となりの。6-1 | ナノ


 初めての考査から解放され、緊張に満ちた春期が終わった。特段集中講義なども入れていないから、本格的に暇な夏休みということになる。
 メルヒェンはアルバイトをしていない。アルバイトをするなら学業に励め、とは母の弁だ。アルバイトだって立派な社会勉強だとメルヒェンは思うが、母の言うことはきいておかないと後が怖い。
 金銭的には困っていない。しかし、メルヒェンは有り余る時間の使い方に慣れていなかった。
 部屋にいてもやることと言えば、寝るか、本を読むか。音の世界に入り込むことも、昔はしていたのだが、今はもう止めた。イドルフリートの部屋に、彼が留守の間に入り込んで、本を読み漁ることも多く、多彩な本に心を奪われる。彼の性格か、ジャンル分けも何もされず、乱雑に詰められた本や、本棚に入りきらずに隅に積み上げられた本。いつ買ってくるのかわからないが、知らない間に増えていることも多い。
 本に埋もれるというのは、メルヒェンにとって心落ち着くことだ。どんな内容でもメルヒェンは読んだが、中でも特に読むのは物語だった。
 ぺらり、と頁を捲る手を、ライトが照らす。物語はクライマックスが近い。高揚感が止められない。まるでその本の世界に入り込んだかのようにメルヒェンは感じていた。世界の音を、一身に受け止めるような、そんな心地。
 だからだろう。彼が帰ってきたことにも気づかなかった。
「メル」
「うひゃっ!?」
 首筋に冷たいものが当てられて、メルヒェンは読んでいた本を取り落とす。一気に現実に引き戻されたようだ。顔を上げれば、イドルフリートが悪戯が成功した子供のような表情でメルヒェンを見下ろしていた。
 その手には缶コーヒーが握られており、先程の冷たさの正体がそれだとは、すぐに気づいた。かわいらしい、悪戯だ。
 嗚呼、彼のこんなところに、いつだってほっとさせられている。ずっと年上のはずのイドルフリートの、たまに垣間見える子供っぽさが、そのときの笑顔がどこか嬉しい。
「い、イド…おかえり…」
「ただいま、メル。本を読むのは構わないが、せめて電気は点け給え。スタンドライトだけでは、目が悪くなってしまうだろう?」
「でも、それじゃ雰囲気が台無しじゃないか」
 ぱちん、と電気をつけられ、メルヒェンは暗がりに慣れた目を、眩しさから細める。
メルヒェンの言葉に、イドルフリートは苦笑して、座り込んだままのメルヒェンの髪を乱すように撫でた。
「んっ、…」
「綺麗な目の色なんだ。眼鏡等で遮ってしまうのは勿体無い」
「…恥ずかしいことを」
 くすりと笑って、メルヒェンはイドルフリートを見上げた。そういう彼の目の色だって、ずっと綺麗だと思う。浅瀬の海のような、碧い蒼が揺れる。金の髪とその瞳のコントラストが、目を引いた。
 それに引き寄せられるように立ち上がったメルヒェンの頬を、イドルフリートが触れる。
「夕飯は何だい?」
「ミートソースのスパゲティだよ」
「そうか、それは楽しみだ」
 頬から項を、髪をかき分けて撫でる感触にメルヒェンは首をすくめた。くすぐったさから、笑みが零れる。
「どうする?うちで食べ…あっ」
 ばさばさっと、紙が崩れる音がした。それは、メルヒェンを取り囲むように詰まれていた本が崩れる音。彼が跨ごうとして、膝が当たってしまったのだ。
 拍子に崩れた体勢を、イドルフリートが支える。完全に体重をイドルフリートに預ける形になったが、彼はよろけたりなどはしなかった。
「おっと…大丈夫かい?」
「あ、ありがとう…」
「ふふ、気をつけ給えよ」
 にこりと笑うイドルフリートを直視できず、メルヒェンは顔を埋めたまま礼を言った。
恥ずかしい。その感情が頭の中をぐるぐるまわる。きっと赤くなってる。顔上げなきゃ、どうしよう。そんなことを思っていると、頭上から声が振ってくる。
「メル?どうしたんだい?」
「!や、な、何でもない…!」
 ぐ、とイドルフリートの肩を押して、メルヒェンが彼から離れる。残念、とばかりに、イドルフリートは抱き留めていた腕を解放した。
 どことなく焦りを見せる表情が気になって、イドルフリートがまた触れようと手を伸ばすが、その手がメルヒェンに届く前に、彼に捕らえられてしまった。
 ぱちくりと目を瞬かせるイドルフリートが、彼の表情の、行動の意味を理解する前に、メルヒェンはその手を引いて部屋を出ようとする。メル、と声を掛けるけれど、その声に返事はなかった。
 どちらにせよ、この部屋の状態ではイドルフリートの部屋での夕食は難しいから、メルヒェンの部屋に行かなければならない。顔を見せてくれないのは彼なりの照れ隠しだと気づいたイドルフリートは、ただ引かれるがままにメルヒェンについて行くことにした。
 扉の鍵をかける間、同じように鍵をあけるメルヒェンの横顔は、仄かに朱が差しているような気がした。それを冷たい人工の光のせいにするには、ややはっきり見えているから、やはり彼はその表情を見られたくないのだろう。
「ふふ…」
「…?」
 思わず漏れた笑みを、ちらりと横目で見たメルヒェンだったが、声をかけることはなかった。開けた扉へ何も言わずに入るのも、もう慣れたもので。自室が二部屋になったと言っても過言ではないと思う。
 いつもの黒いエプロン姿をぼんやりと眺めながら、漂うミートソースの良い香りに心奪われる。
 まるで、家族だ。
 弟みたいだな、とは思っていたことだけれど、それ以上に家族らしい。兄弟を持たないイドルフリートだったが、メルヒェンに向けるまなざしは、まさに弟に向けるそれだった。
 慕われるのは悪い気はしない。むしろその笑顔が喜ばしい。楽しげに、鼻歌交じりに夕食を準備するメルヒェンの背中を見て、イドルフリートは笑みを深めた。
 聴いたことのない唄が、耳をくすぐる。綺麗な旋律だと思った。
「メル」
「ん?何だい、イド。ご飯ならもうすぐできるよ」
「いや、その唄はどんな唄なのかと思ってね」
「……僕、うたってた?」
 振り返って、怪訝そうに眉を顰めるメルヒェンに、イドルフリートは違和感を覚える。
「メ、」
「忘れて」
 ぴしゃりと言われた言葉は、どこか拒絶するようなもの。感じた違和の原因がはっきりしないまま、その話は終わってしまった。
 しばらくの沈黙が流れる。調理を再開したメルヒェンだったが、もう鼻歌をもらすことはなく、次に彼がイドルフリートを見たときには、いつもの表情に戻っていた。
「はい、どうぞ」
「ん、ありがとう」
 ことりと小さく音を立てて、目の前に置かれたそれは、見た目にも美しく、香りとともにイドルフリートの食欲をそそる。
 夕食の時にテレビはつけない。会話だけでその場が楽しいものになるからだ。他愛ない話に花を咲かせながら、イドルフリートは先程のメルヒェンを思い返す。
 声が良いとは、耳に馴染む声だとは常々思っていた。楽しそうだと感じたからこそ問うたものだったが、だからこそその後の反応は予想外だった。違和感の正体には終ぞ気づけず、ぼんやりとメルヒェンを見ていると、それに気づいた彼がどうしたの、と笑った。
「イド?」
「ん、あぁ、すまない。何でもないんだ」
「そうかい?あ、それでね、今度エレフ達と旅行に行こうって話になったんだ」
「へぇ…」
 違和感こそ気のせいだったのかも知れないとすら思えるくらい、楽しそうにメルヒェンは言った。そうだ、初めての夏だから海にでも、と言う話をしていたのだった。
 何泊するかは分からないが、彼がいない間はカップ麺を買ってこないと、などとイドルフリートが考えていると、それを察するかのようにメルヒェンは口を開く。
「僕がいなくても、カップ麺は食べたらだめだからね」
「…………あぁ」
 食べなくてもいいけど、一応作っておくから、と言われてしまえば、イドルフリートには頷くしかなかった。