※R-18!!
自分の自我に、自分ではない己の記憶があるということ自体は、物心ついた時には既に気づいていて、それは当たり前のことだと思っていた。自我は一つ、記憶は二つ。はっきりと自分じゃないと感じていたのは、記憶と現実で身体が違っていたからであって、しかしながら幼いながらも、ああこれは過去の自分だというのは認識できていた。
彼には、『彼』には求めてやまないものがあった。悲痛な欲求は、彼の幼い心を押しつぶすように次第に大きくなっていったが、彼はそれを受け入れることで受け流していた。
苦しいくらいのこの痛みは、確かに自分のものだ。あれを求めて疼く心も、間違いなく自分のものだ。過去にも先にも、彼は、途方もないくらい『イドルフリート』だったのだ。
結局、求めたものが見つからないまま、イドルフリートは成長する。心は未だ、暁光を迎え得ぬ宵闇の森に囚われているかのようだった。メル、と呼ぶ、悲痛な声が内に響く。
闇色の髪に踊る、幾筋かの月の光。その髪に僅かに隠された、満月のような瞳に秘められた感情は窺い知ることはできない。
時を経る毎にはっきりとしてきたそれは、今の自分のものなのか、過去の自分のものなのか、次第に曖昧になっていった。
会いたい、と叫ぶ記憶が、引き裂かれるような痛みを伴ってイドルフリートに降りかかる。記憶の中の笑顔が、愛おしい。
きっと彼も、探してくれているはずだ。自分を思って、眠れない夜を過ごしているに違いない。
本当は今すぐ社会など振り払って探しに行きたいのだけれど、今の彼にはそれをするだけの財力はないし、またそうした所でどこを探すかというあてもなかった。
学校には通っていたけれど、何をするにもどこか上の空のイドルフリートは、次第にクラスでも孤立する。仲が悪い訳ではない。しかし、かといって特別に仲が良い友人などもおらず、ただまわりに合わせていただけ。
(低能どもめ…)
過去の、それこそ大海原を駆け巡った記憶まで鮮明に焼き付いているイドルフリートにとって、学校という、この小さな社会は苦痛で仕方なかった。
この時点では既に、イドルフリートの意識は過去と現在を混同させており、さらに言うならば彼の自我は現在よりも過去に傾きつつあった。
(ここは私の居場所じゃない)
そんなイドルフリートが、そう思い始めるのも至極当たり前のことだ。過ぎる時間と、役に立つのかも分からない、教師とやらの話、鉄筋コンクリートの森と、照り返すアスファルトの地面。あの海の鮮やかさは、あの森の妖しさは、どこへ行ってしまったのだろう。
何故イドルフリートが、そのように過去の記憶を持って生まれてきたのかは、誰にも預かり知らぬところであった。勿論彼自身、そのことは誰にも、両親にすら言わなかった。
(私は、『普通』だ)
この感情も、感覚も、記憶もすべて、自分こそが一般的で、普遍的なのだと、イドルフリートはそう信じていた。
誰もが皆、イドルフリートのように過去を知っているわけではないということは、疾うの昔に感づいている。違和感を持ったのは大分前のことだ。
(早く…早く彼を見つけなければ)
でなければ自分が、狂う。決してあの人生を是としたわけではない。海に抱かれ、井戸に落とされ、森に囚われ、死ぬことすら赦されない日々を、良しとしたわけではない。
それでも、あの頃が良いと思うのは、偏にかの物語があったからだ。
メルヒェン――イドルフリートが庇護した、彼自身の最期の童話。
策者たるイドルフリートの意志を繋ぐ役割を与え、仮初めであろうと生命を吹き込み描き出した彼の『作品』。
(メル…)
早く、腕の中に閉じ込めてしまいたい。
恋仲などという甘い関係ではなかったけれど、イドルフリートは確かにメルヒェンを愛していたし、また愛されてもいた。尤も、メルヒェンのそれは、子が親に対する敬愛だったのだけれど。
白い肌に唇を寄せ、首筋に咲かせた紅い花は、例えようもなく淫猥だった。愛らしさの残る目元に浮かぶ涙は、染められた頬を伝う度に甘く匂い立った。
(嗚呼…)
心の内にくすぶる自分、いや『彼』の感情が、日に日に深く大きくなる。わからなくなる境目が、また歪んで混ざって解けて、朽ちていく。
夜が来る度に記憶は森を蘇らせ、その場にはいない彼を夢想する程には、彼の精神は歪んでいた。
未だ会うことはままならない。やがて彼は、せめて、話せなくてもいい。その姿をと考えるようになる。
ある日の学校帰り、イドルフリートは細い路地裏に足を向けた。
一日中陽は射さないのではなかろうかと思うくらい薄暗い、車は確実に通れないだろう細さの路地裏。
一本道を挟んで向こう側は、人で溢れかえる賑やかさなのに、ここまでその喧騒は届かない。
季節は春先。未だ肌寒い季節だが、もうコートは纏っていない。学生服をしっかりと着込んだ彼は、目当ての店を見つけると、表情は全く動かさないまま、その店の戸を開けた。
「…いらっしゃい」
店員は一人だった。おそらく店主だろう。このような場所だ。読んでいる本から目を離さずに、お座なりにそう告げたその人は、イドルフリートには些か胡散臭く映った。
本当にここがその店なのだろうか。噂にきいて来てみたが、よもや期待外れなのかもしれない。
入り口に佇んだままのイドルフリートだったが、何の反応もない店主にやがて一歩歩を進める。落ち着いてみれば、ごく狭いそこに、売り物らしきものは無く、よくわからない工具や、果ては高そうな立派な装丁の本まで、等閑に放置してある始末だ。
「…あの」
「君も、人を探し求めているのだね」
そこでようやく顔を上げた店主は、無表情に見下ろすイドルフリートの目を真っ直ぐに見据えた。
一見穏やかに見える視線の、その裏に人を品定めするかのような色を感じ、イドルフリートは眉根を寄せた。
「…」
「まぁ、言わずともわかる。ここに来るのはそんな人ばかりだからね。…立っておらずに、座ったらどうだね」
す、と手を伸ばして、店主は対面にある椅子を勧める。彼から目を離さないまま、イドルフリートはゆっくりとそこに腰かけた。
噂は本当だろうか。まだ、信じたわけではない。けれど、そう思えるほどには、その問いは的確だった。不審げなイドルフリートの瞳の色に、彼は奇妙に双眸を歪めた。
「何故そんなことが断言できるのか、とでも言いたげだね。答えは簡単だ。…此処に来る者が、ほぼすべてそういう者だから、だね」
「なら話は早いか」
いささか乱暴に鞄を床に下ろす。がしゃん、というやや金属質の音が小さく響いた。決して広いとは言えないその机に肘を掛ける。
「誰を、お求めかな」
その声に、イドルフリートは記憶の中のメルヒェンの姿を探し始める。彼の髪は、肌の感触は、瞳の色は、唇の形は。果たしてどんなだっただろうか。照れたように笑うその姿が想起される。嗚呼、こんなにも、『彼』は、私は彼に焦がれている。
穏やかに変わる表情を、店主は見逃さなかった。
「宵闇を思わせる漆黒の髪に、月のような銀の光」
「いささか不健康そうな、色白の肌は滑らかで心地よく」
「浮かぶ満月に似た金色にも白銀にも見える不可思議な瞳」
「嗚呼、私の名を呼ぶ声は耳に良く馴染み、紡ぐ唇は笑うと三日月のようだった」
すらすらと出てくるのは、何度も何度も描いた彼の容姿。背格好はイドルフリートに似ていた。その色以外は、全て己を模したのだから当たり前だ。けれどもイドルフリートには、あんな風に笑うことは、恐らくできない。
航海士だったころは考えもしなかった、いや、正確に言えば忘れようしていた、誰かを愛しいと思う感覚。まさか、その感情を蘇らせたのが、子に等しい存在だとは。確かに、庇護欲を掻き立てる存在ではあったのだけれど。
ああだこうだとメルヒェンの要らぬ様子までを話したイドルフリートは、その日はそれで帰された。
「また、ひと月後の此の時間に来なさい」
そんなことを言われたが、金銭的なところは何も告げられていない。
偽物でも彼に会うためならば、親からの信頼でもなんでも捨てる覚悟がある。何と引き替えにしてもいいと思っている。
笑いかけてくれなくてもいい。ただ其処にその姿が再現できるなら。
そうしてひと月後、自室に迎え入れたのは、彼を模したお人形。動きもしない、話しも ない、ましてや笑いかけるなどできもしない、ただの人形。
それでも彼は、満足していた。記憶の中のメルヒェンが、今目の前にいる事実に、イドルフリートはうっとりと目を細めた。
触れる肌は硬質ではあったが、その冷たさは彼のものに近い。虚ろに宙を見る目は、決してイドルフリートを見てはくれないけれど、人形を通して見えぬメルヒェンを見ている彼には関係のないことであった。
「メル…」
返ることにない呼びかけが、狭い部屋に響く。勉強机とベッド、本棚だけの、質素な部屋。そこに突然現れた、異物。それは、現代的な部屋の造形からすれば、あまりにも異質な人形だ。
それを見て、何処か恍惚とした表情を浮かべるイドルフリートもまた、異質であった。人形をふわりと抱きしめて囁く声は熱っぽく、冷たい頬に唇を寄せながら髪を掻き撫でる手つきには、どこか色を含んだ。
それからの彼の生活は、一変する。早かった登校は遅刻寸前にまで遅くなり、未だ学校だけは行っていたものの、家にいる間は自室に隠るようになった。
もちろんだが、そんなイドルフリートに、彼の両親が疑問に思わないはずがない。何度か彼を探ろうとするが、言葉すら交わさない日ばかりが増えていき、それは叶わなかった。
イドルフリートの世界は、とうに過去一色となっているように思えた。愛するメルヒェンの姿を象った人形に、過去の姿を重ねる。閉ざされたカーテンは陽の光を遮り、薄暗く部屋を照らし出す。
触れた指先が滑る肌に落ち、反応があるはずもない人形が、イドルフリートの思考の中でピクリと指先を跳ねさせた。けれどもそれは夢想で、本物のメルヒェンはここにはいない。
「嗚呼、君は今何処にいるんだい…?」
目を閉じれば浮かぶのは、今なお色褪せない記憶。イドルフリートは人形を抱き寄せ、首筋に顔を埋めるたび、彼は事実を認識して涙した。
幻想は現実よりもずっと甘美で優しいものだ。彼にとってのあの森は、まさに幻想だった。イドへ至るモリを経て、作り出した童話の世界。その進行役たる彼。その中でイドルフリートは、作者にして策者にして、また傍観者に過ぎなかった。衝動を以て繰り広げられる、惨たらしい喜劇。皮肉にも、それは彼の名を意味するところだ。
理性よりも本能に重きを置くのは、何も彼だけではなかった。生前のイドルフリートがつき従っていた将軍も、彼の本意ではないながら、彼のために偉業を成し遂げたようなものだ。衝動に影響を及ぼすだけの何かが、イドルフリートにはあったから。
彼の両親にとってしてもそうだろう。
ある日彼の母は、イドルフリートが学校に行っている間に彼の部屋を覗いてしまった。それすらも、おそらくは衝動だったのだ。
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