君のためだけの、ただ一度 | ナノ


 この仄暗い宵闇の森に、朝が訪れることはない。正確には、そこに縛られている彼が、その森に朝が訪れているのを見たことがない。
 本来であるならば、朝と夜はさながら命のように巡り続けるものではあるのだが、まるで常に死に傾き続ける彼に光は許さないとでも言っているかのように、彼のいる井戸を囲む森は暗いままである。
 井戸の底は暗く、寂しい場所だった。この身体が温度を覚えていれば、思わず身震いをしてしまう程度には寒くもあるのだろう。
 常であれば、彼の側には常に少女人形、エリーゼがいたから、寂しいなどとは思わないが、彼女は時たまこの井戸を離れる。その間、エリーゼがどこへ行っているのか、彼は知らない。
 屍揮者たる彼が目を覚ましたとき、珍しく彼はその独りの時だった。
「エリーゼ?」
 呼んだところで彼女の声が返るはずもなく、狭い井戸で急に心細くなったのだろうか。恐らく、だからと言うこともないのだが、井戸の外へ出てみたのは本当に気まぐれだった。
 彼は名をメルヒェンと言った。
 彼自身、気づけば井戸の底にいたためか、すべてが酷く曖昧に感じられ、彼はそれを気のせいだと思っていたけれど、同時に何かが疼くのも感じていた。
 特に己の生死の概念に関してはそうで、メルヒェンに井戸の底以前の記憶がないことも手伝ってか、自分は今『何』なのか、メルヒェンはそれを表現する言葉を持たない。
 けれどもメルヒェンからしてみれば、自分が死んでいても生きていても、そんなことはどうでも良く、彼にあるのは只少女人形と共に復讐をすることだけであり、それ以外のことは露ほども重要とは思わなかったのも事実である。
 死とはなんだったかと考えたところで答えなど出るはずもないのだから、とメルヒェンはその問いをとうの昔に放棄していた。
 一人で見上げる月夜が蒼く陰る。月景はメルヒェンを照らし、地に縛られる彼を嘲笑っているかのようだった。木々に遮られながらもメルヒェンの井戸は月光を受け入れ、仄かに色づいているようにすら見えた。
 彼はしばらく月を見上げて呆けていたが、やがて井戸を背にして腰を下ろした。
 先程目を覚ましたとき、メルヒェンには寂しさと同時に懐かしさが残っていた。何か夢でも見ていたのだろうか。忘れてしまったはずの温かさがあった気もしたが、この血の巡らない身体はそれは気のせいと言わんばかりに冷たいまま。それに心まで冷え切ったように、感じたはずの懐かしさの正体をメルヒェンが思い出すことはなかった。
 それを寂しい、と思ったことは、今までなかったはずだ。それでも今はそう感じているのは確かで、何が、とはわからないが、実際寂しかったのだろう。
 抱いた膝に顔を埋めて、メルヒェンは目を閉じた。
 遠くで子守唄でも望んでいる自分がいて、ふ、と自嘲をこぼしながら。












 森をかき分けて、イドルフリートが戻ってきた時、珍しくメルヒェンは外にいた。
「……」
 何かあったのかとも思ったが、足音をなるべく立てずに近づいてみれば、聴こえるのは寝息だけ。必要ないはずの呼吸を無意識にでもしてしまうのは、彼が生きていた証拠なのかもしれない。
 何もないということに、イドルフリートは一つ安堵して、同時に何故こんなところで眠りこけているのか疑問に思った。エリーゼは不在なのだろう。彼女がいればこんなところで寝入ったりしないはずだ。
 外では何があるかわからないから、とメルヒェンにあまり外を出歩くなと言ったのは彼だったが、この様子ではあまり意味がなかったのかもしれない。
 いずれにせよ、メルヒェンが風邪を引くなどということはないだろうが、井戸に背を預けて寝ていられるのでは後々どのように影響するかわからない。
 イドルフリートはひとまず、メルヒェンを起こすことにして、なるたけ優しく声をかけた。
「メル、起き給え」
「んむ…」
 起きる気配はない。それほど心地がよいのだろうか。少し揺らしたことで覗く表情は、なるほど、確かに幸せそうだ。
 彼はどんな夢を見るのだろうか。イドルフリートは少しだけ興味を持つが、まずはメルヒェンを起こさねばならない。先ほどよりも強く肩を揺らして、イドルフリートはメルヒェンを起こしにかかる。
「ほら、メルヒェン。起きなさい」
「…んぅ」
 もぞもぞと身体を動かして、吐息を漏らした後、メルヒェンはゆったりと瞼を開けた。金とも白とも取れる不可思議な瞳がぼんやりとイドルフリートの方を見るが、焦点は合わないままである。イドルフリートを認識している様子もなく、彼が再び声を賭けようとした時、メルヒェンが徐に口を開いた。
「…ファー、ティ」
 それだけ言うとメルヒェンはまた寝息を立て始めたが、その言葉はイドルフリートを思考停止に陥れるには充分過ぎた。
 イドルフリートはメルヒェンの過去を知っている。そもそも今のメルヒェンにとっては復讐こそがすべてで、メルツだった頃の記憶は持たないはずだし、あったとしても彼は父親を知らない。母親は父親のことを語らなかったし、何か言ったとしても何が違っていただろう。メルツの世界は母の光と少女への切なさがすべてで、それ以外は何も知らない、無垢すぎる少年だったからだ。
 だとしたら、先程の言葉は何だろう。夢、だろうか。それとも。
「メルヒェン、それは」
 …君の、願望かい?
 その言葉が口から出ることはなかったが、くしゃりと髪を撫でてみれば、くすぐったそうに身を捩らせるばかり。
どうするかな。とイドルフリートは考えて、メルヒェンの隣に座った。するとまるで待っていたかのように、彼がイドルフリートの肩に身体を預けてきて、イドルフリートは身動きがとれなくなってしまう。
 それも何か悪くない、と思ってしまうのは、己の想像以上に絆されていると言うことなのだろうか。未だ寝息紛れにファーティと口にする、せめて彼が起きるまでは。
 メルヒェンから遠い方の手で彼の髪をかきあげて、少し無理な体勢で額に口づけを贈る。
「今日だけだし、君だけだよ。メルヒェン」
 メルヒェンのためだけの只一度の子守唄。娘にもしたことがない子守唄。それはかつてどこかで耳にした唄。
 雨が降るなんてこともしばらくは無いはずだからな、と苦笑と供にため息をもらして、彼は音を紡いだ。
 せめてこの時だけでも、彼が安らかでいられるように。









 ――夢を見た。
 ぼやけた視界には女の人と男の人がいて、私の視界は何故か酷く低かったように思う。声をかけられたような気がして、その声の優しさにくすぐったさを覚えた。
 私は家族や親という物を知らないけれど、もしかしたらこういうのを家族と呼ぶのかも知れない。男の人の手がふわりと肩に触れた。
 そこから伝わる温もりに身に覚えのないはずの懐かしさを感じて、ファーティ、と思わず口にした。金の髪が揺れる。
 忘れたと信じていた光は、案外すぐ近くにあったのだろう。
 耳に届くやわらかな唄に、巡るはずのない血が全身にわたり、冷え切った身体をあたためていくような気すらする。
 寂しいとは、もう思わなかった。
 懐かしい、そして柔らかな匂いと温もりに包まれて、私は再び深い眠りに落ちていった。








 エリーゼがそこに戻ったとき、そこにはある種異様な光景が広がっていた。
 宵闇に浮かぶ黒と金の影が、さも仲良さそうに寄り添って、しかもすやすやと寝息を立てていたからだ。
「何カシラ、コレハ」
 呆れにも似た吐息が漏れたが、何やら幸せそうな雰囲気だったので、まぁいいかしら、と思う。肩を預け合って眠る姿にこれではまるで兄弟だ、とエリーゼは息を吐いた。
 大の男二人を井戸に戻すのはエリーゼには到底無理なことではあったし、起こしてまでそうするのは何故だか水を差すようで悪い気がしたのも事実だ。
 森は依然として暗いままだったけれど、二人のいる場所はちょうど月光の注ぐ真下で、照らされた二人の髪はきらきらと輝いて、それをおそらく人は美しい、と形容するのだろう。
 エリーゼにその感覚はよくわからないのだけれど、この光景はなかなかどうして悪くない。
「コノママデイイノカシラ」
 彼女はその衝動の半分を母のものから受け継いでいる。メルヒェンもイドルフリートも、体調を崩すなどということはないだろうが、そのままほったらかしと言うのははばかられて、エリーゼは井戸の隅から掛けるものを、と引っ張り出してきた。
 人形である彼女がそれをするのはやはり骨が折れる作業なのだが、二人を移動させるよりずっといい。
 せっせと二人を包んで、エリーゼは二人の顔を見た。メルヒェンが、寂しがっているのは何となく気づいていたが、エリーゼにはどうしたら良いかわからなかったのも間違いではない。
 仲が良さそうに眠っているイドルフリートには少なからず、感謝しているのだ。
「メルハ一人ジャナイノヨ」
 わかっているかはわからないが、メルヒェンは彼が思う以上に光に囲まれている、と彼女は信じている。
 メルヒェンにとってエリーゼやイドルフリートの存在はどう映るのだろうか。エリーゼにとって復讐は大切だったが、それ以上に過去はどうあれ、彼が幸せになるならば。
 宵闇を照らす光に、エリーゼはそっと微笑んだ。










 その後、メルヒェンよりも一足先に目覚めたイドルフリートが、掛けられた防寒具を見て顔を赤らめていたのはまた別の話である。








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ふたりだけのひみつ


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2011.10