ホウセンカ | ナノ


 彼のことが気になったのは、別段理由があったわけではない。闇色の髪に、月の瞳。陰る満月の如く、瞳を隠すように彼は常に俯いていた。誰とも顔を合わせないように、瞳を合わせないように。
 絶対に歓談の輪には加わらなかった。指定席は部屋の隅。ともすればいないものとして扱われそうなほど、気配すらも殺して、それでも彼はそこにいた。
 彼のことなどどうだって良かった。自主性、個性と言うやつだ。限られた時間を一人で過ごそうが、皆で過ごそうが、個人の自由であるはずだった。
 しかし、一度気になってしまった以上、それを放置するのも至難の業だ。言葉を交わしたこともなければ、誰かと話しているのを聴いたこともない。
 つまり、彼の声を聴いたことは一度もないのだ。いつでも人の輪からは外れ、一切の交流を断ち切っている人物の声など、聴いたことがある方が少ないだろう。
 嗚呼、気になったといえば、そうだ。声を聴いてみたいと、思ったのだった。



 気づけば彼は其処にいて、気づけばいなくなっていた。
 まるで話しかけるなと言わんばかりの様子で、文庫に目を落としていることが多い。名前は、メルヒェンと言った筈だ。まるで幼子のような名だ。
 朝早い教室。まだクラスメイトは誰もいない。いるのはただ二人だけ。一番窓際の、一番後ろ。何度席替えをしても、彼の席はそこだった。隣にも誰もおらず、一番壁に近い席。廊下側の前の扉から、そこを眺め、しばらく後に、他には目もくれずにその席へ向かって歩き出す。床を叩く音が、やけに大きく感じられた。
 鳴る足音にも、陰る机上にも、関心を持たない闇色の彼と、揺れる金糸にも似た髪の色。対称的だと、感じた。
「…おい」
「……」
 返事はない。変わりにページを捲る音だけが耳に届いた。苛立った訳ではない。とん、と机に手を置いて、もう一度呼びかける。
「……フリートホーフ」
「…」
 名前を呼ばれて、ようやく彼がゆっくりと顔を上げる。雲間に隠れる満月のような瞳が、やけに美しいもののように見えた。
 沈黙が流れる。まっすぐ、どこか感情を殺したように見上げられた、その、色の見えない瞳に、己の金色が映り込んだ。



 何故、この人は自分に構うのだろう。半ば動揺しながら、メルヒェンはそう思った。誰とも関わらないように過ごしていたはずだ。誰からも気にされないように気をつけていたはずだ。だって人は怖い。何を考えているのかわからない。けれど、一人だけならそれも考えなくていい。裏切られることもない。
 背中を誰かに向けることに何よりも恐怖を感じるメルヒェンは、常にその席を自分の場所として確保していた。無機質で意志の無い物に背を預ける安心感を得るためだ。
朝の教室は、とても静かでよいもののはずだった。自分の世界に浸っていられるからだ。今日はどういうわけか、それが崩されている。
 見上げた先には綺麗な金色の髪の人が、こちらを見据えていた。彼の名前は、イドルフリート。同じクラスになったのは、これが初めてではあるが、彼のことはずっと前から知っている。
 些か不機嫌そうな表情に、メルヒェンの方が萎縮してしまう。何か用か、そう訊きたい筈なのに、口は思うように言葉を発してくれない。
「何か、言ったらどうだい」
「……っ」
 あからさまに苛立ったような言葉。怒っているのか手に取るように分かる。開き掛けた口を閉ざし、メルヒェンはふいと視線をそらせた。怒るくらいなら、構わないでほしいのに。
 視界の外で、無意識に引いた手を、彼が取ったと思ったときには、すでに身体は反応した後だった。



「やっ!」
 鋭い一言。拒絶を表す其の音と共に、手を振り払われたと知ったのは、そこが痛みに熱を持ってからだった。ガタンという、椅子の倒れる大きな音も同時に耳に届き、イドルフリートには何が起こったのか、一瞬わからなかった。
「フリートホーフ?」
「……っ」
 後退り、部屋の隅で守るように頭を抱え縮こまるその姿は、どう見ても怯えているようにしか見えず、イドルフリートを混乱させるには十分なものだった。
 一歩近寄る度に、遠ざけるように頭を振られ、カタカタと奥歯を鳴らすその様は、とても正常とは言い難い。
 これは、どういうことだ。イドルフリートが思考を巡らせる。彼にしたことと言えば、その手首を握った事くらいなものだ。
「フリートホーフ、」
「いやだ、やだ、やめ…」
「…落ち着いて、深呼吸をし給え」
 しかし、それが原因ならば、触れることは逆効果なのだろう。声が届くかはわからないが、言葉を掛けずには居られなかった。その理由も知らない自分では、パニックに陥っている彼に何をしてやることもできない。
 次第に落ち着く様子を見せる彼の背をさすることも出来ず、見ているしかない状況は、端から見たらおかしいものだろう。
 なんだこれは、と、頭の片隅で、イドルフリートは考えた。気になっただけの同級生が、怯えた様子でうずくまっている。何も出来ないもどかしさに、歯噛みした。
「メ、ルヒェン…」
 涙目で見上げたそこに、歪む満月。恐る恐る呼んだ名は、どこか震えているようにも感じて、自分はこんなにも臆病だっただろうかと心の中で自嘲する。
 名前を呼んだのは初めてのことだったが、それでもその名はやけに口に馴染んだ。以前から何度も呼んだことがあるかのように、けれどそれは気のせいだとイドルフリートは思う。
 どれほど時間が経っただろうか。彼が再び席に戻る頃、ようやくぽつりぽつりと外に生徒の影が見え始めた。
「……すまない」
 それだけ呟くように言って、イドルフリートは早足で教室から出て行き、一日が終わるまで、メルヒェンに近寄る事はなかった。
 その背中を見送ってから、メルヒェンは唇に手を当てる。鮮やかな金色が、目に焼き付いている。
「………い、ど」
 舌に転がしたその名前が、やたらと懐かしく思える。初めて呼んだわけではないからだろうか。
 気にしてくれたのは正直嬉しかった。忘れているだろうと思った。幼い頃のことだ。人違いかもしれなかったけれど、その姿は、髪の、瞳の美しさは褪せることはなく彼がイドルフリートだと伝えていた。
 初めて会ったわけではないんだよ。君は気づかないかもしれないけれど、初めましてでは、ないんだよ。そう伝えたところで、君が覚えているとは思わないから、胸の内にしまっておくけれど。
 メルヒェンは窓の外に視線をやってから、日差しの眩しさにゆっくりと目を閉じた。



 次の日も、メルヒェンはいつも通り朝の教室を楽しんでいた。ひとりのせかいが穏やかなものだと感じて、薄く笑みを浮かべる。
「愛想のないヤツだと思っていたが、君でもそんな風に笑うんだな」
 不意にかけられた言葉に、メルヒェンがびくりと身体を震わせた。恐る恐ると言った様子で顔を上げるメルヒェンを見やってから、イドルフリートはメルヒェンの前の席に腰を掛けた。
 なんで、どうして、君はその席じゃないだろう?疑問は浮かべど、それを口にはできなかった。臆病なのは、自覚している。ぐるぐると回る疑問に混乱し、指はページをめくることを忘れているかのように動かない。
 やがて、メルヒェンのその様子にも気づかないように、イドルフリートは鞄から文庫本を取り出した。パラパラとページが送られる音が、小さく響いた。
「私のことは気にせず、続きを読んでくれ給え」
 目も合わさないままそう言ったイドルフリートが、どうしてこんなことをするのかは分からない。それでも、やはり二度と触れられないと思っていた光だったから、嬉しく思うのに変わりはなかった。
 そしてその日から、イドルフリートは毎日のようにメルヒェンの前の席で本を読むようになった。初めはぎこちなく、会話のない日が続いていたが、慣れるものなのだろう、淡く微笑みながら、他愛ない話も出来るようになった。
 イドルフリートは読むのが早いのか、ころころと本を変えた。二人ともジャンルは異なり、メルヒェンは物語を、イドルフリートは航海に関する本を読むことが多かった。
「今日は何の本なんだい?」
「ん、あぁ…天測航法についてさ」
「…君はいつも難しい本を読むのだね」
 くすくすと笑うメルヒェンは、イドルフリートにこそ慣れたものの、未だそれ以外の人物と会話することはない。
 その声はどこか耳に馴染み、経験したことのない懐かしさがこみ上げた。まるで、初めて会ったのではないかのようだ。
 最初の時以来、イドルフリートがメルヒェンに触れることはない。いつも、本を読んで、少し話をするだけだった。
 触れてしまえば壊れかねない薄氷のような感覚を、イドルフリートはメルヒェンに対して抱いていた。触れてはいけない。そう思えるのは、何も最初の怯えようをみたからではないと思う。
「ねぇ、」
「……なんだい」
「君は、どうして僕に構うんだい?」
 不意の問いかけ。イドルフリートが目を瞬かせて、驚いたようにメルヒェンの方を見ると、彼は恥ずかしげに目をそらせた。
「…何故、…そんなことを訊くんだい」
 二人の朝を始めてから2ヶ月ほどだろうか。少しずつ心を開いてくれるようになったメルヒェンを嬉しく思いながら、どこか惹かれる自分がいることも、イドルフリートは否定しなかった。
 むしろ、もっと、もっと彼を知りたいと思うのだ。
「ね、手を貸して」
 そんなことを言われて、読んでいた本を左手を栞代わりにし、右手をメルヒェンに差し出す。何をするのだろうか。何も言わないまま出した右手を、メルヒェンはじっと見つめたあと、壊れ物に触れるかのようにゆったりと包んだ。イドルフリートがその様に息を飲むが、メルヒェンは気づかないのか、包んだ手をそのまま頬にすり寄せる。
「僕に触れてほしい」
「…っ」
「人が怖い僕でも、君なら、大丈夫な気がするんだ」
「メルヒェン…」
「ねぇ、イドルフリート、僕に触れて?」
 その月色に見つめられて、イドルフリートは断る術を持たない。吸い込まれそうな何かさえ孕んだそれに、今度は自らの意志でメルヒェンに触れながら、イドルフリートはただ一つ、頷いた。





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私に触れないでなんて、そんなこと


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2012.4.30