となりの。3-1 | ナノ


 カツ、と靴を鳴らしながら、イドルフリートは白い廊下を進む。すれ違い様、おはようございます、と声を掛けてくる女子社員に挨拶を返しながら、いいポテンシャルだな、などと思うが、それを表に出すことはない。少しでも表に出せば、すぐさまセクハラなどと訴えられてしまうだろう。世の中は恐ろしいのだ。
「おはようございます、エーレンベルクさん」
「ああ、おはよう」
 片手を上げて、社交用の笑顔で返す。
 彼が担当するのは研修だ。『私の名は、イドルフリート・エーレンベルク。イドと呼んでいいのは私が認めた者だけだ。諸君も早く一人前となり、私をそう呼べるようになってくれ給え』と言ったのはもう3ヶ月は前になるが、毎年何故かこう言うと皆張り切るものだから、常套手段として使ってはいる。
 彼女も今年の新人で、律儀にファミリーネームを呼んでくる多数のうちの一人だった。何十人といる新入社員の一人ひとりの名前までは、さすがに覚え切らないが、顔は何となくわかる。ふと立ち止まった彼女はまじまじとイドルフリートを見たあと、何だね、と問う彼に笑顔で言った。
「エーレンベルクさん、最近楽しそうですね!彼女でも出来たんですか?」
「……そう見えるかい?」
 ふむ、と考えたあと、思い当たる節があるのか、はっとした表情になるイドルフリートを見て尚、彼女はニコニコと笑っていた。
 最近の変化といえば、隣に住む少年が、食事を提供してくれるようになったことだが、それのことなのだろうか。
「はい!エーレンベルクさん、最近ずっと笑顔ですもん!」
 言うだけ言って、時間ですね、またお願いします、と元気に去っていく彼女の後ろ姿を、ぽかんと見たあと、イドルフリートは自分もデスクに行かないと、と僅かに足早にそこを後にする。
 近頃、仕事が早くなったように思う。もとよりそれなりの仕事量があったから、定時上がりなど稀なことではあったけれど、以前のように時計が天辺を指した後に帰宅、というのはなくなった。けれどそれで作業が追いつかない、ということはないから、単に本当に仕事が早くなったのだろう、とイドルフリートは思っていた。
 3階の狭い部屋に、イドルフリートのデスクはある。所属としては人材開発室なるところだったが、人を育てるなどと考えたこともないイドルフリートにとっては、人事異動とはわからんものだ、というのが率直な感想だった。
 イドルフリートが部屋に入ると、女子社員と話していたこともあってか、もう皆が皆揃ったあとだった。
 ただ一人をのぞいて。
「…………おい、コルテスはどこだ」
「さぁ」
 呆れたように問うイドルフリートに対して、気にもしていない風に返す女性。サバサバとした印象を受ける、イドルフリートの同僚だ。
 すでに時刻は始業を過ぎ、何故室長たる彼がいないのか、最早いつものこと過ぎて誰も咎める者はない。ただ、イドルフリートを除いて。
 遅かった彼が言えたことではないかもしれないが、そんな彼より遅いというのはいかがなものだろうか。こめかみに手を当てて盛大に溜息をついたところで、廊下から忙しない足音が響いてきた。
「すまない、すまない!遅れ…ぶっ!?」
 軽い調子で入ってきた彼の言葉は、カエルが潰れたような声に阻まれて最後まで続くことはなかった。イドルフリートがたまたま手元にあったティッシュペーパーの箱を、彼の顔面目掛けてブン投げたからだ。
 勿論それはクリーンヒットを果たし、その結果があの声だった。
「何すんだよ」
「それは私のセリフだ低能が!毎日毎日遅刻…!?コルテス、君は室長という自覚がないのか!」
「まあそういうなって、イド」
「その名で呼ばないでくれ給え!そう呼んでいいと、許した覚えはないぞ!嗚呼もう…!レティーシャ、君からも何か言ってやってくれ!」
 レティーシャ、と呼ばれて反応したのは先程の女性だ。一瞬だけちらりとイドルフリートとコルテスを見たあと、机上に視線を戻しながら、ペンを持つ手をひらひらと振った。
 それはさながら、仕事の邪魔だ、どこか行けとでも言わんばかりに。
「痴話喧嘩なら余所でやっておくれ。こちとら仕事で忙しいんだ」
「痴話…っ!?」
 コルテスから視線を背けて絶句しているイドルフリートに、今だ、とばかりに背後から抱きついた。
 びくり、と身体を跳ねさせるイドルフリートに構いもせず、コルテスは彼の項に顔を埋めた。シャツが皺になると抵抗してみるが、哀しいかな、腕力ではかなわない。
「あっ、ふ…ちょっ…やめ給えっ…おい!」
「イドお前、いい匂いがすんなー…」
「ぁっ…、バカなことを言わないでくれ給え!ここを何処だと思ってい、るっ!」
 この公然猥褻のド低能をどうにかしてくれ!とばかりに思いっきり身体を捻り、その拘束から抜け出したあと、よろけているコルテスを力の限り蹴り飛ばす。仮にも上司の筈だが、コルテスのイドルフリートに対する諸々も部下に対するものではないので、恐らく気にしていないだろう。
 廊下まで追いやられたコルテスに、小さく鼻で笑ったあと、バタンっ、と勢い良く扉を閉めた。
 溜息をついて椅子を引き、ようやく腰を落ち着けることが出来た。イドルフリートが頭を抱えると、レティーシャはどこか哀れんだような目を向けてきた。
「お疲れさまです、イドさん。相談ならいくらでもノりますよ」
「君は楽しんでるだけだろう…」
 そんなことないですよ、とイヤらしさすら見え隠れする笑みを浮かべる同僚に、本日何度目かの溜息をつく。不意に、レティーシャが頬杖をついてイドルフリートに声をかける。柔らかい表情だったので、特段裏も無さそうだ。
「ねぇイド。最近何かいいことがあったんじゃないかい」
「……君まで…そう見えるかい」
「ここんとこ、えらく楽しそうじゃないか。バレないとでも思っていたのかい?」
「いや、そういうわけじゃないが…」
 イドルフリートとしては、特に普段と変わっているようには思わなかった。自分で思っている分と、他人から見る分は違うのかもしれない、とも考えた。
 楽しそう、に見えるのだろうか。確かあの少年の部屋に一度成り行きで転がり込んだ日から、もうひと月近くになるが、挫折することなく本当に食事を共にしているし、今日のシャツも彼がアイロンをかけてくれたものだ。彼の料理は美味しいし、彼自身楽しんでいるようにも思えた。何より、イドルフリートが彼を見ていて飽きない。当初の緊張も大分解け、彼の素顔を見る度に、微笑ましい気分になる。
「お前さんがそんな表情をするだなんてね」
「はっ…?そんな…?」
「端から見てて幸せそうですね!これが最近流行のリア充ですか!」
「やかましい!」
 きゃー、イドさんが怒ったー、などと言う彼は取りあえず放置しておく。本当に人事大丈夫かと心配になってきた。
 それにしても、隠しているつもりもないが、そこまでわかるものなのか。イドルフリートがうんうん唸っていると、レティーシャはくすりと笑った。
「女の勘ってヤツさ。で、どんな可愛い子なんだい?お前さん程の美丈夫を射止めた女は」
「はっ…女?…あ、いやいや、そういうんじゃないぞ。確かに面白いのは見つけたが」
「違うのかい」
 イドルフリートが顔の前で手を振って否定すると、レティーシャは今度こそ驚いたような表情を見せた。散々からかっていた彼は既に会話に飽きたらしい。
「大学生の少年でね。歳の離れた弟みたいなものさ。見てて飽きない」
「ふーん。私ゃてっきりとうとう身を固める気になったかと思ったよ」
「ははは…まだそれはいいかな…」
 そろそろ室長殿を迎えに行ってやるか、と適当に理由をつけて一旦席を立ち、そのままトイレの鏡の前。どこかで拗ねているだろう彼よりも先に、確かめたいことがあった。
 むに、と自分の頬を手で挟んで、どこか困ったような表情で鏡とにらめっこをする。イドルフリート自身は、いつもと変わらない日常を送っているつもりであったのだが。
 幸せそう。その意味がわからないほど、イドルフリートは低能ではなかったが、いざ人から自分がそうだと言われても、何処か釈然としないものがある。
「……そんな顔してるか?私」
 自分のことは、考えている以上に自分でもよくわかっていない。そのことをイドルフリートは実感した。
 とりあえず今のところは、今日の夕食のメニューにでも想いを馳せて、イドルフリートはコルテスの捜索を始めた。