Ehrenberg | ナノ


 宵闇の森に、一人。来ない夜明けを望みながら、終わりを迎える音を聴く。それすらも、本当に終わりなのかはわからず、彼自身がそうだと信じていただけかもしれない。
 彼に赦されたのは童話を唄うこと。ただそれだけのその身に、導くなどは赦されない。
 暁光を選ぶのは、結局のところは彼ではなかった。井戸に落ちたはずだった。衝動に堕ちたはずだった。その役割と、名に意味を与えられ、長らえた彼はもう、人とは言い難かった。
 いっそ、死ぬなら殺してほしかった。愛した海でないのなら、こんなになってまで意志を持つ意味などあるのだろうか。
 Idolfried Ehrenberg...彼に与えられたそれは、始まり。その名を持つ以上、彼自ら終わりを望むことは、彼の意志に背くことだった。
 だからせめてもの抵抗にと、彼が最後に唄ったのが、すべてを終わらせる、彼の童話。イドルフリートと同じように井戸に落とされた無垢な少年の衝動を核として、意味を与えた第七の童話。名をMärchen von Friedhof。墓場の、そして彼自身の最後の物語。
 その彼は今、幻の暁光の中で微睡んでいる。記憶を亡くした彼に与えた偽りの夢、それすら目覚めた時には忘れている。記述が破られてしまうからなのか、記録が灼かれてしまうからなのか、それはわからない。
「メル…」
 水面に波紋を立てるように、落とされた一つの名前。囁くような、呟くようなそれを聴く者は誰もいない。
 彼は、終わらせるための唄のはずだった。欠けることのない月の浮かぶ、明けることのない夜空が、静寂を落としてイドルフリートを責める。
 何故、と問われてもその答えは出てこない。けれど、延々と迷い続けるのも限界が近いのは確かだ。
 ここは、彼にとっての平和の庭だ。彼が月光の記憶を持たないにせよ、此の森は彼をつなぎ止めるのに大きな役割を果たすことに違いはない。
 見上げた蒼い月夜は、彼の目覚めが近いことも同時に告げていた。預けられた指揮棒を握る手に力が入る。
「………嗚呼」
 かさり、と音が鳴った。振り返れば、ぼんやりと虚空を見つめた彼が立っている。
「…ぁ、ぅ」
 声にならない声は目覚めたばかりだからだろう。何もわからない彼の意識に、金色が映る。はっきりとそれを認識したのは、しばらく経ってからだった。
 まるで、月光。背にした丸い月が、光を落としてきらきらと輝かせていた。
「私、は……」
「Guten morgen...君はMär、Märchen von Friedhof」
「Mär…?Märchen…」
 意味を計りかねている様子の彼が抱いていたのは、真白の衣服を身にまとった人形だった。こんなことは、今までになかった。いつも彼が抱いたのは、殺意を唄うお人形だったから。
 何が、と考える間もなく、イドルフリートは立ち上がる。
「君の役目は、―――」
 メルヒェンから目を逸らして、背を向けたその刹那、何かが破れるような音とともに、夜露に濡れた苔藻に、倒れ伏す軽い音がきこえ、イドルフリートが振り返る。広がる闇色に、目を奪われた。
 人形を投げ出すように地に伏したメルヒェンは、時折指先を跳ねさせるだけで、立ち上がることはない。ただ転んだだけではないことは、どうみても明白だった。
「ぁ…ぁあ、」
「…メル」
 その満月のような瞳を見開いて、メルヒェンは意味をなさない音を、呼吸に合わせて漏らしている。
 案外、あの冬は。冬を遣わせたその人は。このことを、分かっていたのかも知れない。
「…苦しいかい、メル」
 屈んだイドルフリートが無表情ながらもどこか悲しげなのを、メルヒェンの双眸は捉えてはいたが、果たして彼に、その意味が理解出来たであろうか。
 だらしなく口を開けたまま、ただ無為にイドルフリートを見続ける彼は、未だ言葉も発さず。
「君の本は、もう限界のようだね…」
 くつり、と自嘲するかのような笑みを零して、イドルフリートはメルヒェンを見た。分かっていたことだ。
 情が移ってしまったのだろうと、イドルフリートは思っていたけれど、事実は恐らく、もっと深いところにあることには誰も気づいていなかった。
「……メル」
 さらりと撫でた髪を、一房掴む。それをどうするでもなく、一度名を呼んだその唇を、きゅ、と真一文字に結んだ。それは覚悟だろうか、当のイドルフリートにも分かりかねた。
 メルヒェンは相変わらずイドルフリートを見たまま、浅く、深く、しかし苦しげに呼吸を繰り返している。涙腺や唾液腺が機能していたら、おそらく彼の顔はそれらでぐしゃぐしゃだったことだろう。
 しかし、彼はどうしたって一度は死んだ身なのだから、それは有り得ない。
「…メル、約束をしよう」
「はっ、ぁ…、…ぅ……?やく、そ……く…」
「そうだ」
 繰り返し、繰り返し。何度目覚めてもメルヒェンは覚えていることはない。イドルフリートのことも、役目のことも。自分のことすらもだ。
 それは異質な此の森がもたらすものだとイドルフリートは思っていたが、そうではなく、彼がどこかで望んでいたのだとしたら。
 そうではいけない、とイドルフリートは思う。それでは、この喜劇を終わらせるなど出来やしない。
「メル、君に私の本をあげよう。何、まだ真白の頁はいくらかある。あと一度くらいならば大丈夫のはずだ…」
 イドルフリートでは終わらせることはできない。彼だけが残っても、それこそどうしようもないのだ。
 未だ荒く呼吸を繰り返すメルヒェンは、やはり胡乱にイドルフリートを見上げたまま。その綺麗な月色の瞳が、苦しげに歪む。
 童話で在る以上、その記述には限界がある。そのことはイドルフリートを何とはなしに察していたが、それを迎えた時どうなるのか、つまりこの後どうなるのかは、彼自身知らぬことだった。
「だから、」
 祈るような、縋るような声。
 彼のためを思うなら、いっそ冬を受け入れれば良かったことだ。それでもそうしなかったのは、終わらせたく、なかったから。
 嗚呼、幻想は現実を想うよりずっと甘美だ。神すら拒んだこの手で、その幻想を掬おうと言うのか。
 自嘲に似た笑みをこぼして、イドルフリートは目を閉じる。何かが頬を伝った。
「だからどうか…――」
 その願いは口にしないまま、さまよわせた手がメルヒェンの白く冷たい手を強く握った途端、強烈な白と共に、彼にはもう、何も分からなくなった。







 気づけば井戸の底にいて、切り取られた丸い空を見ていた。いつからそうしていて、いつまでそのままなのか。それはわからなかった。
 腕に抱いたのは殺意を唄うお人形。断片的な記憶、金色の影。過ぎるそれに、彼は顔をしかめた。
 名前さえもわからない。忘れてしまったのだろうか。彼は今はっきりと意識を持ったのであって、それより以前のことは、まるでわからない。
 不意に、腕の中の人形が、口を開く。
「ネェ、メル?」

  ―――Mär、Märchen von Friedhof

 重なる声は、自分の声に似て、それでもどこか違っていた。
 そうだ。自分の名は。
「メルヒェン、フォン…フリート、ホーフ……第七の、童話」
 笑みを深くしたお人形がメルヒェンの頬に触れる。硬質なそれが、やけに心地よく感じた。
「ソウヨ、貴方ハメルヒェン…ジャ、貴方ノ役目ハ何カシラ?」
「私の、役目……」

  ――だからどうか、

「…ッ!」
 反射的にこめかみを押さえる。誰の物とも分からないその声が、メルヒェンを苛んだ。理解の追いつかないそれに、理性は蝕まれる。
 その感情の名は、衝動<イド>。

『だからどうか、…私を、この衝動を…Idolfried Ehrenberg<失われた最初の童話>を、殺してくれ…』

 呟かれなかった願いの声。終幕を望むそれは、いくら希おうと届かない、まるで幻想に手を伸ばすかのようなものだった。
 イド、と小さく呟く。衝動か、彼の名か。それは自分の記憶ではない。もとの持ち主の、メルヒェンが干渉できない記述。
 どれだけの時間、彼がそれを繰り返しつづけたのか。どれだけ自分に希望を抱き続けたのか。どれだけ彼に、守られていたのか。
「あ、ぁあ…」
 己のことは分からなくても、その託された願いだけあれば十分だった。
「ネェ、メル?」
  ――さぁ、メル…

『唄ってご覧…?』

 弧を描くお人形の口元は、三日月に似ていた。愛シテイルワ、と囁く声が、脳髄へ甘く浸食する。彼女を抱く腕とは逆の手のひらが、硬質な何かに触れる。指揮を執るメルヒェンには、どうしても必要な、彼が託した指揮棒。それをしっかりと握って、メルヒェンは高くそれを掲げた。
 彼の記憶だけが居座る今も、いずれ無くしてしまうのなら。
「さぁ…最後の童話を、歪な復讐劇を、始めようか…!」
 そして物語は、終わりへと走り出す。宣言するような声音に、森がざわめいた気がした。

――いずれ届く終焉で、今は私の中で眠る君へ謝れる日は来るのだろうか。――




Ehrenberg
‐誇り高き、最初の童話‐‐





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願った最後が想いに募る

 *ehren:名誉


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2012.1.29