序
……夜が降りてくる。
恐ろしくも愛おしいその帳が、黒をさらに塗りつぶしていく。
気付けば井戸にいた。おかしい。自分は死んだはずだ。あの切り取られた外の世界から、この狭い、井戸の底に叩きつけられて。小さい光から推測するに、とても生きていられる高さではない。死とは、なんだったかな、と彼はぼんやりと思う。
何故落とされたのだったか。海を望み、海を目指したはずだ。その為に、森を通った。ああそうだ。逡巡する思考の中で、彼は、その瞬間を明確に憶い出した。
(嗚呼…)
死して尚、あるいは生を得て尚、そこから逃げることを赦さぬように、意識は鮮明を保ち続けたままだ。
もう血は流れないし、この心臓は動かない。呼吸は反射で胸を上下させるけれど、本当は必要ないのだろう。
こんな場所で、こんな、冷たい場所で、何故自分が。もっと広い場所が良い。広大で雄大で、何もかもを包むあの青い海が良い。
悔しかった。憎かった。彼は、彼自身をここまで追いやった者達が憎くてたまらなかった。
(嗚呼…)
呑まれる、と小さく呟く。耳に残るのはやはり自分の声で、けれどそれはどこか以前のものとは違っているような気がした。
衝動が駆け上がる。己から光を奪った者達への復讐を。交わしたすべての約束に光を。
「ふふ…ははは」
のどの奥から愉悦に似た声が溢れたが、その表情は酷く哀しそうだった。
抑えられない衝動は、死せる故のものだったか。それでも、かつて交わした約束をと願う理性は、生ける故のものだったか。
歪んでいくのが、彼にはよく理解できた。
「…必ず、必ず其処で―――」
声にならない声で、聴く者もいないこの井戸の底で、交わした約束を小さく叫び、目を閉じた。
彼の中の衝動が、唄ってごらん、と理性に語りかけた。
(それは、幾度目かの『最後の約束』)
――夜が降りてくる。
何故私はこんなところに、と思ったのも過去の話だ。
"Märchen von Friedhof"
名前だけは識っていた。いや、教えられたと言った方が良いかもしれない。
ここには彼と、愛しい少女人形しかいないはずで、けれどその少女人形が、彼に名を教えたのではなかった。
メルヒェンには、時折誰かが囁く声がきこえることがあった。
ささやくような、けれどしっかりとした声だった。それは確かに男の声だったが、この場には己と、彼女しかいない。
疑問を持つのが当然だろうけれども、メルヒェンはそれを当たり前のものとして、その声を受け入れたのだった。
その声が、Märchen、Märchen von Friedhof…、とささやくものだから、「私の名はMärchenだ」と、さも当然のようにそう信じていたのだ。
不思議とその声は自分にしか聴こえないもののようだったが、少女人形は躊躇いもなく「メル」と呼んでくれたから、名前については疑うことはなかった。
メルヒェンには、己の生死についての概念がまるでなかった。
気付けば井戸にいて、空を見上げるばかりだったから。
以前の記憶など彼にはなく、覚えているのは暗さばかり。それが当たり前だった。少女人形は記憶を辿ればずっとそばにいたし、自分がここにいるのはそういうものなのだろうと、極々自然にそう思っていた。
この心臓は動かないし、おそらく血が流れることもない。必要のない呼吸に胸を上下させるのは、彼がかつて『生きていた』ことの名残かもしれないが、そんなことはどうだってよかった。
焦がれる程の衝動に従い、ただ彼女と共に宵闇に唄うのみ。
Märchen...
今日も、どこかで名を囁く声がする。
(それは、忘れ去られた『最初の約束』)
一
……夜は更けてゆく。
色濃い宵闇の時間は、彼から理性を奪いさるのに充分だった。
メルヒェンは、普段は井戸の底にいて、衝動により姫達の復讐に力を添える時にのみ、宵闇に羽ばたいていく。それは幾度か繰り返したこと。
彼と共に在る少女人形…エリーゼは、普段と違う彼の様子に疑問を抱きながら話しかけた。
「メル?」
小さく口ずさむ異国の唄。それは、エリーゼには聞き覚えのないものだった。
メルヒェンは、いや、メルヒェンの姿を借りた彼は、呼びかけに歌うのを止め、エリーゼを振り返る。
その、普段とは違う彼の表情にエリーゼは思わず息を呑んだ。
「…おや。起こしてしまったかな。…Fräulein」
「アナタ…誰ナノ?」
メルジャナイワネ、と警戒を隠しもせずに、唸るように話すエリーゼに、かなわないな、と肩をすくめて答えた。
「私は、Idolfried Ehrenberg...」
イド、と呼んでくれ給え、と言う彼は、姿こそメルヒェンのままなのに、纏う雰囲気に常の無邪気さはなく、尊大な…けれどもどこか諦観を持ったように見えた。
「…彼ニ、『メルツ』に名前ヲ教エタノハ、アナタネ」
エリーゼは、ふと思い至ったように、イドルフリートと名乗る彼に問う。問いかけとは言っても、それは確信に近く、念を押すためのものではあったが。
「そうだよ」
隠すでもなく、イドルフリートは答えた。隠す必要もないものだったから。
それに、隠したところで彼女には、すぐにわかってしまうだろう。
「少年の心と私の衝動、君の、いや、君達の炎…この子は」
イドルフリートは十字に手をやり、表情こそ柔和に、そして残酷な言葉を紡ぐ。
「彼は、Märzじゃない。…Märchenだ」
それは偶然ではない。イドルフリートが井戸に落ちたのと同じように、少年もまた井戸に落ち、死を迎えた。
本来ならばそこで終わるはずだった。何故、自分がこうなっているのかも、イドルフリートにはわからなかったが、それでも、自分が自分であるという事実だけは曲げようもない。
井戸の縁に腰をかけ、イドルフリートは悠然と足を組んだ。
「この子はメルヒェンだ。すべての必然から、メルツは眠りにつき、メルヒェンは目覚めた。宵闇の平和の庭に唄う童話を、何度も私は待っていたのだから」
そう、ずっと待っていた。イドルフリートは目を伏せる。
エリーゼが警戒を解かないのは、イドルフリートに何かを感じるからだろうか。
メルハ、と問い質すエリーゼに、イドルフリートは笑って言った。
「眠っているだけさ。そうでないと、私は出ては来れないからね」
悪意も裏もない、人の良さそうな笑顔だ。そう見えるだけなのかもしれない。
それでも、その声音は、子を想う親のような、そんな気がした。
さて、と居住まいを正し、井戸に戻ろうとするイドルフリートに、エリーゼは言葉をかけた。
「アナタノ望ミハ何ナノ?」
背を向けたまま。顔だけをちらりと覗かせて。それでも表情は伺えない。
少しの間、ぽっかりと開いた月夜に照らされて、沈黙があたりを包んだ。
「私の望みは、解放さ」
申し訳ないとは、思っているよ、と続けた。
幾度繰り返したかわからない。
唄うにも、創るにももう辟易だ。
何度も終わる、その最期は、いつだって井戸の底。
「そろそろ終わりにしたいのだよ」
そう、告げる声に色はなく。どのような感情がそこにあるのか、エリーゼにはわからなかった。
なんと答えたらよいかわからなくて、エリーゼが言葉を発せずにいると、嗚呼、とイドルフリートは完全にエリーゼに向き直り、メルヒェンと同じその顔で、ばつが悪そうに笑った。
「私のことは、メルヒェンには言わないでくれ給え」
そこにどんな理由があるのかもわからなかったが、エリーゼはとりあえずうなずいておき、ではお先にと井戸に戻る後ろ姿を、そのいた後を見つめながら、しばらくの間苔むしたそこに佇んでいた。
(それは、色を変えた『いつかの約束』)
二
……意識が沈む。
かつて見た夢の夢を見る。彼は航海士だった。それは、船を進める風であり、船を導く星だった。
海の向こうに輝くひかりを夢見、みなが争ってそこを目指した。良い時代だった。
イドルフリートもまた、その海の先に同じ未来を見据えた男と共に、彼方を目指したものだ。
幾度目かとなるその記憶は、いつも最後まで続かない。イドルフリートは、彼の夢を見届けられない。
(コルテス…)
君は、君の夢だった其処にたどり着いているだろうか。
遮る必要のない視界、暗く冷たい井戸の底。誇りも矜持も既に朽ちた。
かつて、己もそこにいた眩いだろうその時代、その場所で。
(君は今、笑っているだろうか…?)
意識が沈む。静寂が支配するイドルフリートの世界。
幾度も交わし、幾度も破られた約束を反芻する。
君は私のことなど忘れているだろう、とイドルフリートは思う。そして、今となってはそれでいい、とも。
夢を見た気がした。捜していたような気もした。それは気のせいだったろうか。
沈む策者の意識に、気のせいじゃない、と航海士は叫ぶ。できるならば、もう一度あの日々を。
自惚れでもなんでもよかった。コルテスを導くことが出来るのは自分だと、自分しかいないのだと、イドルフリートは思っていた。
風でありたい、星でありたい。眩い時代を切り開く白鴉を、その先へ導く光でありたい。
想いは募る。
何度もめぐる最後の記憶。
その日、コルテスと別れたのは何のためだったか。夜の酒場だった。一滴も呑まずに話していたのは珍しかった。
最初は、訳も分からなかった。森の中を走って走って、背中に受ける生々しい衝撃、そして気づけばこのとおり。
思い出すのは、いつも井戸に落ちてから。
「君は」
二度目も、何もできずに混乱した。
三度目あたりから、巡っている、と何とはなしに理解し始めた。
これで、七度目。
「メルヒェン、」
幾度も巡る幼子との邂逅。
きっと彼は覚えていない。それは確かに同情から来るものだったし、自分のためでもあった。
衝動という闇に捕らわれる子は、すべて己のせいではあったけれど、申し訳ないという気持ちは、何にも勝ってそこにあった。
解放を。
彼にとっては辛いものになるだろう。嗚呼、もっと自分が非情で在れればよかったのに。
「必ず君を」
光へ、送り出してみせる。
それは、もうイドルフリートしか覚えていない、けれども確かに交わした約束なのだから、反故にするわけにはいかないのだ。
(それは、未だ果たされぬ『はじまりの約束』)
閑話
――夜が更けてゆく。
目覚めた時、そこはやはり井戸の底で、暗闇が支配する狭い空間だった。
いつ眠ったのかもわからないが、最後の記憶もこんな光景だったことに思い至り、そこまで時間は経ってないのかも知れない、とも思った。
結局ここは何時であろうと暗いのだから、どれだけ時間が経っていようと関係ない。光の加減で朝か夜かわかることはないし、その必要もない。
ふと周囲を見渡して、愛しい少女人形に己が起きたことを伝えようとあたりを見渡した。
変わらず彼女はそこにいてくれたが、どことなく違和感があるのは気のせいであろうか。
その違和の正体がメルヒェンにはわからなくて、感じなかった振りをしてしまった。
「エリーゼ、おはよう」
「メル」
エリーゼだけ。彼女だけが、そばにいてくれる。これまでもそうだったし、これからもきっとそう。
井戸の底で唄うだけだった日常から、誘われるままにメルヒェンは立ち上がった。
それは衝動、呼ばれている、とメルヒェンは本能的に分かっていた。
エリーゼは名を呼んでから、黙ったままだ。彼の言葉がぐるぐる廻る。――行ってはだめ、とは言えなかった。
「さぁ、復讐劇を」
どこにでもある、愛憎を捧げよう。何度も何度も繰り返す、刹那の輝きを捧げよう。
そこに待つのは、誰なのだろうか。
そして彼は、その瞬間を知る。
三
――夜は明けていく。
これは、彼の望みだったのだろうか。
腕に抱いた、もう動かない愛しい人形。
彼女の最期を前にしても、メルヒェンは涙も流せない自分に腹が立った。
東の空が白む。光の射さない森の僅かな隙間を縫って、その柔らかな感覚はメルヒェンのところまで舞い降りた。
Märchen...
唄う、声がする。
「………、…」
少女人形を足下に置いて、メルヒェンは空を見上げた。
嗚呼、空は、あれほど高かっただろうか。あれほど澄んでいて、美しかっただろうか。
メルヒェンは目を細める。
宵闇しか知らない自分が始めてみた黒以外の色は、とても麗しい…彼の色。
「…?」
果たして、彼とは誰だったか。
いや、それも今となってはどうでもよいことだ。
「この森が、この井戸が僕の…」
創られたのはなんだったか。
もう、逢えない大切な人たちを、忘れてしまった過去の光を記憶に埋葬し、メルヒェンは空を仰ぐ。
かつて憧れた白い鳥は、そこで笑っているはずだ。
「君が今、笑っている…」
すべての衝動に祈りを込めて、メルヒェンは最後の唄を唄う。
あの声も、重ねて唄っているような気がした。記憶に色が着く。そうか、そうだったのか。
はっきりとはしない意識の中で、暁光は、すぐそこに迫っていた。
Mutti、ひかり、あったかいね。
終
……夜が明けていく。
最期を選んだ屍揮者たる彼に賞賛を。
暁光を見、ひかりを取り戻した彼はもう、イドルフリートと共にはいなかった。
そこは、尚暗いままの、イドルフリートの世界。
「約束は守ったよ」
私には、こうするしか出来なかったから、少し荒々しくはなってしまったけれど、とイドルフリートは息を吐いた。
扉の音、そのあとにカツリ、と音がして、その音にイドルフリートは振り返りもせずに言った。
「Guten Morgen...メルヒェン。いや、メルツ、と呼んだ方が良いかな」
「…メルヒェンでいい」
貴方からもらった名だ、とメルヒェンは心の中でだけ呟く。
パタンと閉じるその本には、何が書いてあるのだろうか。かろうじて音から、それが本である、と分かったメルヒェンには、その中身までは知りようがなかったけれど、おそらく知る必要もないのだろう、とも思った。
多くは語らなくて良い。それがイドルフリート自身のためだったとしても、構わなかった。
「Danke...イドルフリート…」
「…そう言われる資格は、私にはないよ」
むしろ、謝らなくてはいけないのだろう。
必然とは言え、利用したのに変わりはない。
結果的にこういう結果になっただけのことで、イドルフリート自身が解放を望まなければ、こうはならなかったはずだ。
次はない。だから、覚えているうちにしあわせを。
「さあ、往き給え。君が今し方閉じた扉の向こうへ。光はすぐ其処にある」
羽ペンを手にしたまま、イドルフリートはメルヒェンを指した。
正確にはメルヒェンの背後の、その扉を
「屍揮者としての役割は終わった。これからは君の…君自身の道を生き給え、メル」
もう二度と会うことはないだろう。本来ならば交わることもなかったはずだ。
それでもメルヒェンは、いつかまた会えるなら、と贅沢にすら思える願いを口にした。
「イド、もしまた会えたら…」
――一緒に、唄ってほしい。
わずかな邂逅のその先。一瞬交わっただけの、軌道。その僅かな時が終わってしまえば、あとは離れるだけ。
メルヒェンの申し出にイドルフリートは一瞬目を見開いたあと、普段の様子とは違った、柔らかな表情を見せた。
「勿論、良いとも」
イドルフリートがそう返すと、メルヒェンは嬉しそうに笑った。さぁ、と促すイドルフリートに、名残惜しそうに扉へ向かうと、今度こそ振り返らずにノブに手をかけた。
「さぁ、往っておいで。…しあわせに、なり給え」
光へ向かう子への最後の祈り。
静かに、それこそ音もなく、扉が閉じられる。
役目を終えたイドルフリートの世界も、いずれ近いうちに還るだろう。
そこに理由などなかった。あるとすれば、気まぐれでしかなく。
復讐劇を描いたのは彼だった。終わりを迎えた物語の表紙に、イドルフリートはタイトルを書き入れる。
―――"Märchen"
残酷な最初の嘘。果たされたはじまりの約束。
いくつもの約束を交わしながら、彼は、彼自身の大切な最後の約束を果たしに、その世界を後にする。
さぁ、もう一度、と。そう呟きながら。
途端、鮮烈な光が目を焼いた。
朝日は登る。
また新しい一日が始まる。歴史は繰り返すと人々は言うけれど、時間は何度も巡れない。それが摂理だ。
潮風の心地よい港町に、彼は停泊していた。
何か捜していたような気がしていたが、それはおそらく気のせいである。
必要な物資を詰め込んで、さぁ出航と言うときだった。何かが足りない、と彼は街へと戻っていった。何か、に明確な目的はなかった。
入り組んだ狭い路地裏。山の斜面に沿っているせいか、やけに階段が多い。ずいぶんと奥まで来てしまった。
波の音は聴こえないし、潮風の匂いもほんのわずかだ。それも自分に染みついているものなのだろう。
「ぁー…」
なんでこんなところにいるんだっけか。そう考え始めたとき、不意に後ろから石畳を叩く音がして、彼はその音がした方向を振り返った。
雲一つない青空を背に、海を思わせる瞳、凡そ路地裏に相応しくない細い金の髪を靡かせたその男は、優雅さすら感じさせる様子でそこにいた。
「…誰だ」
彼は問う。
ここは狭い路地裏のはずなのに、その瞳を見ていると、今自分は海の上にいて、遠くここからは聴こえないはずの波の音や、薄れた潮の香りまで濃厚に想起された。
問いは、すぐには返らなかった。
その男は、問いの中身をゆっくりと確かめるように、咀嚼するように、少しの間表情を崩さずにいたが、やがてゆっくりと口を開き、幾度目かとなる、そして、最後になるだろう自己紹介をするのだった。
「私の名は、Idolfried Ehrenberg...イド、と呼んでくれ給え 」
それは確かに、彼の暁光だったから。
****
いつかの未来、彼は思い出せるのだろうか?
戻る
2011.10