Friedhof | ナノ


 仄暗い森。其処には陽光が訪れる事もなければ、季節が移ろうこともない。其処は現世とは切り離された、永遠とも呼べる繰り返しの森。
 歩を進めるのは銀の髪の青年。頬の紋章と色の違う双眸は、生と死を司る彼を象徴するものだった。
「相変わらず、気味の悪い…」
 いつも共にある双子姫は、今日は一緒ではない。ここに来るのは彼自身の問題だったからだ。
 ぼそりと無意識に呟く言葉は、誰にも届くことなく闇に溶けた。もともと誰に聴かせるつもりも無かったから、それはそれで構わない。
 厚手のコートを翻しながら、足元が夜露に濡れることも気にせずに彼はただ歩く。目指す場所は彼の井戸、彼の墓碑。
 青年は、名をイヴェール・ローランと言った。生まれることなく死を迎える、永遠の冬の名だ。そして、この森とは違う地平の住人でもある。彼はふわりとはねる銀の髪を後ろで束ね遊ばせて、そこを守るように生い茂る蔦を払った。
「…メル君」
 開けた視界に広がるのは、何とも幻想的で、彼にとっては蠱惑的でもある光景だった。一面咲き誇る野薔薇で包まれ、朽ち果てた井戸には、ただ月明かりだけが、優しく降り注いでいる。
 その光景に微かな笑みを見せたイヴェールが、一歩踏み進める度に、まるで怯えるかのように野薔薇は色を失った。
「止まれ」
 後数歩だろうか。まっすぐに井戸を見据えていた彼の頭上から、意味だけをのせた声が降ってきたところで、彼は足を止めた。
 静止を命ずるだけで、他の言葉はない。それはまるで、話すことなどない、という意思表示を言外にしているかのようだ。
「航海士さんは木登りも得意なの」
 しかし、その声が聴こえたことに、イヴェールは驚かなかった。彼がそこにいることを、知っていたからだ。振り返ることもせずに投げた言葉に、返答があるなどというのは期待しなかった。
 案の定それに対する応えはなく、また頭上の彼が動きを見せることも同様になかった。
「何か言ったらどう?」
 見上げるそこには、感情の見えない目でこちらを見据える、金の影があった。さながら海を思わせる瞳は、静かに凪いでいるように見えるが、その底では流れが荒れ狂っていることを、イヴェールはわかっていた。
 太い木の枝に腰掛けていた彼が、前に重心をずらす。そうして、彼はようやくイヴェールと同じ目線のところまで来たのだった。
「……珍しいこともあるものだね。この森に客人など」
 口元に笑みを浮かべてはいるが、その瞳が色を変えることはない。だがそれはイヴェールも同様で、色の違う瞳は視線をはずすことなく彼を射抜いていた。
「メル君はどこ、イドルフリート」
「君如き低能が、私の名を気安く呼ばないでくれないか」
「偶像の癖に、お喋りは立派だね。…ねぇ、メル君はどこ」
「…はっ…今頃は、暁光の夢でも見ているさ」
 井戸の縁に手をかけて、イドルフリートと言う男はまるでそこに、イヴェールが探している彼がいるのだと言わんばかりに、ちらりと井戸の中へ視線を遣った。それは酷く柔らかいもので、イヴェールはその差に僅かに息を呑む。
 髪の色、瞳の色以外はその造形から似通っていて、イヴェールはいつも混乱するが、イドルフリートは彼とは違う。纏う雰囲気の傲慢さは、彼にはないものだ。
「それよりも」
 一端言葉を切ったイドルフリートが、イヴェールを見たときには、井戸に目を遣った時の色はどこにもなく、もとの凪いだ海が、静かに彼を見据えていた。先にあった口元の笑みも、すでに見られない。
 ともすれば腰の剣に手をやり、抜刀でもしてしまうのではないかと思うほどの、殺気に似た空気だ。
 それでもイヴェールは気圧されることもなく、まっすぐにイドルフリートを見返していた。
「まずは離れ給え、君の足下の野薔薇が怯えているじゃないか」
ふと目を逸らし、足下を顎だけで示す。
 イヴェールがそこに意識を向ければ、既に枯れ果てた野薔薇が横たわっていた。それが彼の性質。朝と夜の狭間に囚われ、生まれることのない冬の因果。
 その纏う気質はすべてに冬をもたらす。だからこそ彼は、彼の世界から出ることはなかった。
 だが今は。
「それで。何の用でこんな辺鄙なところまで来たのかね。――冬の子が」
 下手なことを言えば斬る、と裏に含んでいそうな程、イドルフリートは敵意も殺気も隠そうとはしなかった。
「メル君を迎えに来た」
 一歩だけ下がって、イヴェールは言葉を繋いだ。
 途端、ひゅ、と眉の辺りに風が通り、はらはらと髪が数本落ちる。彼がその刃を抜いたのだ。だが、それであっても依然として平然を保つ彼に、イドルフリートは舌打ちをひとつ漏らした。
「それを私が、許すと思っているのかい?」
「貴方が許す、許さないの問題じゃないよ。決めるのは僕でもないし」
「…私の童話を奪う者を、野放しにしておくとでも?」
「既に役割を放棄した貴方が、僕をどうにかできるとでも?」
 そうイヴェールが言うと、イドルフリートは僅かばかり驚いたような表情をして、それからふっと息を漏らした。顔を背けて肩を震わせるその様に、イヴェールが不審げに見、何が可笑しいのか、と問おうとした時だった。
「ふっ…はははははっ!そうか!君はそう思っているのか!」
「何が可笑しいの」
「私が役目から逃げたと。君はそう言いたいんだな」
「……違うとでも言うの?」
「ふふっ…」
 その表情は笑ってはいるが、イヴェールからすれば歪んでいる、ととれるものでもあった。ひとしきり笑ったあと、イドルフリートはようやくその剣を鞘に戻す。
 ひらひらと両手を振るのは、呆れの体現。イドルフリートのその動作は、イヴェールにとっては気に障るもの以外何物でもない。
「逃げるわけ、逃げられるわけないじゃあないか!
君がそうであるように、私だって同じなのだよ、イヴェール・ローラン!
今は唄わないさ、それがどうしてかわかるかね、冬の子よ!」
「……っ」
「私の童話は、まだ終わっていないからさ」
 尤も、終わらせる気もないがね、とイドルフリートは喉で笑う。問い掛けに答える前に言葉を続けられ、飲まれてはいけないとは思うものの、イヴェールは初めて、彼に対して狂気と言う言葉を投げつけたくなった。
 嗚呼そうだ、狂っているんだ。そう納得させて、イヴェールはまた一歩、身を引いた。強制的に終わらせることとて吝かではないのだが、そんな素振りを見せれば今度こそ本当に斬って捨てられかねない。それは御免だ。
 何より、それをすれば彼が悲しむだろう、とイヴェールはわずかに目を伏せた。この森に季節は訪れないし、時間が動くこともない。永遠とも呼べる、宵闇の森。
「この【森】に、彼のFriedhofに冬をもたらすと言うのなら、私は容赦はしない」
「……騎士にでも、なったつもり?似合わないよ」
「まさか。親は子を守るものだろう」
 楽しそうに、それでもどこか辛そうに、イドルフリートは笑っていた。心の底で、罪悪感でも感じているのだろうか。不器用、という言葉がイヴェールの思考にぼんやりと浮かんだ。
 それでも辛そうに見えたのは一瞬で、素早く自分の背に手を伸ばしたイドルフリートは、今度はイヴェールとの距離を詰め、その喉元に突きつける。
 それは常に彼が持っている、指揮棒。つ、と喉を撫でる感覚に冷や汗が流れた。
くつ、と一つ笑って、イドルフリートは表情を消す。
「さぁ、潔く出直してくれ給え。期を誤るな、とでも伝えるんだな」
「……っ今日はそうするよ。そろそろ時間切れだしね」
 また来るよ、と言い残して、イヴェールは井戸から離れていく。彼の通った道筋が、生い茂る草の中にはっきりと残されていた。
 イドルフリートは、冬がどのようにここまで来るのかしらない。冬以外の地平の住人にも会ったことはなく、いずれ迎える暁光で、そこには皆いるのだろうかとふと考えた。けれどそれはイドルフリートにはどうすることもできず、すべては井戸の底の彼次第。
 イヴェールが去り、唯一人となった彼は、ふと空を見上げる。其処にあるのは、動くことのない蒼い月だけ。
 毎回毎回、起きる度にするはじめましては、いい加減辛いものがある。
「メル…」
 彼の見る暁光の夢は、幸せな偽りの記憶。既に別個の意思を保ちながら、曖昧な彼にイドルフリートが与えた夢だった。
 彼はそれが偽物であるとは知らない。知る必要もない。
「誰にも穢させはしない、ここはFriedhofなのだから…私の童話、私の…、最後の」
 井戸の傍に膝をつき、縁に手を掛ける。祈るように顔を埋めながら、イドルフリートは呟いた。

――いつか迎える暁光で、今はこの【森】で夢を見る君と笑える日は来るのだろうか。――




Friedhof
‐彼にとっての、平和の庭‐





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今は咲き誇る野薔薇に抱かれ

 *friedhof:平和の庭(民間語源)


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2011.10