となりの。2-1 | ナノ


 次第に春の心地よさを過ぎ、夏へと向かうその一歩手前。天候が足踏みをする季節だが、じとりとした湿り気はまだ少ない。
 薄目の掛け布団をぐいと引っ張り、肩まで温かさに埋もれようとしたメルヒェンだったが、途中で引っかかるものを感じて、寝返りを打った。薄目を開けると、目の前に昨日の朝にはなかった金糸が飛び込んでくる。
「………〜〜っ!」
 寝起きの声にならない声で小さく叫ぶと、綴じられた睫がゆっくりと解かれて、海のような瞳が覗いた。
 そこまで来て、昨日の事をようやく思い出す。寝る前の記憶を一瞬とはいえ綺麗さっぱり消し去ってしまう、睡眠とは恐ろしいものだ。
「耳元で叫ばないでくれ給え…鼓膜が破れてしまう」
「ご…ごめんなさい…」
 昨夜、帰宅してみれば、隣の部屋の前にいたのは朝と同じ金の髪のきれいなひとで、どうも鍵を忘れたらしい彼を一晩うちにあげることになり、話の成り行き上、彼の食事を作るってことになって。うん、わからない。メルヒェンはそこまでは覚えていて、それからしばらくもわかってはいたのだが、どうして今の状況に至ったのか記憶にない。
 何故、布団一枚で男2人で寝ているのか理解できない。
 そもそも一人暮らしの家には布団は一揃えしかないのだから、どちらかが布団で寝れば、必然的にもう片方は床で寝ることになるのだが。
「えっと…Guten Morgen、イドルフリートさん」
 どことなく湧いた羞恥心を隠すように、メルヒェンは彼に声をかける。対してイドルフリートの方は、特に何も思わないのか、くすりと微笑んで挨拶を返した。
「Guten Morgen、メルヒェン。イドと呼べ、と言わなかったか?」
「イドさん?」
「イ、ド」
「…イド?」
 何故、彼がそう呼ばせたいのかはわからなかったが、おそらくそう呼んでおかないと先に進めそうになかったので、メルヒェンは大人しく彼の言うことに従っておくことにする。
 満足そうに撫でてくる手のひらが、温かく感じるのは何故だろうか。女手一つで育ててくれた母の元から離れ、一人暮らしを始めたものの、やはり寂しいと思っていたのだろうか。
 会ったばかりではあったが、エレウセウスやイヴェールに抱く気持ちとは違う温かさ、そう、どちらかと言えば母に触れられる時に似た温かさが、そこにはある気がした。
 ふるふると頭を振って、メルヒェンは起きる。時計を見れば、いつもの起床時間。
「えっと、イド…?」
「何かね」
「着替えはどうする…んですか?」
 確実にいくつも年上の相手、気を使うなと言われてもそう簡単にはいかない。イド、と呼ぶことすらむず痒い。
 なかなか解けないメルヒェンの様子に、イドルフリートがため息をつく。もとが人見知りなのだろう。男一人を部屋に上がらせるのは、おそらく天然だ。これでは親も心配をしよう。
「イド?」
「…君が普通に話してくれるまで、返事はしない」
「え」
 朝は短いと言うのに!この男は何を言っているのだろうか。
 ちょっと面倒な人なのかも、とメルヒェンはどこかで思うが、そんな考えはひとまず置いておくことにする。とりあえず、彼の望み通りにしておくのが一番だろうと判断した。
「イド」
「…」
「えっと…着替えはどうする…?」
 上体を起こして微笑んでいるだけだったその口元が、メルヒェンの言葉のあと、ようやく動いた。
 その表情が至極満足げだったのは、気のせいではないだろう。
「向こうに予備があるから、昨日のままで問題ないよ」
「…そう」
 その答えを引き出すのに、大分苦労したように思う。メルヒェンは寝間着から普段着へ着替えた。ジーンズと、半袖のシャツに七分袖の上着を羽織る。
 イドルフリートが着ていたのは、メルヒェンに借りたジャージだった。昨日の服をそのまま着るでも、彼としては構わなかった。
 のそりと起き出して服を変えようとすると、新しいカッターシャツが置いてあることに気がついた。メルヒェンはもう服を着ている。何故、ここにあるのだろうか。
「あ、昨日の服洗ったから、代わりにそれどうぞ」
 新品だから問題ない筈、とメルヒェンは朝食の準備をしながら言った。
 真新しい白いシャツ。何かあったときの為だろう。
「いいのかい?」
「どうせ着ま…着ない、から」
 どことなく固いその様子に、気付かれないように苦笑して、そっと背後に回る。
 卵を解くのを背後から覗いて、そっと声をかけた。
「すまないね、何から何まで」
「っ、イドさん!」
「イド」
「………。イド、びっくりするから、向こうで着替えて」
 丁度、チン、というトーストが焼けた音がして、メルヒェンはイドルフリートを避けるように、トースターに手を伸ばす。
 やれやれという振りをしたイドルフリートは、おとなしく着替えに戻り、メルヒェンは朝食の準備を続けた。
 今日の朝も、いつも通りのトーストとスクランブルエッグ、少し大雑把なサラダ付き。バターはお好きに、とばかりに真ん中に置かれ、今はメルヒェンがバターナイフを手に取っている。
「そういえばメル、君はいくつなんだい?」
「……この春から大学生」
「18、9歳くらいかい?」
「誕生日来てないから18歳…イドは…?」
「そうだね、君より10ばかり上さ」
 美味しいね、とスクランブルエッグを頬張りながら、イドルフリートは答える。
 テレビを付けっぱなしにするのもいつもと変わらない。朝のニュースをただ流すだけで、普段からちゃんと聴いてもいない。
 トーストにかじりつくメルヒェンは、ぼんやりとイドルフリートを見ていた。どうしてこうなったかなぁ、などと考えながら。
 ちゃんと考えずに言葉を発するのは悪い癖だが、今のところそれを後悔する気持ちはなく、それどころか言って良かった、とすら考えている。今後のことなどそれこそわからない。
「そういえば、どうしてイドと呼ばせたがるの?」
「その方が仲良くなれるだろう?」
「…そういうもの?」
「何事も形からってね」
 気付いたらイドルフリートはもう食べ終わっていて、メルヒェンもあと僅かである。
テレビからはいつもの合図の天気予報。本日も晴天なり。ぁ、と小さく声を上げて、メルヒェンは残りのトーストとスクランブルエッグを一緒に口に放り込んだ。
 もぐもぐと口を動かしたまま使い終わった食器を片し、そのあとで髪をまとめる作業に入る。イドルフリートはテレビを見たままで、その髪にはもうしっかりと赤いリボンが結ばれていた。
 急いでいる時にはなかなか巧くいかないものだが、纏まっていればこの際どうだっていい。テレビの前に座りっぱなしのイドルフリートを急かして、彼はお気に入りの鞄を肩にかけた。
「いってきます!」
「あぁ、いってらっしゃい」
 癖のその言葉に、返事があるというのはどことなくくすぐったい。彼と会ってから、一日しか経っていないのが嘘のように感じるのは、彼の人当たりが身内に接するもののようだからだろうか。
 足早に扉を離れ、階段を下りるメルヒェンの後ろから、イドルフリートは何かに気付いたか、メル、と短く呼び止めた。自分の名を略させようとするくらいだから、人の名を短く呼ぶのは癖なのかも知れない、とメルヒェンは考えながら振り返る。
「どうしたの、イド」
 緊張が解けている自分がいるのに、メルヒェンはまだ気づかない。
 イドルフリートの手が顔に伸び、何かあるのかと彼は目を瞑るが、それは頬を過ぎてリボンに向かった。くっ、と引かれるとそれは簡単にほどけて、背中に少し癖のある髪が広がる。
「何をっ…」
「後ろを向き給え」
 肩を押され、後ろを向かされる。少し身体を沈めろと、頭から押さえつけられる。似たような背格好だからやりにくいのだろう。
 髪を手櫛で梳かれ、纏められる。自分がするいつもとは違う、くすぐったさにメルヒェンは肩をすくめた。
「君はまだ若いのだから、少しは身なりに気を使い給えよ」
 イドルフリートが結んだそれは、先程メルヒェンが自分でしたものと比べても、しっかりと解けないようになっていた。リボンから手を離され、もういいよ、とばかりに頭を撫でられた。
 再度振り返ると、似たような目線の高さでイドルフリートは笑っていて、その表情にメルヒェンは視線を逸らした。それからぽつりと呟くのは感謝の意で、どことなく色の悪い顔が赤くなっているのに、イドルフリートはくすりと笑った。
「あ、ありがとう…」
「どういたしまして。さ、行き給え」
「ぁ、時間…!いってきます…!」
 年の離れた弟でも見るような目で、イドルフリートは走り去る彼を見ていた。完全にその姿が見えなくなってから、イドルフリートは踵を返す。そのポケットから携帯電話を取り出し、何やら上機嫌でいじり始めた。