となりの。5-1 | ナノ


 結局、先日の出来事の実際のところは、誰に分かるものでもなかった。事実、それ以降何かあるわけでもなかったので、メルヒェン自身、あれは気のせいだったのかなぁ、と思っていた頃でもある。
 後から聴いたところによれば、イドルフリートの時のそれは、プライドが高く強気な彼が中途半端に関わってしまったせいで、大変なことになったらしい。彼の先輩だというコルテスという人物が何とかしたと、彼は言っていたが、肝心の何とかの中身は遂に教えてもらえず終いだ。イドルフリートが教えたくないならそれでいいか、とメルヒェンは思ってはいたが、あのとき彼の表情が暗い気がしたのは気のせいだろうか。
 メルヒェンからすれば、そのようなことは今どうでもよいことなのだが、あれ以来、イドルフリートが以前にも増して心配の視線を向けてくるのは申し訳ないというか、不甲斐なさで小さくなってしまう始末だ。
 ごめんなさい、と口にすれば、彼は困ったように笑って、髪を撫でた。そのくすぐったさが、心休まるものではあったのだけれど。
 それでもやっぱり、ただの隣人に過ぎない彼にそんな心配をさせてしまうことや、それによってイドルフリートの生活を制限してしまうようなことはしたくなかった。だから、早く帰ってくるように、と言われても、家に居たところですることもない。図書館に籠もっていた方がいいと反論し、ならば迎えに行くと言われたので、いらない、必要ない、と少し強めに言って、返事も待たずに出てきてしまったのが今朝の話。
 イドルフリートは心配して言ってくれたのに、こどもみたいに意地を張ってしまった。せっかく楽しくやれていたのに、それが終わってしまうのは寂しいなあ、などと考えながら、メルヒェンは机に突っ伏した。本を読む気にはなれなかった。



「帰るのか、イド」
 帰り支度をする彼の背に声をかけたのは、珍しく残っていたコルテスだった。イドルフリートは彼の方を見もせず、一言だけ肯定の返事を返す。
 所持品は財布と携帯電話、それから筆記用具くらいのものだから、特に荷物もない。鞄と言っても大した大きさではなく、小脇に抱えられるより小さいものだ。
「機嫌を損ねてしまったようだからね」
「機嫌?…ああ、あの子のか」
 コルテスの脳裏に、先日会ったばかりの、少し世間知らずなきらいがある少年の姿がよぎる。去る者を追わない気質のイドルフリートが、ここまで入れ込んでいるのも珍しい。
 コルテスの見た彼の印象は、悪意を悪意として捉えられないというものだった。彼の過去もさることながら、そういうところが、イドルフリートが心配する一つの要因だろう。
「ミルフィーユでも買って帰るよ」
 照れたように笑って、イドルフリートはまた明日、と仕事場を後にする。
 彼の姿が見えなくなったところで、ぼそりと、リア充ですね、と言う声が聞こえ、レティーシャはそう呟いた彼の頭を叩いた。
「あいたっ!」
「くだらないことを言ってないでさっさと片付ける」
「酷いです」
「気のせいだろ。室長は仕事ないなら帰ったらどうだい。邪魔」
「酷ッ!」
 男二人に、むー、と拗ねられたところで可愛くもなんともない。レティーシャはそれを気にすることもなく、再度目の前に集中した。



 職場の近くの美味しいと評判のケーキ屋で、希望通りミルフィーユを購入し、イドルフリートは今朝のことを思い出しながら帰途につく。
 少ししつこく言い過ぎたのだろうか。そもそも、イドルフリートが他人の生活に介入すること自体が滅多にない。いや、皆無と言っても過言ではない。メルヒェンが例外なのだ。
 思えば最初の印象は悪い方だろう。ご婦人、などと呼ばれて、からかってやろうと思ったのだが、正直その時は、彼がどちらか、なんて気にしていなかった。何の変哲もない朝の一時。恐る恐る開かれた不可思議な瞳の色が、白の混ざる濡れたような闇色の髪が、綺麗だと思った。
 どこか抜けたような所があって、子供っぽくて、心を開いて接すれば、それ相応に懐いてくれる。その様を見るのはとても楽しいが、だからだろうか。心配にもなるのだ。悪意を知らない。純粋といえば聞こえは良いが、もはやそれだけではすまされない。
 深くを知らないイドルフリートが言うのも何だったが、先日の一件以来、どこか怯えた風にみせる節がある。なるべくなら、それを払拭してやりたい。そう思ったのだが。
「難しいものだね…」
 ため息と共に一人ごちた言葉は、誰の鼓膜を震わすことなく消えた。
 アパートを見上げた先、自室の隣に明かりは点いていない。まだ帰っていないのか、とイドルフリートは僅かに眉を顰めた。
 恐らくはまだ大学にいるのだろう。よく図書館にいると言っていたから。
「行ってみるか」
 荷物は置かずとも少ないし、ミルフィーユは保冷剤が入っているから、蒸し暑い今の時期でも大丈夫だろう。イドルフリートは部屋に戻ることなく、元来た道を引き返した。
 周囲は既に暗くなり始めている。黄昏を誰そ彼とも書くように、向こうから来る人も間近でなければわからない。メルヒェンの通うそこへ行くことは、イドルフリートにとっても造作はないことだ。
 そこまで時間を要さずに、迷うことなくたどり着いたそこには、未だ人影も多く、部活やサークル活動がまだ終わっていないことが容易に分かった。
「図書館、図書館、っと」
 時刻は既に7時を過ぎたが、その明るさは夜空に瞬く星々の光が人に届くのを妨げている。
 慣れた足取りで図書館へ向かうイドルフリートを、背後から追う人影が一人。明るいそこに入ったところで、肩を叩かれた彼は、振り返り様、あからさまに面倒そうな表情に変わった。相変わらず気配がない。イドルフリートは彼、哲学担当教授であるタナトスを見て、溜息とともに逃げるように立ち去ろうとしたが、肩はがっちりと掴まれたままだ。
「離してくれないかい、『先生』?」
「マァ焦ルナ。久シブリノ再会ジャナィカ」
「何が再会だ。私は忙しいんだ」
 いやらしく『先生』と強調して、手を振り払おうとしたが、意外と力強いのかビクともしない。
 イドルフリートより頭一つ分くらい高い背は、以前と変わらないものだ。彼が学生だったころから、よくこのように捕まっていたのを思い出す。別にそれ程目立つこともしていないのに、目ざとく見つけ出す彼のことを、イドルフリートは『冥王』などと呼んだりしていたのだが。
 片言のように話す理由を、イドルフリートはしらない。専攻外の担当ではあったが、何故かよく講義には当たっていた。
「君ガ卒業シテ以来ダカラ6年カ。マタ学生ニ手ヲ出シティル訳デハナィナ?」
「心外だな。まるで私が何度も手を出しているみたいじゃないか」
「君ノ手癖ノ悪サハ轟ィティタカラナ。無理モナィダロゥ?」
「………」
 過去を掘り返されて、イドルフリートは返す言葉が見つからず、苦虫を噛み潰したような表情のまま、目の前の人物を睨みつけた。確かに昔は言われるとおりのことも、少しくらいはあったのだけれど。だがそんな、女をとっかえひっかえするくらい、あたりを見ればいくらでもあることだ。何故自分だけ目の敵にされるのだろうか。
 一際強く手を振り払って、急いでいるんだ、と背を向けながら彼は言う。
「マタ来ナサィ。次ハ歓迎シヨゥ」
「んー、まあそのうちね」
 ひらひらと手を振って、イドルフリートは笑う彼と別れる。まったく、忘れているものかと思っていたが、そんなことはなかったようだ。そんな目立つ真似はしていないはずなのになぁ、と、イドルフリートはがしがしと後頭部をかきながら思う。自分では大人しい学生生活だったと思っていたのだが、周囲から見たらそんなことはなかったようだ。


 いらぬ時間を取ってしまった。外と違って人影もまばらなその中は、勉学に集中できるようにと、快適な温度に保たれている。外の蒸し暑い不快な空気を遮る其処は、人にとっても本にとっても良い空間なのだろう。
 辞書や雑誌、新着図書が並び、メディアスペースと称してパソコンが置かれる1階に、メルヒェンの姿はなかった。目立つとまでは行かないものの、イドルフリートにとって目を引くその髪色を探して、彼は2階へと上がる。
「しっかし…また増えたんじゃないか…?」
 本、と呟きながら、ふとイドルフリートは周りを見渡した。以前は多少なり余裕のあったと思った本棚には、今やぎっしりと本が詰め込まれている。この調子では、書庫の方も埋まってきているのだろう。
 静かなその空間に響く足音は、酷く歪なものにも聴こえた。分類通りに並ぶそこで、イドルフリートは壁際からメルヒェンの姿を探す。
 専門書の並ぶ書棚の奥に、机に伏せたままの見慣れた髪色。ゆっくりと上下する背中から、意識は夢の中なのだろうというのがよく分かった。
 そろりと背後に回れば、組んだ腕に顔を埋めているために寝顔を伺うことはできなかったが、筆箱から溢れるようにシャープペンシルやボールペン、消しゴムが外に出て散乱している。ノートや本は開かれたままで、本当に眠かったのかと思うと申し訳ない気分になる。
「メル」
 未だに気づかずに惰眠を貪るメルヒェンの肩を軽く叩いて声をかけるが、身動ぎするだけだ。その拍子に半分だけ顔が覗き、嗚呼これはしっかり眠っているな、とイドルフリートは苦笑した。けれど、こんなところでは、いくら夏で、どれだけここが快適とはいえ、風邪を引く原因になりかねない。
 す、と彼の髪をかきあげて、露わになる耳元に口を寄せる。あまり大声を出すのは、周りの迷惑になってしまうから。
「メル?起きなさい」
「ひ、ぁ…!!?」
 それがくすぐったかったのか、ぴくん、と身体を跳ねさせて、同時に顔を上げた。しばらく呆けたようにキョロキョロと辺りを見回したかと思えば、イドルフリートと視線が合った瞬間に目を見開く。
「イド…!?どうして…!」
「しっ、静かに。家に帰ったら君の部屋に電気がついていなかったからね。もしやと思って来てみたのさ」
 にこりと微笑んで、イドルフリートはメルヒェンの髪を撫でた。対してメルヒェンは彼の手を止めながら、俯いて、そうじゃない、そうじゃないと繰り返す。
 一つ息をついたイドルフリートが、止められた手を押しきって、メルヒェンの髪をかき乱した。
「っわ…!」
「帰ろうか?メル」
「………うん」
 ほら片付けて、と促すと、メルヒェンは大人しく手を動かす。ともすれば、涙が零れそうだった。泣きたいわけではないのに、訳もなく潤む。涙腺が緩んでいるようだ。
 メルヒェンが机上を片付ける間、イドルフリートは本棚の本を読んだり、品定めをするように眺めていた。
「イド、お待たせ」
「…あぁ」
「それ、読むかい?借りようか?」
「ああいや、今度買う」
 そう言うと、彼は本を戻し、メルヒェンに向き直って笑って言った。差し出された手には触れようとせず、恥ずかしいよ、と苦笑しながら言い、メルヒェンは結局その手を取ることはしなかった。
 そうかい、と大人しく手を引いたイドルフリートが、その手とは逆に持っている箱が気になったが、メルヒェンはそれが何かと訊くことはしなかった。