彼らの航海 | ナノ


 それがどんな形であれ、やはり彼は優しかったのだ。白んでいく空の先、その向こうには何もなく、終焉とはかくも虚しいものなのだと思い知る。
 嗚呼、だって私は、全部なくしてしまった。大切だったものにも、失ってはならないものにも気がつかず、あげく抱きしめていた腕から、疾うにすり抜けていたことすらもわからなかった。なんて滑稽なのだろう。終焉は何もなく過ぎていって、そこから先は。
 そこまで考えて、思い至る近い将来に彼は身震いをした。思い出した。これが、「怖い」という感覚だ。終わるのが怖い。消えるのが、怖い。何もなくなって、そうすれば何も感じることもないのだろうが、そうなってしまうことがとてつもなく怖ろしいことのように思えて、彼は座り込んだまま、宛もなく手をさまよわせた。
 腕に抱いている彼女は、もう動くことはなく、いつものように名を呼んでくれることもない。そういえば、彼女が呼んでくれていた名前は、どちらの意味だったのだろう。もう彼は月光ではない。かつては月光であったのだけれど、その記憶も朧気にしかない。今の彼の名を呼んでくれるのは、もしかしたら一人だけなのかも知れない。
 視線だけをさまよわせて、その姿を探すけれど、明るくなりつつある周囲にあるのは、役目を終えた教会の井戸と、暁光の森ばかり。先に往ってしまったのか、それとも。
 最期に会いたい人すらも叶えられないなんて、ついていない人生だ、と彼は自嘲する。もうすぐ、そんなことも関係なくなるのだろうけれど。
 もう何も考えたくない。視線を落として目を伏せたその背中に、ぱちぱちと手を叩く音がして、顔だけをそちらに向けた。そこにいたのは、探していた彼そのもので、不意に鼻の奥がつん、となるのを感じた。
「…イド」
「Guten morgen, vielen dank.メルヒェン」
「イ、ド…!」
 力が入らないのか、もぞりと足を動かすだけのメルヒェンを見て、イドルフリートは彼の正面に回り込み、目線を合わせるように腰を下ろした。
 泣きそうな表情のメルヒェンの髪を撫で、そのまま目元を拭う。そこまできて彼は、ようやく自分が泣いているのだと、泣けるようになったのだということに気がついた。自覚した途端、それは止まらないものとなり、駄々っ子をあやすように、イドルフリートはポンポンと頭を撫で続けた。
「いど、いど…っ!」
「全く、聞き分けのない子供のようだな。あれほど望んだ終わりじゃないか。嬉しくないのかい?」
「だって、だって怖いんだ…!僕が僕でなくなるのが…怖い…!」
 それがこんなに寂しいものだなんて、思わなかった。彼が望むそれは、もっと甘美なものだったはずだ。ひんひんとすすり泣くメルヒェンに、イドルフリートは優しく声をかける。さながら其れは、親が子に向けるものに似ていた。
 見ればメルヒェンの髪は、半ば程まで抜けるような白に戻っていた。これが元来の、メルツの色。それでもイドルフリートにとっては、彼はメルツではなくメルヒェンなのだ。自らと同じ顔をして、子供のように泣きじゃくる彼が、イドルフリートにはたまらなく愛おしいものに思えた。
「怖がらなくてもいいのだよ、メル。終わりは総てのものに等しく訪れるのだから、こうあるべきだったんだ、最初からね。ほら、泣き止み給え。泣いていては、彼女に合わせる顔もないだろう?」
 メルヒェンの抱えていた、少女を模した人形をそっと取り上げて、井戸に背を預けさせてやりながら、イドルフリートはそう言った。再びメルヒェン向き直った彼は、涙と鼻水まみれの酷い顔で、イドルフリートは思わず、ぷっ、と吹き出した。それを見たメルヒェンは、わずかに目を見開いたあと、頬を膨らませて目を背けてしまった。
「ひどい…」
「悪い悪い。さぁ、拭きなさい。折角私と同じなのだから、そんな顔をしていては台無しだ」
 そういって、イドルフリートは懐からハンカチを取り出し、メルヒェンに渡した。イドルフリートの言葉に、受け取ったメルヒェンが一向に動こうとしないのを見て、彼は再びその手からハンカチを取り、多少強引にメルヒェンの顔を拭った。
「貴方は、…んっ、さらっとそういうことを、っ、言うんだね…」
「ん?何のことだい?」
「…もういい」
 しらばっくれているのか、はたまた本気か。イドルフリートのことだ、後者なのだろう。
 一通り、メルヒェンの顔が綺麗になったことを確認して、イドルフリートはにこりと微笑んだ。涙や鼻水は拭い去られても、鼻の頭や目の周りは赤いままだったが。
「怖いかい?」
「…怖いよ。とても怖い」
 一度、イドルフリートの瞳をじっと見て、メルヒェンは手を伸ばし、彼にぎゅっと抱きついた。僅かに息をのむような感覚はしたが、イドルフリートはすがるその手を拒むことはなく、逆になだめるようにその背をゆっくりと撫でてやる。
 イドルフリートの首もとに顔を埋めるその姿は、幼子の所作そのもので、自分とさほど体格の変わらない男の其れとは思えず、イドルフリートは薄く笑った。けれど、彼の心は夭折した少年からあまり成長はしていないのだと思えば、それも仕方のないことではあるのだが。
 こうしているのはどちらかと言えば温かいものではあるが、何分時間もない。抱きしめるその体勢は変えないままで、イドルフリートは優しく言葉をかけた。
「メル。話をしてあげよう」
「……」
 無言のまま、こくりと頷くだけなのは、彼が其れを期待しているからだろうか。メルヒェンはイドルフリートの話を聴くのを楽しんでいたように思う。かつて海に生きていた男の話は、記憶を持たないメルヒェンにとっては酷く眩しく、まさに憧憬というべきものなのだろう。
 背や頭を撫で続けるイドルフリートが、どのような表情をしているのか、彼の肩口に顔を埋めるメルヒェンはわからなかったが、それでも決して嫌がってはいないということだけは、その手つきの優しさから容易に判断がついた。
「私が航海士だと言うのは、もう知っているね」
「…あぁ」
「では、航海士というのがどのようなものかは、知っているかい?」
「………、」
 少し、考えたのか。少々の間の後、メルヒェンはふるふると小さく首を振る。メルヒェンに記憶はないが、あったとしても海を知らないだろう。メルツはずっと森で育ってきたからだ。
「航海士というのはね。船には不可欠の存在さ。航海士だけで航海できるものでもないけれど、航海士抜きの航海なんて、自ら死にに行くようなものだ」
 そこまで言って、一端言葉を切る。昔を、思い出すように。
 かつてイドルフリートが生きていた時代が、どれほど前のことなのかは、彼自身知りもしないことではあった。しかし、これだけはわかる。もう途方もないくらい、時が経ってしまったのだということだけは。
「私たちの役割は風の知り、海を聴き、星を辿ることだ。見渡す限り広い海原では、並の人間では己の位置さえわからない」
「…じゃあ、どうやってイドは居場所を知っていたんだい?イドは腕の良い航海士だったんだろう?」
「良い質問だね、メル。航海士は星を見るのさ。我々が狙う星は多くあるが、その中でも一等目立つ星がある」
 一度身体を離して、イドルフリートはメルヒェンをじっと見据えた。相変わらず不安げな表情はしていたけれど、もう泣いてはおらず、イドルフリートはそのことに少し安堵した。
 きょとんとイドルフリートを見る彼は、それでも真っ直ぐに彼を見ていてた。離れたことで行き場を失った腕は、再び力が抜けたようにだらりと下げられる。
「それは北の空にあって、すべての航海士が真っ先に見る不動の星だ。そうだね…色々名前はあるけれど、私は"Navigatoria"と呼ぶのが好きだな」
「……何故だい?」
「航海を導く星、という意味だからさ」
 そう言って微笑む彼は、とても優しかった。ふわりと髪を梳く手に手を添えて、メルヒェンは目を閉じる。彼の話を聴いていれば、海を知らない自分でも海を知れると思った。
 彼の話から海を想起する。それは美しく、自由な光景だった。実際に見たことがないことを、悔やむ程には。
「ねぇメル。私は思うんだ。人の生とは、航海のようなものだとね」
「航、海」
 ぼんやりと、イドルフリートの言葉をメルヒェンは反芻する。それはまるで、意味を咀嚼するかのように。そうさ、と答えるイドルフリートは、続けざまに考えてごらん、と問いかけた。
 イドルフリートの言葉を待つように、彼は目を閉じたまま次の言葉を待つ。その間も、イドルフリートの手は彼の髪を梳き続けていた。
「時の流れを大海と例えるならば、人はそこに浮かぶ船さ。手探りで進み、どれだけ行けばどこに着くかもわからない。けれどね」
 思い返すように、一つ息を吸う。
「人生は美しく素晴らしいものだと、今なら思えるよ」
 かつて理不尽に死を迎え、衝動に捕らわれたはずの男のその言葉に、メルヒェンは目を見開いた。どうして、そんなことが言えるのだろう。メルヒェンの目には、イドルフリートを衝動に繋ぐその鎖が、既に朽ちているように映った。其れは不可視のものだったが、メルヒェンには確かにそう見えたのである。
 イドルフリートの表情は穏やかなものだった。彼が海を語る時は大抵楽しそうなものだったが、今回は違った。メルヒェンに言い聞かせるためかもわからないが、その声音からも穏やかさは十二分に伝わった。それはまるで、凪のよう。
 海の碧、空の蒼。水は限りなく透明なはずなのに、見せる色は移り変わる。日が登れば輝きを増し、星には静かに彩りを添える。朝日の白、夕陽に煌めく朱、夜の漆黒、それだけでも数え切れない。晴れ晴れしい時もあれば、どんよりと沈む日もあり、時には風が吹き荒れ嵐が襲うこともある。それでも、どんな時でも導きの星は変わらずあって、それがあるから、彼らはその先へ行けるのだ。
「君には君の星があるはずだ。私もそうだからね。メル、時代は移ろうし、歴史は動いてゆくのだよ。私達の時間は終わっちゃいない。君の航海は、まだ続いていくんだ」
「けれど、でも!罪を負う僕を、僕達を…摂理は赦してくれるだろうか…!?」
 僅かに声を荒げて、不安げに瞳を揺らすメルヒェンの頬を撫で、イドルフリートはゆったりと笑む。夜が明ける。もうすぐこの時間にも区切りがつけられる。
「摂理がどれだけのものだい…と言いたいところだが、そうだね…君がそれを気にするというのなら、償えないことはないさ」
「イド…」
「さぁ、メル。夜明けが近い。今は出来ずとも、いつか必ず、償える日が来るよ。私達の時間は、まだ終わっていないんだからね」
 無言でこくりとうなずくメルヒェンに、イドルフリートは一つ笑いかけて、ゆっくりと両腕で包んでやる。その温もりに安心するかのように、メルヒェンもおずおずと腕をイドルフリートの背に回し、その肩口に頭を預けた。触れる髪が、くすぐったい。
「だからメル。今は眠ろうか。また起きたときは違う景色が広がっているよ。だから安心して、おやすみ」
「ん…」
 ねぇイド、貴方が話したその星は、本当に誰にでもあるのだろうか。だとしたら、僕は、僕の、星は……
 それは、目を伏せたメルヒェンの心の中でだけ呟かれた言葉だった。誰にも伝わらないだろう、けれどイドルフリートは頷いてくれて、メルヒェンはそれが嬉しくて柔らかく笑んだ。
 嗚呼、光が差す。長かった夜が、ようやく明けたのだ。あたたかくあたりを包む陽光の中、そこに遺されたのは、かつて少女だった動かぬ人形と、一冊の本、そして、古びた指揮棒だけだった。




Ende...




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願わくは、彼らの航海に幸多からんことを。

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2011.11.23