Rosen Garten | ナノ


 窓のない、四角い部屋。扉以外の壁はほぼ本棚で、所狭しと本が詰められている。扉と正反対にあるのは彼が向かう机で、ろうそくに灯された火だけが、心許なく辺りを照らす。
 彼は、何かを書いているようだった。白い紙に黒いインクで記されるそれは、物語。
 中央に置かれたソファから身体を起こした屍揮者たる青年は、かつりと彼に向かって歩みを進める。
「イド」
 呼ばれて反応を示すなど、滅多にないことだ。今日はその、滅多にない日だったようで、名を呼ばれた彼は、青年を振り返った。
「何だい、メルヒェン」
 こっちを向けと言わんばかりに、するりと首元を撫でられて、イドルフリートは苦笑しながら立派な椅子ごとメルヒェンに向き直った。
 すると、イドルフリートの足を跨ぐように、向かい合わせにメルヒェンが腰を落とす。同時に首に腕を巻かれて、ちゅ、と唇に口づけられた。啄むような、触れるだけの可愛いキスに、イドルフリートが笑みを零す。
 重苦しい屍揮者の衣装は、今は纏っていない。メルヒェンはドレスシャツの上に赤いベストを、イドルフリートもシャツに鎖だけをまとう。
「まったく、君はエリーゼ嬢がいないと積極的だな…」
「ん…」
 額に、頬に、首筋に。至る所にキスをするメルヒェンを止めることはなく、イドルフリートはされるがまま。メルヒェンの腰に手を回して、彼のしたいようにさせた。
 エリーゼは今、外出中だ。彼女がいると、メルヒェンは気恥ずかしいのか、こんな風に甘えてはこない。その分と言わんばかりに、彼女がいないときの彼は、こんな風にキスをする。
 メルヒェンからの口づけは、嫌いではない。たまには返して欲しいと言われるが、イドルフリートからするのはあまりない。
 すっ、とシャツに手をかけられるが、イドルフリートはその手を押しとどめる。
「だめだよ」
「どうして、ねぇ、イド。貴方が欲しいよ」
「ふふ、甘えたがりだな、君は。でもまだ駄目だよ。書ききっていないからね」
 その会話の間にも、メルヒェンはキスを止めようとしない。軽いリップ音が、幾つも響く。ぺろりと耳朶を舐られて、イドルフリートはくすぐったさに笑った。
 書ききっていない、というのは、先ほどまで紙に綴っていた物語のことだ。
「君の活躍の場が、まだ書けていない」
「ふふ…貴方の筋書き通りに、動けるだろうか」
「今までもちゃんと出来ていたんだ。大丈夫さ」
 抱き寄せれば、一層強く抱き締めてきて、彼から発せられる薔薇の香りが、鼻腔をくすぐった。
 貴方も出ればいいのに、そうしたら一緒にいられるのに、ともらすメルヒェンに、イドルフリートは困ったような表情のまま、笑みを見せる。
「低能だな…私は策者だぞ?君を美しく引き立たせるのが、私の役目さ」
 そう言って、イドルフリートがくしゃりとその闇を纏う髪を撫でてやれば、メルヒェンは満月のような瞳を細めて笑った。
「でも、貴方とずっと一緒にいたいよ。この心一杯に、躰全体で、貴方を感じていたい」
 死を経たためか、メルヒェンは欲求に素直だった。本能を抑制する自我がどうも弱いらしく、メルヒェンは抱きつきたいときに抱きつくし、キスをしたいときにキスをする。
 それでも、エリーゼがいるときにはそれを抑えられるらしいから、不思議なものである。
イド、と呼ぶ声は甘く、その表情は艶めいていて、物語の中で屍揮者を演じる彼とはほど遠い。
 ごくりと鳴らす喉に気づいたのか、ゆったりと笑ったメルヒェンは、噛みつくようにイドルフリートに口づけたあと、クリームでも舐めとるように唇を舌でなぞった。
「ねぇ、貴方が欲しいよ」
 そう強請るように言うメルヒェンの瞳は、すでに蕩けているように見える。もう理性などどこにもないのだ。
 首筋に歯を立てられ、イドルフリートはその天秤を傾けそうになるが、今は本当にだめだ。
 緩く纏められた尻尾髪を引くと、不満げにメルヒェンは顔を上げる。その感情も、抑えるつもりはないらしい。
「また、夜になったらね」
「ここはずっと夜じゃないか」
 そうやって逃げるんだ、とメルヒェンは言葉でイドルフリートを詰る。イドルフリートを全身で感じたい。そのためだけに、メルヒェンはイドルフリートにキスをする。
「仕方ないな」
 メルヒェンの頬に手を添えたイドルフリートは、遙か遠い海色の瞳を細めたまま、メルヒェンに口づけた。メルヒェンがするような、触れるだけのそれとは違い、舌を捕らえて離さない、深いそれ。
 抵抗なくイドルフリートを受け入れるメルヒェンの口腔を、ゆっくり味わうように、イドルフリートの舌が我が物顔で支配する。
「ん、っ……ふ、」
 強められた腕の力に答えるように、イドルフリートは後頭部を固定して、さらに深く蹂躙した。
 唾液が肌を伝い、濡れる感覚すら甘美なものだ。たっぷりと堪能したイドルフリートはメルヒェンの呼吸が上がってきた頃、ようやく彼の唇を解放した。
「これで満足かな、お姫様?」
「……ばかっ…」
 くたりと力の抜けたメルヒェンの額に唇を落とすと、恥ずかしげに彼は顔を伏せた。
イドルフリートからの口づけを強請っておきながら、実際にしようとすると恥ずかしがるのだから、まったく可愛らしいものである。
「メル、いい子だからもう少し待ってい給え」
 そう言って頬に唇を寄せると、照れたように笑って、メルヒェンはまたイドルフリートに抱きつく。
 まるで薔薇が敷き詰められているかと錯覚するくらいに、辺りには芳醇な香りが漂っていた。




Ende




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麗しく香しく、馨るのは



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2012.2.12