となりの。4-1 | ナノ


 冷蔵庫を開けて、メルヒェンは考えた。窓の外と交互に見比べて、さらに考え込んだ。
 本日の天候は雨。ちょうど休みなのだし、家の中で借りた本を読み進めたり、試験勉強をしたりしたいのは山々であるが、そうもいかない事情もある。つまり、冷蔵庫の中身が空なのである。
 晴耕雨読というじゃないか、しかしこればかりはどうしようもないし、とメルヒェンは息を吐く。全く、タイミングが悪い。
 食材の減りが早いのは、食に気を使わない隣人の分も作っているからで、出来るならもう少し買い溜めをしたいのだが、冷蔵庫の容量も限りがある。となれば、後は買い物に行く回数を増やすしかない。
 金銭面には疎いらしい母の仕送り額が膨大なおかげで、そちらには全く困っていないが、重い荷物を運ぶのは骨が折れる。だが、これは自分でやるべきこと。
 窓の外はどんよりと暗く、雨が止む気配もない。メルヒェンは大学へ行く時より一回り小さなカバンに財布やエコバックを入れて、一つ気合いを入れるように息をついた。
 玄関を開ければ夏とは言え肌寒く、上着を羽織って正解だった、とメルヒェンは思った。少し大きめな傘を手に、覚悟を決めて一歩踏みだそうとしたが、ふと隣人に夜のリクエストだけでも訊いておこうかと考えて、進みかけた足を戻す。
 鳴らしたチャイムへの反応は良く、すぐに顔を覗かせる隣人は、初めて会った時のように髪を流していて、男だと分かっていても綺麗だと思った。
「どうしたんだい?メル」
 にこやかにそう訊いてくる彼は、誰にでもこのような対応をするのだろうか。そういえば、お互いのことなど何も知らないまま、このような関係になっているのを思い出した。
 ぼんやりと彼を見たままのメルヒェンを不思議に思い、イドルフリートは目の前で手を振ってみるが、反応はない。まさか、またどこか具合が悪いのだろうかと心配になり、再び声をかけた。
「メル?」
「…!あっ、」
「どうか、したのかい?また調子が悪いとか」
 少し前に風邪を引いた時、イドルフリートは本当に心配した。まだそれから日は浅い。あの時は、結局週末をメルヒェンの部屋で過ごしたが、数年振りに台所に立つなどという慣れないことをしたせいで、鍋を焦がしたり包丁を欠けさせたりしてしまったのは記憶に新しい。しかしメルヒェンは、いいよ、ありがとうと言って、ただ嬉しそうに笑っていたのを思い出す。
「あの、今から買い物に行くから、何か食べたいものがあるかと思って」
 わたわたと焦りを隠しきれないメルヒェンは、イドルフリートから視線をそらして早口にそう言った。まさか、言えるはずもない。見とれていた、などと。
 僅かに染まる頬を見て、イドルフリートは目を細めた。その口元が孤を描いたのを、メルヒェンが知る由もなく、不意に伸ばされる腕に、彼がびくりと肩を跳ねさせたのは、その頬に指先が触れてからだった。
「イ、ド…?」
「ん?」
「どう…したんだい……?」
「あぁ、いや。君がそんなことを言うものだからね」
「そんな?」
「んー、まぁいいじゃないか。それより買い物に行くのだったね」
 これではまるで恋仲のようではないか。イドルフリートは考えて心の中で笑った。メルヒェンにそのつもりはないだろうし、イドルフリート自身にもその気はないのだが、それでも彼の言葉といい、仕草といい、どういうわけかそんな事を思ってしまう。
 ふむ、と一つ唸って、イドルフリートはメルヒェンの頬に触れた手を自分の口元に当てた。強ばらせた彼の身体が、手が離れることで弛緩するのがよくわかった。
 似たような背の高さなのに、見下ろしているように見えるのは、メルヒェンが首を竦めているからだ。特にそうする必要もないだろうに、不安げに見てくるメルヒェンが少しおかしくて、イドルフリートは笑みをはいたまま、彼の濡れたような黒い髪をそっと撫でた。
「イド?」
「よし、私も行こう」
「えっ、でも、折角の休みだし、ゆっくりしていては…」
「それは君も同じだろう、メル。それに、折角の休み、だからだよ。少し待ってい給え」
 それだけ言うとイドルフリートは、メルヒェンが何か言おうとするのも構わずに部屋に戻ってしまう。何やら上機嫌に見えたのは気のせいだろうか。残されたメルヒェンは、ゆっくり休めばいいのに、と思いながら、玄関のすぐ横の壁を背にして、空を見上げた。
 季節を呼ぶ雨の音。夏は近い。止むことを知らないかのように、雨足は強くなる一方だ。その粒が地面を、手すりを叩く音に目を閉じて耳を澄ませる。まるで音楽を聴いているようで、メルヒェンはその音が嫌いではなかった。
 自然と動きそうになる手を抑えて、ふ、と一つ笑みをこぼしたとき、開けっ放しの扉から金色が覗いた。赤いリボンで纏められた髪、いつもとは違うシャツとジーンズ。見慣れないその姿に、メルヒェンはゆっくりと目を瞬かせた。普段は、休みの時であってもそれなりの格好をしているのに。ここまでラフな姿は初めて見た。
「待たせたね、メル。……メル?」
「……!…な、何でもない!行くなら早く行こう?」
 踵を返して歩き出すメルヒェンの後ろ姿を追うように、イドルフリートは玄関の鍵を掛けてから歩き出した。あまりにあわててメルヒェンが降りていくものだから、雨で濡れた階段に滑らないかと不安になるも、イドルフリートが階段に足を掛けたときには、すでに彼は一番下でイドルフリートを見上げていた。
 唇が小さく早く、と動くのを見て、一瞬目を瞬かせたあとにイドルフリートはやんわりと笑う。雨の音に紛れた階段を叩く音が響く。黒い傘をさしたメルヒェンは、イドルフリートが一番下に着くか着かないか、とにかく横に並ぶ前に、彼に背を向けて歩き始める。やや早足でイドルフリートはメルヒェンと並ぶが、彼は俯いていて、その表情を伺い知ることは出来なかった。
 沈黙が続く。足音、雨音、時折届く自動車の音。いつも音を気にしながら、ゆったりと散歩でもするかのように買い物に行くメルヒェンにとって、イドルフリートと塀に挟まれて歩くこの状況は、変に緊張してしまうものだった。
 二人でいて横たわるのが沈黙なのは好かない。思い切ってメルヒェンは彼を呼びかける。
「っ…イド!」
「メル、」
 何とかこの状況を打開しなければと思っていたのはお互い様のようで、同時に口を開くなどありきたりのことをしてしまって、二人は顔を見合わせて笑った。
 傘から滴る水越しの顔から、緊張の色が消えていくのに、イドルフリートはほっとする。彼にはメルヒェンが緊張していることしかわからず、それが何故なのか見当もつかなかった。けれど、こうして笑ってくれたことに自分が安心している、ということには、僅かながらも驚いたものがあった。
「ふふ、なんだい、メル」
「い、イドこそ…」
「いや、何でもないよ。ただ、いつもは一人で買い物に行くのかと思ってね」
「いつも、は、学校の帰りとか…、晴れた日の方が多いよ」
「君は夜遅いだろう?夜道には気をつけ給えよ」
「……?うん」
 その言葉の意味を分かっているのかいないのか、頷きはするメルヒェンを見て、イドルフリートはため息を一つ。それがメルヒェンに知られることはなかったが。
 10分程歩いた先の小さなスーパーで、メルヒェンは足を止めた。そこはイドルフリートも買い出しをする、地域に馴染んだ店だった。
 天候の為か、人はまばらで、これならばゆっくりと買い物が出来る、とメルヒェンは内心で喜んだ。ともすればカップめん売場へと行こうとするイドルフリートを引き戻しつつ、メルヒェンは野菜から品定めを始める。
「イド、何か食べたいものはあるかい?」
「肉」
「…ざっくりしすぎだよ」
 ふぅ、とため息をつくのを隠そうともせず、メルヒェンは困ったような笑みを浮かべる。ではなにか、とイドルフリートが考えはじめたところで、後ろからメルヒェンに掛けられる声がした。
「おや、今日は一人じゃないんだね」
「あ、こんにちは」
 二人が振り返った先には、白髪混じりの中年の男で、スーパーのエプロンをしていることから、この店の店員だというのは、知らないイドルフリートから見ても容易にわかった。どことなく胡散臭い雰囲気はあるものの、メルヒェンと仲良さげに話しているので、とりあえず会釈だけはしておく。
「親戚の方かね?」
「違いますよ」
 ふふ、と笑いながら否定するメルヒェンは、ついでと言わんばかりに何が入っているかと聞き始めた。長くなりそうだが、滅多に見られないだろう彼の一面を見るのは楽しく、イドルフリートはただ黙って後ろについていた。
 たっぷり15分は話した後、野菜を中心に買い物籠に放り込み、レジに向かう。今日は何にしようかなぁ、などと呟きつつ、メルヒェンが鞄から財布を取り出そうとしたのを、イドルフリートが制する。
「イド?」
「このくらいさせ給え」
 微笑んで、メルヒェンの手から奪い去った籠は予想以上にずしりと腕にくるものがあって、毎度これを持って帰っていたのかと思うと、柄にもなく申し訳ない気分になった。
「いや、イド、それは…、だってこれは、僕が勝手にやっていることだから」
「おや、私から頼んだことでもあるというのは、忘れてしまったのかい?まぁ、ここは黙っていてくれ給え」
「じゃあせめて半分」
「却下だな」
 暫くそうして攻防を繰り返していたが、どうしてもそれを離す気はないらしいと諦めて、メルヒェンは苦笑し一言、ありがとう、と告げた。
 二つの袋に買ったものをメルヒェンが詰め、帰ろうとするところに、イドルフリートが一つ渡せと声をかける。どうしようか、とメルヒェンが決め倦ねていると、イドルフリートは呆れたように言った。
「全く。君は低能か。それでどうやって傘を持つと言うんだい?」
 それは既に何度か言われたこともある彼の口癖。むすりと口を尖らせるメルヒェンに、今度はイドルフリートが苦笑する番だった。
「悪かった。わかったから、片方渡してくれないか?」
「ん」
 表情はそのままに、メルヒェンが袋をイドルフリートに向かって突き出す。それを受け取ったのを確認した彼は、不機嫌なまま、イドルフリートの横をすり抜けて外へ出ようと行ってしまった。
 その様子に苦笑したまま、イドルフリートはその背を追うように店を出る。
「待ち給え」
「低能だから待たない」
「だから悪かった、…よ」
 伸ばした手が彼に届く前に振り返ったメルヒェンは、いたずらが成功して喜ぶ子供のような顔をしていて、イドルフリートはようやく、彼がそんなことを思っていないことに気がついた。
 それが何となく悔しくて、触れなかった手はそのまま彼の頭へのターゲットを変え、がしがしと髪を乱すように撫でつけた。
「っわ…イド!」
「うるさい。帰るぞ」
「拗ねなくてもいいじゃないか」
「違う」
 店の入り口に立てた傘を乱暴に引き抜き、イドルフリートは振り返ることもなく先へ行ってしまった。その様子が何とも子供っぽくて、メルヒェンはくすくすと笑みを零し、同じように傘を広げてその後を追いかける。
 袋を持っていない方の手を掴もうと指先が触れれば、逆に握られてしまい、メルヒェンが驚いてその手を振り払おうとしても、イドルフリートの力は思いのほか強く、それも叶わなかった。
「離してほしいんだが」
「断る」
「なんで」
「君が悪い」
 だからなんで!と言おうとしたが、意地の悪いにたりとした笑顔に阻まれて、メルヒェンは言葉を飲み込んだ。君が先にこうしようとしたんだろう?と、暗に言われたような気がして、メルヒェンはその状況を甘んじて受け入れる。
 誰かに見られませんように。そんな事ばかりを祈っていて、行きと同じ、塀とイドルフリートの間で、大人しく手は繋がれたまま、メルヒェンは俯いてその温かさに微笑んだ。
 傘と傘の間から滴る雨粒が腕を濡らしても、今はそんなことは気にならなかった。
 いつの間にか、雨降りの空が明るくなっていた。