ラストベル | ナノ


 そして、夜は終わりを迎えるだろう。役割を亡くした衝動には、やがて本当の意味での喪失が訪れる。ただ一人だけを残して。
 宵闇からいずれ至る暁光。最後の童話とその狭間。彼は、未だ闇に包まれた空をぼんやりと眺めている。胡乱な視線で先ばかりに気を向けるメルヒェンの背を、イドルフリートは無表情に、動くこともせずただじっと見守っていた。そこからは、何の感情を読みとることも不可能だ。
 染められていた闇色が、抜けるような白にも見える錯覚を覚え、イドルフリートが頭を振ると同時に、ただぼんやりと虚空を眺めるだけに見えたメルヒェンが、徐にイドルフリートの名を呼ぶ。
「…………イド、」
 やけにかすれている気がする声が、イドルフリートの耳に届く。かさりと足元を鳴らして、イドルフリートはメルヒェンを背後から抱きしめた。
 恐る恐ると言った風に、自らの胸辺りに回された腕に触れる。彼が今何を考え、何を思っているのか。それを知る術は、イドルフリートにはない。
 頬を撫でる空気は、先ほどまでとは違い、さらりと動いて流れていく。揺れた金糸に、メルヒェンは泣きそうな顔を伏せた。
 眩いほどの追想に触れ、記憶の洪水に飲まれてしまうかのようだった。腕に抱いていた少女はもとの人形へと姿を変え、もう動くことはない。その愛らしい唇が名を呼ぶことはおろか、今は虚ろな瞳がメルヒェンを見ることも同様に。
 この先に何があるのか、イドルフリートは知っているのだろうか。彼はメルヒェンの知らないことでも、何でも知っていた。遙か遠い外の世界のこと、空がどれだけ蒼いのか、海と呼ばれる水たまりがどれだけ広いのか。その向こうには何があるのか。復讐劇の合間、エリーゼが不在の折には、よくその話をせがんだものだ。イドルフリートは苦笑をしながらも、最後には様々な話を聴かせてくれたのだった。
 宵闇の森しか知らないメルヒェンには、彼のどんな話も新鮮に思えた。森の外、大地の向こう、さらには海の彼方に想像を膨らませ、心に描く。いつか行ってみたい、実際に見てみたいなどと言うのは叶わぬ願いだと知っていたが、かつてイドルフリートの生きた世界を、己も感じてみたかった。些細ではあるけれど、永遠に手に入らぬ希望だ。
 すべての復讐劇を、定められた童話の記述を終えた今、酷い虚無感に苛まれ、己が己でなくなるような、指先から感覚が崩れ落ちるような気すらした。
 これが、とメルヒェンは震える声で呟く。触れた彼の手はどこかあたたかく、自分がどれだけ冷たいのか理解できた。この訳の分からない虚無感の先に何があるのだろう。イドルフリートなら、分かるのだろうか。
 与えられた童話を役割に従ってすべて終え、月光の記憶を朧気ながら取り戻した。それでも尚、メルヒェンにとってこれは初めての感覚だったから、背中に感じる光に縋るしかない。
「イド…ねぇ、イド…」
「何だい」
「ねぇ、僕、どうなるんだい…?」
「………メル…」
 イドルフリートは何も言わなかった。何も言わずに、ただ腕に力を込めるだけだった。答えがないのがとても怖くて、メルヒェンは彼の名を何度も呼ぶ。
 知っているのか、知らないのか。そこに明確な正解は存在しない。イドルフリートが口を閉ざしているからだ。ぎゅっと腕を握り、震える足を叱咤したが、遂に堪えきれずにその場に座り込んでしまった。
「メル…?」
「ぁ、イド…」
 身体こそ青年のものの筈なのに、怯えたように向けられる視線は、やはり幼く思えた。仕方がない。彼は幼いままなのだから。
 メルヒェンに目線を合わせるために地面に膝をついて、月に懸かる雲を払うように、イドルフリートは彼の髪を掻き分けた。月に似た瞳が、不安げに揺れる。
「立てないのかい?」
「何か、腰が、抜けてしまって…」
「ふふ、仕方ないな」
 くしゃりと髪を撫でられる。その感覚がくすぐったくて、思わず身体を竦めた。いつだって、彼は容赦がない。
イドルフリートが浮かべた僅かに困ったような微笑みを見て安心したのか、メルヒェンもぎこちないながらも笑顔を見せた。
「わっ…」
「大人しくし給え、落としたくはないからね」
 にこりとほほえんだその表情のまま、ぐいと引っ張り上げられたかと思えば、次にはイドルフリートの腕の中に収まっており、その体勢を認識した途端、メルヒェンの頬にさっと朱が差した。
 それは所謂、姫抱き、というもので。軽々と持ち上げられて、メルヒェンは言葉を失う。腕力の差だろうか。反射的にイドルフリートの首に腕を回して、見られないようにと顔を伏せた。
「軽いな、君は」
 うつむいたメルヒェンに髪に唇を寄せ、口づけるイドルフリートの行動が、またメルヒェンの羞恥心を煽る。それに気づいたか気づかないか、くすりと笑むイドルフリートは、メルヒェンを抱いたままで歩を進め始めた。
 その向かう先に疑問を持ち、メルヒェンが口を開く。
「あちらではないのかい?」
 あちら、と視線を向けたのは、今まで居た井戸の方だ。イドルフリートが向かっているのは、その向こうの、朽ちた教会。今まではずっと井戸にいた。だから、そう問うたのだけれど。
「君はもう、衝動から解放されたのだよ」
「イドから…?」
「そうさ。だからもう、そんな陰気なところにいる必要はない」
 そう言って、また一つ口づけを贈られる。今度は額だった。
 そこに柔らかく暖かい感覚を受けながら、そうだったのか、とメルヒェンは心の中で呟いく。やけに軽い手足も、妙にすっきりした思考も、だからなんだろうか。
 教会の中は暗かった。光源などないし、ましてまだ外は暗いまま。それでもイドルフリートは、踏み外す事なくしっかりとした足取りで階段を上っていく。まるで、はっきりとものが見えているとも思えるくらい、迷いのない歩みだった。
 古びたそれは、場所が悪ければ踏み抜いてしまうかと心配するほどに、ぎしりぎしりと音を立てる。螺旋階段の終着点、扉の向こうは、母と過ごした居室がそのままで遺されており、メルヒェンにはそれがとても懐かしく、目の奥が痛んだのを感じた。
「ムッティ…」
 イドルフリートに身体を預けたまま、メルヒェンはぽつりと呟く。部屋を見渡している彼には、イドルフリートが優しく、けれど困ったように笑っていたことにも気付かない。
 傍らに置かれたベッドも、あのときのままだ。埃っぽくはあったのだけれど、母と過ごした時のままだ。そこに腰掛けるように下ろされ、イドルフリートはメルヒェンに向き直った。
「さて、足は動くかな?」
「ん…動くよ。腰が抜けただけだからね」
 普段と変わらない様子でも、イドルフリートが心配してくれていると言うのは十分よくわかる。足をさすりながら見上げてくるのは海色の瞳で、自分とは対照的だとメルヒェンはぼんやりと考えた。
 イドルフリートは、例えるならば滄海の記憶だと思う。海を渡った記憶。かつて航海士だったという彼が、海と対話し、空に傾聴し、風と戯れていたのだというのは、容易に想像できた。海の瞳と金の髪は、造形こそ似通っているメルヒェンとは正反対だ。こんな淡い月の光の下ではなく、眩い太陽の下であったなら、さぞ彼は輝いて見えるのだろう。その姿を見られないことが、実に惜しい。
「さて、ひとまず休み給え。また起きたら、君のしたいことをしてあげよう」
 寝台に押しつけられて、頬を両手で支えられたまま、イドルフリートは己の額をメルヒェンのそこへと押し付ける。眠くないよ、と言いたかったけれど、有無を言わさない瞳に至近距離で見つめられて、メルヒェンは渋々ながら目を閉じた。
 目を閉じれば、意識が微睡みに沈むのは容易いことだった。



 遠くで鐘が鳴る。重苦しい鐘の音だ。
 頭の片隅でその音が響くのを認識して、メルヒェンは瞼を上げた。映り込むのは夜空ではない。木目調の、見覚えのある天井だ。そうか、とメルヒェンはまた目を伏せそうになったが、それは掛けられた声によって阻まれた。
「起きたかい、メルヒェン」
「ん…」
「スープ、飲むか?」
 差し出された器を取ろうと、メルヒェンが身体を起こす。どうしてこんなものが、と言う疑問の解は、メルヒェンが問う前にイドルフリートによって得られた。
「不思議なことだが、ここにある食材、一切腐らずに残っていたのだよ」
 原理はわからないがね、と言うイドルフリートは、傍らに置かれた椅子に腰を掛けながら、メルヒェンを見て笑った。同じように寝台の縁に腰を掛けようと、もぞりと身体を動かそうとして、違和感に気づく。
「……?」
 右の足が、ついてこない。動けと言う命令は、ちゃんと出しているはずなのに、その電気信号を無視するかのように、足が動かない。あれ、どうしたのだろうという疑念から、焦りへと変わるのに、大して時間はかからなかった。
「メル?」
「どうしようイド、どうしよう…」
「メル…?どうかしたのかい…?」
「足…、動かないや」
 温かいだろう、湯気の立つそれをチェストに置いて、イドルフリートはメルヒェンの横たわる寝台の傍らに膝をついた。不安定に身体を支える腕をはずし、背中に自らの腕を差し入れて、寝台に座るようにさせるイドルフリートに、メルヒェンはただされるがまま、イドルフリートに抱きあげられるしかない。
 童話が終わったという事実。衝動からの解放。何となく感じる、嫌な予感。 伸びてきた手が、メルヒェンの頬を抓った。いたい、と声を上げると、イドルフリートはにこりと微笑む。もう少し、力加減を覚えて欲しいのだが、それは言わないでおく。
 イドルフリートがメルヒェンのブーツを脱がせれば、白い足が姿を見せる。病的なほど、透き通るような白だった。頬と同じように彼はそこを抓ったけれど、痛みは感じなかった。
「ふむ」
「イド…?」
「メルヒェン、君は死んでいる」
 一つ唸ったかと思えば、そんな当たり前のことを言われて、突然のことにメルヒェンは戸惑う。けれどそれは知ったことではないと言いたげに、イドルフリートは言葉を続けた。
「だが、君は今、頬を抓られた時に、痛いと言った」
「何が、言いたいんだい?」
「つまり君は、感覚を取り戻しているということだ」
 確かに、今イドルフリートに抓られた頬は痛かったし、触れた指先の冷たさもよくわかった。今なら、あの器が熱いこともよくわかるのだろう。
 だが、それがなんなのだろうか。
「……メルヒェン、君は何がしたい?」
「え」
「君の望み、できるだけ叶えてやろう」
「ぁ、と………」
「君は今まで、私の言うとおりにしてくれていたからね。褒美だと思えばいい」
 さらりと髪を撫でられて、メルヒェンは立ち上がったイドルフリートを見上げる。無表情なようでいて、どこかつらそうに顔を歪めているようにも見えた。その理由は、メルヒェンにはわからない。
 手渡されたスープの器は、やはり手にじんわりと熱さが染みてきた。ゆっくりと口元に運べば、美味しそうな香りが鼻腔をくすぐり、メルヒェンは甘いかぼちゃのそれを、コクリと嚥下する。優しいその味が、とても嬉しかった。
「すぐでなくていい。しばし考え給え…また起きたら訊こう」
 ぽんぽんと頭に手を置かれ、メルヒェンがイドルフリートを見る前に、彼は背を翻して外へ行ってしまう。
 イド、と呟く声は当然、彼には聴こえない。どうしようか、と思ったが、片足が動かない状況で歩き回るわけにもいかず、メルヒェンは再び寝台に転がることにした。
 空になった器をチェストに戻し、動かない足は腕で持ち上げて、ころりと仰向けになる。天井はやはり、月夜ではない。
「何が、したいのだろう」
 自問するように、メルヒェンは言葉にする。イドルフリートはいつも不器用に優しいけれど、今はもっと優しい。やはり何か知っているのだろうか。しかし、教えてくれないということはつまり、自分は知らなくてもいいということに他ならないのだとメルヒェンは思う。
 願いなんて一つだ。イドルフリートを知りたい。メルヒェンは彼と一緒に居たのに、イドルフリートのことを知らなさすぎる。
 戻ってきたら、そう言おう。メルヒェンはシーツに顔を埋めて目を閉じた。
 また、鐘の音が聴こえる。



「くそっ…!」
 そんな悪態と共に、イドルフリートは傍にあった木を殴りつけた。熱くなるのは己の手のみというのはわかっていたが、そうせずにはいられなかった。
 メルヒェンは、一時的に感覚を取り戻している。つまり生前に戻ったと言って差し支えがないだろう。しかし、彼が動かないと言った右の足。あれを見るに、次に彼が向かうのは完全なる停止だ。
 やっと、やっと終わったのに、彼には何も赦されないのか。そう仕向けたのは紛れもないイドルフリート自身ではあるけれど、無条件で慕ってくれる様子に、思慕の情が湧いたのも事実。一度衝動に絡め捕られれば、役割を全うするまでイドの鎖は彼を縛り続ける。しかし、それが終わった後どうなるのかは、イドルフリートにも知り得ぬことであった。
「…メル」
 雛鳥が親を慕うように。口こそどこか大人びていても、それはイドルフリートの口調のせいでもあって。けれど真っ直ぐに見てくる視線は、実に純粋なものだった。
 我ながら勝手だと自嘲した。終われば、屍揮者としてでも策者としてでもなく、二人でいられるのかと、そんな甘い事を考えていた。それほどまでに、惹かれていた。
 それが創造物故の庇護なのか、そうでないのかはイドルフリートにもわからない。あるのは只、愛しいと思う心だけ。
「メルヒェン…」
 井戸の傍ら、綻びかけた薔薇を一輪と、座り込む少女を模した人形を抱き上げ、イドルフリートはメルヒェンの待つ部屋へと戻っていった。
 また一つ、荘厳ともとれる、重い鐘が響いた。



 遠くで、名前を呼ぶ声がする。
 優しげなそれは酷く心地よく響き、さらに眠りに誘うが、ひたりと額に当てられた手の冷たさはそれを許さず、水中から引きずり上げられるように、メルヒェンの意識を覚醒させた。
「メルヒェン?」
「んぁ、…イド…?」
「動けるかい?」
 そう言われて、メルヒェンは身体を動かそうとした。先に動かなかった右の足は勿論のこと、どういうわけか左の足も、そしてさらには左腕も力を込めても動くことはなく、だらりと下がってしまっていた。
「……そうか」
 一向に起き上がる様子のないメルヒェンを見て、それを気づいたのか、イドルフリートは寝台に横たわったままの彼の頬を一つ撫でた。不安げに瞳を揺らしてイドルフリートを見上げるメルヒェンは、彼の手に頬を擦り寄せて、ゆっくりと目を閉じた。
「何処が動く?」
 そう問えば、閉じた目を開いてゆっくり逡巡したあと、こっち、と右腕をゆるゆると上げる。イドルフリートはほっと一つ息をつきながらも、早くしなければという焦燥にもかられていた。
 先ほど撫でていた頬に唇を落とし、動く方の手を首に回させる。何、とメルヒェンが問う前に、イドルフリートは易々と彼の身体を抱き上げた。それに驚いて、メルヒェンは右腕に力を入れるが、片腕だけでは上手く身体を支えられるはずもない。
「イド、そういうことをするときは、ちゃんと言ってくれないかい…?」
「言えば君は嫌がるだろう?大人しく状況を享受し給えよ」
「そんなこと…」
 次第に動けなくなるなんて、認めたくない。これは、イドの言う衝動から解放されたせいなのだろうか。否、動けなくなっても、彼が側にいてくれるのならば、それでもいいと思った。
「そんなこと…、何だい?」
 にやにやと笑う顔はいつも通りで、それは自分を心配させまいとしているからなのか、それとも本当にいつも通りなのかはわからなかった。
「…一人では、座ることも出来ないだろう?」
 大人しくし給えよ、と微笑んだ顔に影が見えたのもおそらくは気のせいだ。右腕だけで必死にイドルフリートにしがみついて、彼の胸に頬を寄せ、顔を伏せた。きっと情けない顔をしているから、それを見られたくなかったのもある。
 当然そうすれば、イドルフリートの顔も見えないので、彼が今どんな表情をしているかはわからない。ふわりと頭に柔らかく触れる感触がして、嗚呼彼はどうしてこうも、と目を閉じた。
 不意に歩き出したイドルフリートによってメルヒェンが座らされたのは、よく母がいた安楽椅子。よくここに座った母に抱きついたっけ、とメルヒェンは過去を懐かしんだ。
「これなら肘掛けもあるしな。バランスを崩して転ぶことも無いだろう」
 それも、しっかりと右腕で支えられればの話だが、とイドルフリートはメルヒェンの頭をぽんぽんと撫でる。見上げた顔は相も変わらず笑顔で、自然にメルヒェンの頬も緩んだ。
 安楽椅子の横に丸椅子を運び、イドルフリートがそこに腰をかけ、くしゃりとメルヒェンの髪を梳きながら、さて、と彼に問いかける。
「君はどうしたいんだったかな?」
「僕…」
「そう、君だ」
「僕は…、貴方のことが知りたい」
「私の?」
 一瞬目を開いて、髪を梳く手を止める。何故だか、その視線がおかしくて、メルヒェンはわずかに口角をあげた。そうして、ずっと考えていた希望を口にする。
「貴方の見た世界、感じた空気…貴方が生きる場所を、僕は知りたい」
「…そうか」
 それだけ言ってイドルフリートの目を見ると、彼はにこりと、ふわりと笑みを浮かべたまま、髪に絡めた指を引く。そのまま立ち上がったイドルフリートは、メルヒェンの頭を一つ撫でてから窓の外に目をやった。
 メルヒェンもつられてそちらを見ると、視界の隅に見慣れた人形が映る。エリーゼ、と掛ける声も、どこか力無い。もう彼女は、メルヒェンを見ることがなく、呼べど返事をすることもない、只の人形なのだ。彼女のとなりには、手向けられるようにバラが一輪、花瓶に生けられている。
「イドが、エリーゼを運んでくれたのかい」
「まぁ、放っておくのも忍びなかったからね」
「……ありがとう、」
 そうイドルフリートに伝えれば、彼はメルヒェンの黒髪を乱すように撫でた。一瞬見えた照れたようなその表情が、メルヒェンには何故かよく分からなかったけれど。
「どういたしまして。さぁメルヒェン、行くぞ」
「……?」
「何て顔をしているのかね?君が望んだことだろう」
 言い終わるか終わらないかくらいで、イドルフリートは椅子に座ったままの彼を腕の中におさめる。彼の顔が近くて、メルヒェンはどこか恥ずかしくなり、イドルフリートの首に手を回して、きゅっと抱きついた。
 また軽々と抱き上げられて、メルヒェンの矜持がわずかに傷つくが、どんなことでもメルヒェンがイドルフリートに勝った試しはない。いつでも彼には言いくるめられ、からかわれていた。だからここのところの優しさは、何だと思う反面で嬉しくもあって。こんな風に彼に触れられることもなかったから、なおのことだ。
「ふふ、そんなに抱き締めなくても、私は君を落とさないよ。尤も、君がそうしたいなら止めないがね」
「………ん」
 半分は冗談のつもりだったのだろう。更に力を込め、首筋に顔をうずめたメルヒェンの態度に、イドルフリートが小さく息を飲んだのが、密着している彼にはよくわかった。
 背中を規則正しく叩かれて、まるで寝かしつけられるようだと思った。けれど、寝てしまってまた知らぬ間に喪うのは恐ろしくて、彼にしがみつくことで沈む意識に抗った。



 さくりさくりと歩を進める足元の草は、どこか湿り気も感じて、イドルフリートの足元を濡らした。会話もなく、メルヒェンは己を抱くイドルフリートの息遣いを耳にしながら、彼の肩口に額を押しつける。
 どこへ向かっているのか、イドルフリートは教えてくれなかった。ゆっくりと明るくなる空が、夜明けが近いことを告げる。
「メル」
「………」
「メルヒェン」
「…………………」
「おい低能」
「何だい」
「どうしてそれで返事をするんだい…」
 心底呆れたようにイドルフリートは息を吐いたが、要はタイミングの問題だ。返事をしようと思った時がその時だった。それだけのことだ。
 その間もイドルフリートが歩みを止めることはなかった。相も変わらずさくさくと土を鳴らし、彼が目的とする場所には、まだ辿り着かないらしい。
「君は、軽いな」
「そうでもない」
「いや、軽いよ」
「君が馬鹿力なんじゃないのかい」
「ははは、言うなぁ、メルヒェン?」
 からからと笑う表情は見えないけれど、声の調子と同じなのだろう。それがメルヒェンにはとても暖かいもののように感じられた。
 唐突に耳に響く、鐘の音が二つ。
 嗚呼、とメルヒェンは息をついた。
「イド」
「ん?」
「イド、」
「何だね?」
「ごめん、」
 視界が、暗い。その暗さを、メルヒェンは過去に重ね、けれど不思議と怖いとは思わなかった。だってここには、彼がいるから。
 けれどもう、彼が見せようとしてくれているものを、見ることは出来ない。それがとても情けなく思えて、メルヒェンはイドルフリートにすり寄った。
 不意に足を止めるイドルフリートが、着いたぞ、と言ってメルヒェンを地面に降ろす。降下する感覚に驚いて、残る腕を放さないでいると、彼は困ったように笑って、大丈夫だ、と言った。
 渋々、と言ったようにゆるゆるとメルヒェンが力を抜けば、ゆっくりと腰から地面に下ろされ、けれど背中からは、依然として彼のぬくもりは離れなかった。嗚呼、背後を支えてくれているんだ、と言うのはそれで十分理解できて、メルヒェンはこそばゆそうに胴だけで身じろぎをした。
 もう見えないよ、というのは言わずとも分かっているようで、他動的に足を動かされる感覚も、メルヒェンにはよく分かっていなかったから、彼にわかるのは、イドルフリートが何かをしている、ということだけだ。
「何…を、しているんだい?」
 どさりと傍らに何かを置く音がして、メルヒェンは疑問からか眉を潜める。
「ほら」
 そういってイドルフリートに絡め取られた指が向かう先には、冷たく指先を濡らす物があって、メルヒェンは唐突の感覚なせいか、咄嗟に腕を引こうとした。けれどそれはイドルフリートによって制されてしまい、そこに手をひたすことになる。
 落ち着いてみれば、さわさわと流れる冷たさが心地いい。きっと両足もそこに浸かっているのだろうけれど、メルヒェンにはわからない。
「どうだい?」
「…冷たい」
「それから?」
「気持ちいい…」
「そうか」
 きっと今、イドルフリートは笑っている。彼の纏う空気が、彼の無意識の部分が、メルヒェンにそうだと告げている。
 衝動から解放されて尚、その無意識を感じ取れるだけの力は、まだメルヒェンに残っていた。
「この水はね、やがて海になるのだよ」
「海に?」
 メルヒェンを抱き寄せて、イドルフリートはそう言った。濡れた手で探りながら彼の頬に触れると、冷たいぞ低能、などという言葉が返ってきて、それが何故かおかしくて、メルヒェンはふふ、と笑った。
 腰に手を回され、ゆったりと前後に揺られるその動きは、さながら揺りかごのようだ。メルヒェンは彼の胸に背を預けながら、彼の話に耳を傾ける。
 これが最後なんだろうなぁ、と思いながら。
「空は何処までも蒼く、海は何処までも碧いんだ。知っているか、メル。空が青いのはな、海の色が反射しているからなのだそうだよ。この森で、君が知っている空は常に黒かっただろうが、きっと本来は青いに違いない。大地とは比べものにならないくらい、海は広いのだから」
 珍しく饒舌だ。恐らくは彼も、もう時間がない事には気づいているのだろう。頬を撫でる手つきは柔らかく、抱き留める腕は穏やかで、語りかける声は優しい。
 この時間が永遠であればいいのになどと、柄にもないことを考えたけれど、摂理を最期まで裏切れなかった結果がこれなのだろう。白いドレス姿が脳裏にちらついた。
「君を海に連れて行きたいな。船の上なら、君のその不健康そうな肌も少しはましになるだろうし、指揮棒しか振れない細っこい腕も鍛えられるだろう」
「顔色はどうしようもないし、指揮棒だけじゃなくて、エリーゼも抱いていたじゃないか」
「おや?君はフロイラインが重いと言いたいのかね?」
「えっ、いやっ、そういうわけでは…!」
「ふふ…わかっているよ」
 微笑と共に頬に触れるのは柔らかい感触で、彼はエリーゼに遠慮して我慢していたのかと思うくらい、よくキスを降らせているような気がする。
「海、か…いいな…」
 頬がくすぐったくて、くすくすと笑いながらメルヒェンは呟いた。イドルフリートから教えてもらってきた海の姿。優しくもあり、厳しくもあり、一歩間違えれば死に繋がる場所ではあるけれど、美しく全てを包み込む。まさに母と呼ぶに相応しい。
 そして海の男達には、死と隣り合わせであるという危険を冒してまで、海の向こうに可能性を求めたのだという。
「海はいいぞ。君と船に乗れるなら、この私が君に全てを叩き込んでやろう。船の構造から、風、天候の読み方、海の見方…」
「ふふ、君の教え方は厳しそうだ」
「優しく教えてやるさ」
「それは有り難いな」
 一つ笑って、息を吐く。この鐘はどこで鳴っているのだろうか。そう考えた次には、イドルフリートの右手と遊んでいたメルヒェンの右腕が、力なく土に落ちた。
 辺りがやけに暖かい。もうすぐ夜が明けるのだろう。呼ばれている気がする。メルヒェンは光の入らない視界を閉ざした。
「…メル」
「イド…」
 呼んだのはほぼ同時で、それが可笑しくて互いに笑った。最後まで彼の声が聴けて、本当に良かったと思う。
 この森に光が溢れるのは、どんなにか綺麗なのだろう。想像しか出来ないその光景が、今はそれでいいとも思える。
「…さよなら」
 告げられた最後の言葉。どこか安心しているようにも感じられるそれが、イドルフリートには何故か分からなくて、存在を確かめるように彼はメルヒェンを抱きしめる。
 少しでも長く、共にいて欲しかった。衝動に繋ぎ、復讐を唄わせたのはイドルフリートではあるし、この結末は何となく分かっていたことではある。けれど、ここまで情が移ることは計算外だった。それも悪くないことだとは思うのだけれど。
「メルヒェン、私は、」
「僕は、貴方の屍揮者で在れてよかったと思っているよ。だから、今、貴方の腕に抱かれていることが、とても嬉しい」
「…め、る」
「嗚呼、僕はどうなるのだろうね?摂理を裏切ったんだ、彼女達と同じ場所へはいけないのだろうけど、でも」
「あぁ、私も必ず其処へ行く」
 抱きしめた彼の耳元で、そう呟けば、メルヒェンはやはり嬉しそうに笑った。笑ってから、出来れば退屈しない内に来て欲しいな、などと言ってまた笑みを浮かべる。
「メルヒェン、」
 鳴り響くのは弔鐘だとようやくわかった。辺りが白く包まれる前に、彼が本当にいなくなってしまう前に見たメルヒェンの表情は、泣き笑いの、とても嬉しそうなものだった。



 残された一人は、本能のままに復讐することを止めた。元々彼も、既に存在し得ない存在だ。
 衝動という役目を放棄した彼はいつしか姿を消し、朝と夜が平等に廻る森だけが残った。
 彼らは、今どこかで海を見ているだろうか。知りたいと願ったこと、叶えたかったこと、彼らが今笑っている其処で、また出逢えることを願って。



「さあ、どこへ行きたい?」




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「君とならば、どこへでも」


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2012.5.13