Sentio | ナノ


 一日に別れを告げる柔らかな赤が、部屋に差し込む。夕暮れから宵闇へと渡る狭間の時間に、響くのは衣擦れの音、軋む床、風の音。いくつもの音に混ざって、耳を掠めるのが、ひとのうたごえ。
 その声を認識して、一つ笑みを零した。赤に照らされた金の髪を翻して、裸足の儘、彼は階段を上がる。風に揺れるカーテンの向こうに、口ずさむ唄を奏でる人物がいた。
 ふわりと遊ばせた闇色の髪、彼と同じように纏められた毛先は緩くカーブを描き、揺れる。よく見れば、射す月光に似た銀色が幾筋か見え隠れしている。些か夢見心地に陥りそうな、それ。
「メルヒェン」
 先に声を上げたのは、金の髪の彼の方だった。その声に反応するように、闇色の彼は唄うのを止めた。
「兄さん?」
 声のする方へ顔を向けるが、その瞳は翻る金色を認識した様子はない。髪の陰に隠れて、一目では分からなかったが、焦点も何処か合ってはいないように見えた。
「……イドルフリート?」
 無意識のうちに伸ばした、やや色白さが際だつ手を、名を呼ばれた彼の手が包む。それに安堵したのか、メルヒェンはふわりと表情を崩した。
 彼にとって温かいと感じるそれは、かつてイドルフリートから光だと教えてもらった。実際にこの瞳が光を得るような、そんな不思議な出来事は起こらなかったけれど、その温かささえあれば、大丈夫だと胸を張って言える気がした。
「また、此処にいたのかい」
「ん、だって温かいんだ、ここ」
 イドルフリートは、長椅子の隅に腰を掛けていたメルヒェンの隣に、同じように座り、くしゃりとその髪を撫でた。握った手はそのままに、指の形を確かめるように弄るメルヒェンのしたいようにさせた。空いた腕は肘掛けに頬杖をついて、そんなメルヒェンの仕草を微笑みながら見ている。
「楽しいかい?」
「…楽しいよ」
 やがて指を触っていた手は、腕を辿って、首筋を滑り、イドルフリートの顔へと辿り着いた。頬の滑らかさ、かたちのよい鼻の造形、潤みを含んだ唇まで、余すところなく触れ、メルヒェンはイドルフリートを確かめる。
「嗚呼、兄さんだなぁ…」
「イド」
「…イド」
 イドルフリートはメルヒェンに、兄と呼ばれることを嫌う。だから先程、兄さんと呼ばれたときに返事をしなかったのだろう。それが何故かは、メルヒェンには分からないが、彼は何分頑固な性格だ。一度こうと決めたことは、なかなか譲らない。
 頬は緩んだまま、メルヒェンはイドルフリートをぺたぺたと触る。確かに其処にいるという実感が欲しかった。
 メルヒェンは生まれてこの方、色を知らない。光を知らない。本来視覚を通して得るはずの感覚を、感じることはできない。嗅覚、聴覚、触覚を最大限に活用して、彼は周囲を敏感に感じ取る。特に、人の喜怒哀楽を察知する事に関しては、ずば抜けて優れていた。僅かの声の揺れから、或いは纏う空気からそれらを知る。
「楽しそうだね?」
「そうかい?」
「うん、楽しそう」
 そう言ったメルヒェンは、やはりふわりと笑っていた。そんな彼がイドルフリートには大切で、守らなければならない存在だ。
 生まれたときからずっと一緒で、片時も離れずに傍にいた。後ろをついて回るメルヒェンは、イドルフリートの手を握ったまま離そうとしなかった。不安げに見えない瞳を揺らしながら、それでも気丈に笑む姿は、幼心に庇護欲を植え付けた。
 いずれイドルフリートがここから去るにしても、彼はメルヒェンを連れて行くだろうし、それが逆の立場であってもまた然り。イドルフリートはメルヒェンを離さないだろう。事実、今でさえ、外出は二人揃ってだった。メルヒェンは一人では外に出たがらない。イドルフリートが手を引いてはじめて、外へ行こうとする。
 イドルフリートは頬を撫でる指を、ぱくりと口に含み、ぢゅ、と吸い上げた。
「んっ…」
 咄嗟に引こうとする手首を掴んで、イドルフリートはメルヒェンの指を舌で愛でる。閉じた月色の瞳が、紅潮する頬が、彼の欲を高めていった。
 舌先で形を確かめるように指を撫でながら、イドルフリートがするりと捲る袖の下は、やはり病的とも思えるくらい白い肌が見え、同時に目に映り込んできたものに、彼は眉を顰めた。
「んぁっ…」
 かり、と軽く指先に歯を立てれば、それに反応してメルヒェンから声が漏れる。その声に満足したのか、イドルフリートは指から唇を離し、代わりにぐいっと手首を引いた。
「わっ」
「メル」
 バランスを崩したメルヒェンを、危なげなく抱き留めたイドルフリートが、彼の身体を逃がさないとばかりに力を込めて抱き締める。
 メルヒェンはされるが儘、取られていない方の腕をおずおずとイドルフリートの背に回した。彼の気配は、声の色は、纏う雰囲気は。
「メル…」
「何で、怒ってるんだい?」
「怒ってない」
「嘘。怒ってる」
「……」
「イド兄さん」
 諭すような声が響く。彼の前で嘘をつくと言うこと自体、到底無理な話だ。
 するりと腕を撫で、イドルフリートはメルヒェンの耳元に唇を寄せた。囁くように、唄わせるように、問いを投げかける。
「ここ。痣ができているのは、何故だい?」
 どこか抜けている節がある彼のことだから、箪笥の角にぶつけでもしたのだろう。そんなことは分かり切っている。
 常日頃、身体を大切にしろと、イドルフリートは何度も言っていた。勿論メルヒェンとて、自らそうしている訳ではないが、頻繁に青痣を作るとあっては、イドルフリートも気が気ではない。
「……転んだ」
「メル」
「いいじゃないか、対した怪我でもない」
「打ち所が悪かったらどうする」
 イドルフリートの言葉に、少しだけ考えたメルヒェンは、にこりと笑んで、一言「大丈夫さ」とだけ言った。何が大丈夫なのかと訊きたかったが、それはメルヒェンがイドルフリートを見上げることで止められた。
 見えないはずの、認識しないはずの視線が、かち合った。
 一瞬、表情を消したように感じたが、瞬きをする間にそれはなくなり、代わりにはやはり柔らかな笑顔を見せる弟の姿しかない。
 嗚呼、どこか遠くで水の音がする。
「メル…?」
「大好きだよ兄さん」
 掴んだ手首をするりと抜けて、メルヒェンは両腕でイドルフリートを抱きしめた。すり寄るように頬を寄せ、残念だなぁ、と呟く。イドルフリートは次の言葉をただ待つだけ。
 その体温を、或いは呼吸を、またはその心音を確かめるように、メルヒェンはイドルフリートにすがりつく。おだやかな時間。今日も今日とて日が沈む。
 ざざ、と、波のような雑音が聴こえた気がした。
 明日はどんな日だろうか。今日は昨日の延長線で、明日は今日の延長線だ。はて、ならば昨日はどんな日だったろうか。
「残念だよ、イド。君をこの瞳で見られないことが」
 ノイズと共に大きくなるのは、水の音。
 きっと綺麗なんだろうね、と言って、メルヒェンは笑った。逃がすまいとするかのように、その腕はイドルフリートを捕らえたままだ。
 その様に、彼は少なからず混乱していた。穏やかすぎる光に困惑していた。合わないはずの視線。唇に触れる指先。
 全身で感じる、彼という存在。
「メル…君は」
 心を奪われたのは、いつの頃だったろうか。ぎしりと椅子が悲鳴を上げ、同時にメルヒェンの顔が近づく。
 微笑んだそれは、途方もなく幻想的で。
「イド、大好きだよ」
 その言葉がどれほど嬉しくて、幸せかなんて、言い尽くせない。
 嗚呼、この時間が永遠であればいいのに、などと、柄にもなくそんなことを考えたりしたけれど。









    やはりまた、日は沈むのだ。

















 ぽたりと頬に何かが落ちる感触で、彼の意識は覚醒した。ぼやける視界、見上げれば、丸い月夜を遮るように、メルヒェンの顔がそこにはあった。
 月明かりに遮られ、上手く表情は読み取れない。
「……メル」
 ぽたりぽたりと、濡らしていくそれは、何処から滴り落ちるものなのか。
 手を伸ばして触れたのは、冷たい彼の頬だった。ぴくりと肩を跳ねさせて、けれども反応はそれだけだった。
「…メル」
「っ…イド」
「何を、泣いているんだね」
 屍体である彼は泣けない。涙は出ないはずだ。けれど、イドルフリートには、今の彼が泣いているように見えて仕方がなかった。案の定、彼からは「泣いてない」という返事が届いた。
 どれほどの間、そうしていたのかはわからないが、見回せばやはり其処は井戸の底。夢だったのか、とイドルフリートは自嘲した。
 あんな幸せ、私には到底掴むことなど出来やしない。
「イド…大好きだよ」
 夢と同じ事を言うメルヒェンに、イドルフリートがきょとりとした表情を返す。
 手探りでイドルフリートを捉えたメルヒェンは、同じようにその頬を、鼻を、そして唇を確かめるように触れて、そのままイドルフリートの胸に身体を預けた。
「…メル」
 その行動にどこか暖かいものを感じて、イドルフリートもまた、メルヒェンの背に腕を回した。
 冷たいはずの二つの身体が、どこか熱を取り戻した気がしたのも、おそらくは気のせいで、水滴が水面を打つ音を耳に入れながら、時が過ぎるのを甘受した。時間すらも二人には、意味のないものではあるのだが。
「イド、イド…」
 何度も何度も名を呼ぶ彼は、きっと寂しいのだろう。此処は死へ至る異土の底。互いの衝動を汲み取るくらい、容易いこと。
 捕らわれたのは二つのイド。正確には、一つのイドに二つの心。互いに離れることも許されないまま、童話は永劫に繰り返され、そこに時の概念はもはや関係ない。
 終わりと始まりはいつだって背中合わせだ。これも一瞬の幸福なのだろうと、歪んでいることを自覚しながら、イドルフリートはメルヒェンの肩口に顔を埋めた。
「メル、私は君を愛しているよ」
 だから、ずっと一緒にいよう。時が果て、宿る衝動が歪み落ちても、共に。
 互いを全身で感じながら、彼らはただ、幸福に腐すのを待つ。




 ――この狭い、遮絶されたイドの底で。



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願望は嘘でもなんでもなくて


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2012.4.1