ。
「出航は?」
 す、とコルテスの肩を押しながら、イドルフリートは口元に微笑みを乗せて言う。
「お前がいいなら、明日にでも」
「嗚呼、それがいいな。しばらくは雨の気配もなさそうだ」
 肌に感じるそれが、改めて現実だと思えて、イドルフリートはさらに笑みを深くする。嗚呼海に戻れるのだという喜びと、この場に約束した彼がいない虚しさが綯い交ぜになって、とても複雑な心情が渦巻いていた。けれどひとまずは、誰かに悟られるべきものではないと、彼はただ笑ったのだった。