真っ赤な空を見ただろうか | ナノ


 私に『弟』が出来たのは、今から二年前の事になる。物心つく前に両親を事故で亡くし、親戚宅を転々とする生活で、長居をしても二年程度だったし、短い時にはひと月に満たないこともあった。
 親戚と言えど、いくら血の繋がりがあろうと他人は他人だ。自分達の生活も大変なのに、働きもしない食い扶持が増えるのは確かにつらいから、良い顔をしたくても限界はあるのだろう。どこにいても最終的には疎まれたが、今更それを責めるつもりはない。
 けれど、そんな生活は、幼かった私の心に、大人に対する不信感を与えるのには、十分過ぎた。大人は嫌いだ。その表情で何を言っていても、本音は濁っているから。
 だからはじめは、この女だって同じだと思った。ニコニコ笑っていたって、どうせ腹の奥底では面倒がっているんだ。私みたいなのを押しつけられて、腹が立っているに違いない。そう思っていた。
 …のだけれど、初めてできた『弟』と呼べる存在は、そんな私にお構いなしに真っ直ぐだったから。それでも、絆されるなんて、思ってもみなかったのだけれど。




 考査のため早かった一日が終わり、向かうのは家ではなく、家から少し離れた保育園だ。医者を生業としている養母は忙しく、息子を迎えに行けないからと、子供を迎えるのは彼、イドルフリートの仕事だ。
 今の家に引き取られてすぐにそう言われ、はじめは渋々ではあったが、今では極当たり前のように自然と足が向く。保育士達からの覚えも良く、そこに行けば呼ばずとも外に出てくるようにまでなった。
 それは彼らが、イドルフリートが来るのを待っていることを証明しているかのようだ。
 いつも門から敷地内には入らないイドルフリートは、今日も変わらずそこで彼らが来るのを待っていた。
「おかえり、いど!」
「ただいま、メルツ」
 一足先にイドルフリートの足にひっつくのは白い髪で、しゃがめばぎゅう、と抱きついてくる。足りないなと顔を上げると、下駄箱でもたもたと靴を履くのに手間取っている姿が見えて、思わず笑みが漏れた。
 イドルフリートはそこから動くことはなく、ただ小さな彼がここまで来るのを待っている。もう5歳だと言うのに、どこか覚束ない足取りで走り寄り、けれど彼はイドルフリートのすぐ近くでぴたりと止まった。
「……?」
 メルツとは対照的な闇色の髪が、下を向いて何か言いたげにもじもじとしている。それをイドルフリートは不思議そうに見ていたが、やがて合点が行ったか、左手でメルツを抱きしめたまま、右手を広げて言った。
「おいで、メルヒェン」
 そう言えば彼は顔を上げて、一瞬だけぽかん、とイドルフリートを見た後、満面の笑顔で飛びついてくる。
 その勢いに多少よろけそうになりつつも、抱き留めてやれば至極嬉しそうな顔をするから、イドルフリートは微笑んでその髪を撫でてやった。
「いどっいど!ただいま!」
「はいはい、おかえり。いい子にしてたかい?」
「してたよ!」
「ちゃんとやくそく、まもってるよ!」
「そうか、いい子だ」
 両の手でよしよしと撫でてやれば、さらに力を込めて抱きついてくる。子どもの力だから痛くはないが、動きづらい。
 そのままにしておけば、いつまでも離れようとしない二人を離し、後頭部に触れて促せば、保育士に向かってありがとうございました!と頭を下げた。
相変わらず微笑んで手を振る彼女たちに、イドルフリートも一つ会釈をしてから、二人の手を引いて帰路に就く。
 子どもの歩幅に合わせて歩くのももう慣れたものだ。繋いだ手はしっかりと握り返され、兄に置いて行かれまいとしていた。
 しばらくその日の出来事を絶え間なく話していたが、コンビニの前に差し掛かったところで、両脇の二人の足が止まる。イドルフリートもそれに釣られて歩くのを止めた。
 じぃ、とコンビニを見ていたかと思えば、二人同時に手を繋ぐ彼の顔を見上げる。その行動の揃いぶりに、イドルフリートはさすが双子、などと思った。
 しかし、この瞳はあれだ。何かを要求する瞳だ。何度かこの視線に合っているイドルフリート、弟達がそれを訴えるのを待った。大体中身の検討はついている。
「いど、アイスたべたい」
 ああ、やはりそうだ。イドルフリートは顔には出さず、心でだけため息をついた。
「………メルツ、帰ればご飯だぞ?君たちが食べられなくて叱られるのは私なんだ」
「なら、二人ではんぶんこする!」
「メルヒェン、それでこの前食べられなかっただろう?もう忘れたのか?」
 目線を合わせるように腰をかがめてそう言えば、二人はうんうんと唸るように考え込む。
 しばらくして、はっと顔を上げたメルヒェンは、いいことを思いついたと言わんばかりの満面の笑顔で言った。
「じゃあ、いどもいっしょにわける!」
 どうもこの笑顔には弱いらしい。イドルフリートは仕方ないな、と言いながら、その表情はそうは思ってはいないように見えた。
 二人の頭をぽんぽんと撫でながら立ち上がり、コンビニへ足を向けた。それを見たメルツとメルヒェンは、互いに顔を見合わせた後、優しい兄の手を目指して背後から駆け寄る。
「いど、ありがとう!」
「いど大好き!」
「…まったく。現金な奴らめ」
 そう真っ直ぐに伝えられるのはまだ慣れなくて、悪態をついてしまうが、それは弟にとっては関係のないことらしい。変わらずにきゃっきゃとはしゃぐ二人に手を取られながら、イドルフリートはコンビニの中に入る。
 いらっしゃいませー、とどこか気怠げにも聴こえる声を聞き流して、3人でアイスクリームの陳列棚を見た。分けやすいもの、となれば、自然と限られてくる。
「最中だぞ、いいね?」
「うん!」
 イドルフリートが手に取ったそれは、バニラアイスの詰まった最中。二人が目を輝かせて見ている。それがイドルフリートの視線からはありありとわかって、ふと笑みを漏らした。
 大して入っていないが一応持っている財布から、アイス分の小銭を取り出し、アイスとそれをメルツとメルヒェンの手のひらにそれぞれ乗せた。
「買っておいで」
 と、そう言えば、二人は元気良く返事をして、レジに駆けていく。走るなと言ってもきかないだろう。その様子に笑みをはいたまま、イドルフリートは先にコンビニの外に出た。
 空はまだ明るく、夕食までは時間もある。途中にある公園で遊んでいけば、程よく腹も減るだろう。イドルフリートを追うようにコンビニから出てきた二人は、やはり彼の手を求めてきて、アイスを肩掛けの鞄に入れながら、イドルフリートはふたつの手を取ってやった。喜んでいる、というのは、二人の表情からよくわかった。その顔を見ていると、どこか温かい気持ちになるのは否定しない。
 そのまま公園へと向かい、空いていたベンチに腰掛ける。人影は多くはなかったが、決していないという訳ではなく、散歩をしている老夫婦や、子供を遊ばせている母親たちなど、人の音は確かにしていた。
 イドルフリートと同じように、ベンチに座る二人は、いつも彼の左側にメルツ、右側にメルヒェンで、どうやらそれが定位置らしい。
 鞄に入れておいたアイスを袋から出し、まず半分に割った。更に半分に割り4等分にすると、真ん中にあたる二つを、目を輝かせている二人に渡してやった。
「落とすんじゃないぞ」
「はぁい」
 返事の元気だけは本当にいい。そんなことを思いながら、イドルフリートは残りの部分を口に運び、かじりついた。冷たくて甘い。アイスなんて、数えるほどしか食べたことがない。もともと、そんなに食べたいとも思わなかったし、普通に食事させてもらえるだけで十分だった。
「いど、遊んできていい?」
「ああいいよ。行って来給え」
「あっ、メルツ、僕も…!」
 一足先に食べ終わったメルツの行動に、焦るように声を上げるが、メルヒェンはまだ半分は残っている。
「こら、メルヒェン、落ち着いて食べなさい」
 メルヒェンの口の端から零れる溶けた白いアイスを親指で拭ってやり、イドルフリートはそのままそれを舐めた。ウェットティッシュは持っていなかったため、手まではどうすることもできない。食べ終わるまではそのままにしておき、アイスがなくなったあとに手を洗いに行かせた。
「あらってきたよ」
 はい、と手を出されて、イドルフリートはその手をハンカチで拭いてやる。ついでに口元も拭ってやると、メルヒェンは擽ったそうに身を縮める。
「……ほら、できた。行ってきなさい」
「うん!」
 駆けていくその背中を見ながら、イドルフリートは思わず笑みを零す。すでにメルツは遊具で遊んでいて、メルヒェンもメルツのもとへと走り寄っていく。
 本当に、仲の良い兄弟だ。双子とは、どこもあのようなものなのだろうか。兄弟どころか親も知らないイドルフリートにはわからなかったけれど、そんな彼に家族を教えてくれているのは、間違いなくこの二人と、彼らの母なのだと思う。
 そういえば、彼らと初めて会ったのも、こんな晴れた日で、私はベンチにいたなあ、とぼんやりと思い起こした。




 中学は2年生にあがる前だったろうか。どこにいても自分の居場所ではないと感じ、居心地の悪さから、家にいることなど殆どなかった。
 学校が終わっても、直ぐに帰宅することなんて滅多にない。宿題があれば学校で終わらせ、夕食までの時間は公園のベンチで時間を潰す。それが彼の日常だった。
 その日も同じだった。いつもと変わらないベンチで、本を読んで過ごす。彼の読む本は小説から学術書まで多岐に渡った。そこにいるだけでは勿体無いから、学校の本は読み尽くすつもりだ。
 じゃり、と不意に砂を踏み鳴らす音が近くで止まる。イドルフリートはそちらを見ることもなく、ただ本に目を向けたままだ。
「あなたが、イドルフリートくん?」
「…そうですが。次は……、そうか、あなたのところですか」
 そろそろかとは、思っていた。
 声がした方を見れば、黒を基調として、青が映える服を纏った女性が立っていた。にこりと微笑むのは人から見れば優しげなものなのだけれど、イドルフリートはこれまで誰も信用せず、ひたすらに距離を置いてきた。その距離を縮めて、後悔するのはいつだって自分だ。
「そう。うちの子になるの。私はテレーゼ」
「……それはそれは、面倒なことですね」
 口元を歪めてふと笑うのを、テレーゼと名乗る女性は顔色も変えずに見ているだけ。次はどれくらいだろうか。せめて義務教育を修了するまでは、腰を落ち着けたい。高等学校であれば、寮がある学校もあるし、奨学金を借りればいい。イドルフリートがそんなことを考えていると、目の前を小さな影が横切り、テレーゼの足に抱きついた。
「ムッティ!」
「あっメルツずるい!」
 後ろから追いかけてくる、色の違う同じ顔。双子か、と何の気はなしに思う。
「二人とも、挨拶しなさい」
 彼女の言葉に、二人の子どもはじっとイドルフリートを見た。どこまでも真っ直ぐな、イドルフリートが苦手な視線だった。
「だぁれ?」
「あなたたちのお兄さんになるのですよ」
「…?」
 母の言葉を、子ども達はすぐには理解できないようだった。その反応に僅かに笑ったイドルフリートの方へ、闇色の子の方が近付いてくる。
「この子がメルツで、その子がメルヒェン。どちらかというと引っ込み思案なのだけれど」
 メルヒェン、と言うらしい子は本を持ったままのイドルフリートの制服の袖を引っ張り、にこり、と笑った。
 母親に抱きつけなかった故の行動なのか、そうでないのかはわからなかったけれど、本を置いて撫でてやれば擽ったそうにしてイドルフリートの膝に抱きついてきた。
「……!」
「あら、懐いたようね」
「おにい、ちゃん?」
「……イドルフリート」
 どう呼ばれても、別段気にすることはない。勝手に呼びたいように呼べばいい。けれど、そう呼ばれるのだけは、抵抗があった。
「いどりゅ……いど!」
 幼子にとって、その名は呼びづらいものらしい。結局、メルヒェンはそう呼ぶことが気に入ったのか、何度も何度もイドと口にした。その様子を見ていたメルツまでもが同じようにイドと呼び始め、イドルフリートは困ったような表情で二人を見ていた。
「いいじゃない。家族になるんだもの。ねぇ、イド君?」
「……だが、」
 懐かれても、どうしたらいいのかわからない。
 いつまでの『兄』なのかわからないのだ、いつまで『家族』でいるのかわからないのだ。いずれにせよ、期間限定であることには間違いない。ならば優しくする必要などないのではないか。どうせ離れるのだから。イドルフリートの逡巡を感じ取ったかのように、テレーゼは近寄り、イドルフリートの髪にそっと触れた。
「いいのよ。もう独りじゃないのだから」
 いど、いど、と繰り返す子に再度手を伸ばすことも躊躇われ、伸ばしかけた手もそのままだった。
 先程はつい撫でてしまったが、触れても、呼んでもいいのか。
 信じても、いいのか。
「私はあなたを独りにしないわ、イドルフリート」
 けれど、信じて裏切られるのは自分自身で、それがいやだったから距離を置いてきたのだ。迷惑を掛けているのはわかっていた。だから、いつしか家族と呼ぶことすら憚って、自分を居候以下の存在としてきた。
「だがっ…」
 開きかけた口は、言葉を発する前に閉ざされる。何度言ったかわからない、何度言われたかわからないその言葉を無理矢理飲み込んだ。
 俯いたイドルフリートの視界に入るのは、自然と白と黒の影で。不思議そうに見上げるその瞳から、逸らしたくても逸らせない視線。
「いいのよ、イド」
 ふわりと感じるそれに、抱き締められたと気付いたのは少し経ってからだった。足元の二人も真似するように両足に抱きつく。
 公衆の面前での恥ずかしさより、その温かさの方が勝っていた。そうされるのはいつ以来だろうか。そもそも、そうされたことなどあったろうか。成長するにつれてその機会が減るのは当たり前だけれど、イドルフリートにはその機会すら与えられなかったような気がする。
 だからこそなぜだかそれが酷く嬉しくて、安心できた。結局、欺いていただけなのだと。本当は、いつだって求めていたのだと。
 そう至った瞬間に、目の奥がつんとするのが、容易にわかった。涙なんて悔しいから必死でこらえて、イドルフリートはきつく目を瞑った。
「いど?ないてるの?」
「…泣いて、などいないよ」
「いど、いど、なかないで」
 だから泣いてなど、と返す前に、耐えきれなくなったそれが頬を流れて、イドルフリートは慌てて袖で顔を隠す。突然涙を流した兄となる彼に、二人の子はただおろおろとしているだけ、テレーゼは未だ抱きしめたままだった。
「これが最後よ、イド。子供は遠慮しなくていいの。…うちにいらっしゃい」
「……はい」
 かすれたような小さな声で、聞き取れたかどうかもわからないけれど。その日初めて彼は、家族の温かさに触れた。




「いーど!」
「いど、どうしたの?」
 はっと気づけば、心配そうに見つめる二対の瞳があった。辺りは夕暮れで、そこそこ長い時間、物思いに耽っていたのだと知る。もう帰らなくては、夕飯に間に合わなくて叱られるのはごめんだ。
 初めから恐れることなく接してくれた双子は、今やさらに懐いていて、一緒にいられる時は片時も離れようとはしない。特にメルヒェンはそれが顕著なようで、メルツに比べて内向的な彼は、好奇心が向けば走って行ってしまうメルツとは違い、どこへ行っても大抵イドルフリートの手か、それでなければ裾を握っている。勝手にどこかへ行って迷子にならないのはいいが、来春には小学校へ上がるのに、このような調子で大丈夫だろうかと少し心配になる。
 いずれにせよ、懐いてくれるのは悪い気はしない。この家に来てすぐの時も、変わらずに公園で時間を潰していて、そのたびにテレーゼや二人が迎えに来たものだ。
 イドルフリートは二人の髪を撫でて、少しだけ柔らかな表情になる。巧く笑えないのは慣れないからだ。
「帰ろうか、メル」
 立ち上がって手を差し出せば、その両手には、一回り二回り小さい手が乗せられる。
 すでに時刻は夕暮れ時。今日もまた変わらない一日が終わっていく。その日常を、ようやく手に入れた彼にとって、夕陽は酷く穏やかなものだった。




     End.




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ただ一度の微笑みで、



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2011.11.10