となりの。1-1 | ナノ


 雨上がりの朝と言うのは気持ちの良いものだと思う。昨日までの鬱屈した気分を吹き飛ばし、すっきりとした目覚めをくれる。
 この春大学へと進学したメルヒェンは、学校の近くに住まいを借り、ひとりぐらしを始めた。1Kの決して広いとは言えない部屋で、すべてをひとりでこなさなければならないというのは、それまで母親に頼りきりだったこともあってやや骨が折れたが、それも2ヶ月経った今では少しずつ慣れてきている、とメルヒェンは思う。
 朝は早起きになったし、二度寝することもなくなった。いい傾向だ。
 入居者は大学生が多いというが、このような場所ではなかなか顔を合わせることもない。特に隣の部屋の住人は、メルヒェンがいつ帰ってきても真っ暗で、生活感がない。メルヒェンは密かにその部屋を開かずの部屋、と呼んでいた。
 空き部屋なのかな、と思うこともあったが、どうやらそれも違うようで、たまにゴミが出してあるから、ちゃんと住んでいるのだろうとは理解できた。
二日分の洗濯物を片付けてから、メルヒェンは時計を見、嗚呼朝ご飯を食べなければ、と室内に戻った。
 朝は大体トーストだ。あとはサラダと、牛乳。その日の気分でスクランブルエッグだったり、目玉焼きだったり。新聞のテレビ欄をチェックしながら、口の中に押し込んでいく。朝はきちんと食べなさい、とは母の口癖であり、メルヒェン自身、朝は食べないと調子が出ないどころか体調そのものが悪くなってしまうため、朝はちゃんと食べるようにしている。
 流しっぱなしのテレビからは天気予報が流れ、今日は快晴だと伝えている。それを合図に、そろそろ家を出ないと、と彼は食べ終わった食器を洗った。
 身支度は簡素なものだ。ゆるりとカーブする髪を濃い青のリボンで束ねる。白いシャツとジーンズに、教科書の入った斜めがけの鞄。まだ一年目のメルヒェンは、必須科目も多く、教科書の量が馬鹿にならない。ロッカーを借りておけばよかったと今更になって思うが、手遅れである。一年は我慢するしかない。
 トントン、と爪先で床を叩いて、靴を履く。いってきます、と誰にでもなく呟くのも、昔からの癖だ。
 ガチャガチャとドアノブを動かして、鍵を掛けたことを確認する。振り返れば、先ほどから少し位置の高くなった朝日が眩しい。
 んん、と一つ伸びをして、さあ行くぞという時になって、ふいに隣から扉の開く音がした。
「ぁ…」
 メルヒェンが開かずの部屋と呼んだ、あの部屋だった。この部屋に住んでいるのは、一体どんな人なのだろう。これを逃すともう知る機会はないのかも知れない、と思うと時間よりもそんな好奇心の方が勝って、思わずじっと見つめてしまう。
 身動きをすることすら忘れてメルヒェンが見ていると、その扉から覗いたのは、流されるままの金の髪。さらりと爽やかな風に靡く姿を、彼は素直に綺麗だ、と思った。
 何か、声を掛けなければ。メルヒェンは焦りながら口を開く。こういう時、ちゃんと出てこない言葉がもどかしい。
「ぁ、ぐ、Guten Morgen、えっと…Frau?」
 きれいなひとだと思った。
 心臓が早く脈打つのがわかる。何故緊張しているのだろう。生活感の無さ過ぎるその部屋から出てきたのが、予想外の人だからだろうか。
 背の丈はメルヒェンと同じか、少し高いかくらいだった。
 自分に声を掛けられていると気付いたのだろうか。その人は彼を見るが、長い髪に隠れ、口元以外の表情はわからなかった。口端を僅かに上げ、微笑んでいるのだと思う。かつん、と歩を進めるその足もとすら、優美な気がした。
 通り過ぎようとするその人に、ぁ、とメルヒェンが再度声を発する前には、彼の肩に捕まれたような感覚と、背中に触れる堅い感触。突然のそれに、メルヒェンは反射的に目を瞑った。
 その後から、唇に触れるのは何だろうか。柔らかくて、温かい。恐る恐る目を開けてみれば、蒼と碧の瞳が至近距離でこちらを見ていて、顔がすぐ近くにあるのだとわかった。
だったら、この感じは。
「…っ!!んむっ…」
 キスされているのだ、とどこか他人事のように思った。顔が熱くて、きっと赤くなっている。
 とても長い時間のように感じられて、この場に誰もいないのが不幸中の幸いだった。見られていたら、しばらく家に引きこもっていただろう。
 顔の横に手を置かれて、唇を放された。それは触れるだけのものだったけれど、思わず呼吸を止めてしまったメルヒェンが息を上げるのには充分すぎるものだった。
「ふふ、Guten Morgen、Fräulein。お目覚めは如何かな」
 テノールの声が耳をくすぐる。メルヒェンは肩を強ばらせたまま、動くことはできなかった。
 じっ、と見つめる先には、愉しそうな表情をした、きれいなひと。
「わ……っ、私は男だ!」
 その場にいることすら何だか居たたまれなくなって、メルヒェンは逃げるようにその場から走り去った。