イドへ至る、モリへ至る、 | ナノ


 ――幾度目かの頁の狭間。
 歴史には残らない死の衝動、繰り返される童話は喪失にも運命にも抗い、楽園すら拒みながらも、奈落へ至る歪な物語を紡ぎ続ける。
 そう、其れは、理解もされない童話の世界。酷く曖昧な、何処にも属さない地平の境界。





 あと何度、なんて、もう考えることも止めた。そうしたところで意味のないものだと気づいたからだ。
 捲り続けても終わらない童話、暗い宵闇の森の異土で、かつて航海士であった策者たる彼、イドルフリート・エーレンベルクは、腹立たしげに持っていた本を乱暴に閉じた。
「メル、来なさい」
 誰もいないはずの虚空に声を投げつけ、イドルフリートは腰掛けた井戸の縁を指で叩く。ゆらりと歪んだ空気の先、木の陰の向こうに見えるのは、闇を思わせる濡れた人影だった。
 どこか生気のない顔色もその瞳も、常と変わらぬいつものものだ。姿を現したはいいものの、一向に動こうとしない彼に対して、苛立ちを隠さないイドルフリートは先に閉じたその本を、彼に向かって思い切り投げつけた。それであっても、彼はその本を避けることはせず、ただぶつけられるまま、しかし地に落ちる前にはそれをしっかりと抱き留めた。
「………っ!」
「何を躊躇っている、早くこちらへ来給えよ。…メルヒェン」
 名前を呼ばれ、びくりと身体を跳ねさせる彼に舌打ちをこぼした。投げつけられた本を受け止めた時に角をぶつけたのか、頬を彼自身の手がさすり、そのまま顔を俯かせてしまう。
 その怯えたような様子にますます苛立ちを募らせたイドルフリートは、ぎりと歯を鳴らして一つ息を吸う。
「早く来なさいと言っているんだ、低能が」
「ごめ、んなさい……!」
 慌てて走り寄るその足取りも、どこかおずおずとしたものが見える。メルヒェンが井戸に腰かけるイドルフリートの足下に膝をつくのは、慣らされてしまったが故の行動か。
 恐る恐ると言った具合で顔を上げ、イドルフリートの表情を伺う彼に、見下ろす当の本人は、にこりと一つ柔らかな笑みを見せた後、安堵しかけたメルヒェンの頬を張り飛ばした。そこに手加減などはなく、力を抜いたメルヒェンはたまらずに濡れる地面へと伏せってしまう。
「……ぁっ!!」
「全く、何時になったら解るのかね?」
 暁光に至る童話は、イドルフリートの期待に足る童話と同義だった。その童話を紡ぐのは策者の役割でも、結末を導くのは屍揮者の役割だ。
 メルヒェンは、一度死した身故にその身体に血は巡っていない。傷から赤が滲むことはなく、痣が出来ることもない。残る痛覚とは裏腹に、彼の肌は傷つかない。さらには、足の一つや二つもげて落ちても、目覚めたときには元に戻っているのだから不思議なものである。
 抵抗を考えなくなったのも、もう随分と前のことになる。下手に抗えば酷い目に合うのは目に見えているからだ。彼がこのような振る舞いをするのは、決まって機嫌が悪いときで、そういうときは、きっと自分が何かしたのだと言い聞かせて、ひたすらに耐えるばかり。そうでないときの彼の態度を思い出して紛らわせ、早くこの時間が過ぎるのを願うだけだった。
「何を考えているのかね?」
「ぁ…」
「言い給え」
 さく、と草を踏み鳴らす音がして、イドルフリートが動いたのがわかった。反して動かないメルヒェンの態度が気にくわないのか、イドルフリートは彼のケープを乱暴に掴んで顔を上げさせ、反対の手で彼の頬を掴んだ。その強引さに、痛みに、メルヒェンの表情が歪む。
 イドルフリートの口元は穏やかなものでありながら、その瞳はどこまでも冷ややかでしかなく、さながら蛇に睨まれた蛙のように、メルヒェンは身動きが取れなくなってしまう。
 ひ、と声を漏らしたメルヒェンは、一度は合わせた視線を逸らした。その行動すら、イドルフリートを苛立たせるものにしかならず、ぐい、とケープを引き上げて強引に立たせたかと思えば、メルヒェンが自分の足でしっかりと立つ前に、イドルフリートは彼を背後の木に押し付ける。
 襟を掴まれ、詰まる呼吸は本来は必要が無いのかも知れない。それでもイドルフリートは、ただ衝動のままにメルヒェンの首を押さえつけ続けた。
「ぁ…ぐ、ぅぁ…」
「ふふ…」
 それは本能が覚えている生前の記憶なのだろうか。僅かに浮かされた身体は重力に逆らえずに喉を圧迫するに繋がり、本を抱えているためにイドルフリートの手首を取ることもない。
 唯一自由になるはずの口も、今や空気を求めて開閉するだけで、そもそもそれでなくても、メルヒェンがイドルフリートに口答えをすることはないのだから、自由であったところであまり意味はない。
「さぁ、言ってごらん?」
 そうは言いつつも、手の力を緩めない彼を、メルヒェンは薄目で見やる。その瞳が濡れているように見えるのは、恐らく気のせいだ。
 促しても言葉のないメルヒェンに、一つ溜め息に似た吐息を漏らし、イドルフリートはようやく彼の身体を解放した。足に力が入らないのか、ずるずると木を背に座り込むメルヒェンの肩を、彼の足が容赦なく踏みつける。
「っ、っ…」
「君は全く、学習しないな」
 目を瞑って耐えるように、腕に抱えたその本を守るように、声を発することもなく身体を縮めているメルヒェンが、イドルフリートはただ気に入らない。
 顔を伏せるメルヒェンには、イドルフリートが僅かに哀しげな色を見せたことに気づけず、一度緩んだ足が、頬を狙うこともわからなかった。
「あぐ…っ」
 どれだけの痛みにも離さないその本が、メルヒェンにとってどれほどのものなのか、イドルフリートは知っていた。
 だからこそ。
「っ…!!やめ、イド、やめろ…それは!」
「ふふ、」
「ちゃんと、ちゃんとイドの望み通りにやるからっ!それだけは…」
「もう遅いよ、メル」
 何度巡っても、何度描いても、童話の結末はイドルフリートの望みとはかけ離れていく。それは、童話を紡ぐ策者と、童話を導く屍揮者が同一ではないからだ。メルヒェンとて人形ではなく、彼がどのような存在であれ、意思はある。だからこそ、イドルフリートの願う通りの結末にはならない。
 蹴り倒されたメルヒェンが、奪われた本を取り戻そうと手を伸ばすものの、その手がイドルフリートに届く前に、彼の足が再びメルヒェンを踏みつけた。それに息を詰まらせても、今度ばかりは躍起になるが、イドルフリートはそんなメルヒェンを冷めた目でちらりと覗くだけ。
「メル、これで何度目かな。もう私は忘れてしまったよ。けれど、私は言ったはずだ。次はない、とね」
「ぃゃ、イド、ごめんなさい…っ」
「それは前にもきいた」
「やめて、イド…イドぉ…」
「止めると思うかい」
 ばらら、と本を開いて、イドルフリートはその中の適当な頁を握り破りかける。ぁ、と小さく声を漏らして、メルヒェンの身体はびくん、と大袈裟とも取られるくらいに跳ね上がる。
 その様を笑顔のまま見やって、イドルフリートは一気にその紙を破り取った。
「ぃ、ぁ、ぁぁぁああああ!」
「ふふ、…ははははっ!気分はどうかね、メルヒェン!」
「いやだ、いやだイド、やめ…っ」
「やめない、よ!」
 さぁ、唄ってごらん、と。そうとでも言いたげに、絶叫するメルヒェンには構わず、イドルフリートは頁を破り続ける。そのたびに響く彼の悲鳴は、痛みからのものではない。耳を塞ぐように顔の横に手をやり、嫌々と振り続けてもイドルフリートはその行動をやめなかったし、メルヒェンのそれも止めさせなかった。
 「ぅ、あ、いや、あああ!!!」
 もし、彼の体が機能してたら、なんてもうどうだっていい話だが、きっとその顔は涙と唾液に塗れているだろう。はくはくと口が動くのは、こみ上げるものに耐え切れないからだろうか。
 イドルフリートにはその表情も声も、とても心地よいものに聴こえた。たしかに彼を支配しているという実感が、そこにはあった。ひどく楽しげなイドルフリートとは裏腹に、メルヒェンの抵抗は次第におとなしいものになっていく。
 嗚呼、抜けていく。奪われていく。記述が、記録が。その本は、メルヒェンの記憶そのもの。それを強引に奪われる彼が感じるのは、不快感、気持ち悪さだ。
 たすけて、と心で叫んでも、もう縋る相手もわからない。求める言葉は浮かんでも、それが何なのかわからない。
 ムッティ、って何?あの子は、誰?交わしたはずの約束は、どんなもの?
 私は、「誰」…?
 嗚呼、もう何も、憶い出せ、ない。
「ぁ、あぁ、い、ど…」
 目を見開いたまま、その瞳はどこも見ていない。ぐったりとしているメルヒェンは、時折身体を跳ねさせるだけで、イドルフリートが足を退かしても、自分から動き、起きあがることはなかった。
 イドルフリートの持つその本に、既に記述された頁はなく、あるのは白紙の頁ばかり。イドルフリートが彼の身体を起こして座らせても、もう、本を取り返そうとはしなかった。
 意味をなさない声ばかりが、メルヒェンの口からは紡がれる。
「メル、メルヒェン…」
 力の抜けきった身体を抱きしめても、反応はない。ただ時折、イド、と名を繰り返す彼に、イドルフリートは口元を歪めた。こみ上げる歓喜が抑えられない。
「君には私がいればいい。私だけが君の世界であればいい。すべて忘れてしまい給え。そうすれば私が君に意味をやろう。君は、私だけの童話なのだから」
 そして、記述された頁のなくなったその本に、イドルフリートはどこからか取り出した羽ペンで、何かを書き入れる。

   
――Märchen von Friedhof――


 かつてメルヒェンを形づくっていたものはもう、何もない。メルヒェンの腰から指揮棒を奪い去り、イドルフリートは力なく投げ出されたままのメルヒェンの手に持たせてやる。
 それに反応するかのように、動かなかったメルヒェンがゆるゆると腕を上げて、その指揮棒を何もない場所へ向けて指した。その様子を目を細めて笑い、イドルフリートは彼の背後から、指揮棒を持つその手に、自らの手を添え、耳元で囁いた。
「ふふ、愛シテいるよ、メル」
 君が私を導いてくれるまで、ずっと一緒だ。
 唯一の相手は聴こえているのか、いないのか。イドルフリートは構わずに笑った。その頬に、何かが伝ったことも、誰も知らないことだ。できるならば、ともに光を。叶わないなら、彼だけでも。
 確かに走り出した終焉への物語が、何を意味するのか、彼らは知らなかったけれど、今なら思える。
 そのモリは、そのイドは、とても甘美なものだと。



  衝動へ至る、死へ至る、



 人としての死を迎えた私が、やがて至る、私としての死への衝動。




     Ende.




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望んだのは、ただ、


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2011.11.17