その日、ミハエルは普段と比較すると少々急ぎ足で学校に向かっていた、理由は今考えてもよく分からないが何故か急がなければいけないような気がしたのだ。
 朝方の住宅街はお世辞にも活気に溢れているとは言い難く、特にミハエルの歩いている道などは他に人っ子一人おらず言いようのない虚無感を加速させるだけだった。早朝特有の静けさは不気味と呼ぶに相応しく、それにどこか薄ら寒いものを感じていたミハエルであったが小さな十字路に差し掛かった瞬間、そんな感覚はどこかへすっ飛んでしまうこととなる。

「わぁっ!?」
「えっ、」

 突如響いた悲鳴にミハエルが目をやれば丁度横合いの道から少年が飛び出してくるところで、未だ急ぎ足で歩くことを止められていなかったミハエルは悲鳴を上げる暇もなく、



「で、見知らぬ少年と正面衝突した挙げ句、相手を押し倒す形になっちまって、ついでに相手のファーストキス、まで、」

 ミハエルと共に昼食を摂っていた一学年下の生徒こと凌牙はそこまで言ったところで不意に言葉を詰まらせ、暫くぶるぶる震えていたかと思ったら途端堪えきれなくなったかのように笑い出した。学校一の札付きと名高い少年が腹を抱えてげらげらと笑い転げる様と言ったらそれはもうシュールの一言に尽きる、普段の刺々しさも露わな彼を知っているのなら尚更だ。
 とんだ失態を暴露してしまった羞恥となんでこいつに言ってしまったのかという後悔とで赤面しているミハエルを尻目に、ひぃひぃと息苦しそうな呼吸を繰り返しながら凌牙はDゲイザーを取り出した。流石にそれには仰天したらしいミハエルが大慌てで止めにかかる。

「ちょっ、待って! まさかとは思うけど、」
「おい、トーマス! お前の弟すげぇ面白ぇ事になってんぞ!」

 しかしそんなミハエルによる必死の制止も虚しく、凌牙のDゲイザーはしっかりと通話モードになっており、おまけにその相手がミハエルの実兄であるトーマスだったので今度こそミハエルはぎゃあと絶叫した。愉快極まりない事の顛末を伝えようとした凌牙であったが、背後でミハエルが狂った様に喚くが故に断念せざるを得なかったようで、あとでまた連絡するとだけ告げて通話を切る。
 通話終了の文字を浮かばせるDゲイザーをポケットにしまい込んだのち、凌牙は未だ意地悪そうににやつきながらミハエルを見遣った。

「それにしたってなぁ、不慮の事故とはいえど見知らぬ少年の尊い唇を奪っちまったわけだ、お前は。この極悪人め」
「やめてよ、なんか僕が犯罪者みたいじゃないか!」

 凌牙の含みのある言い回しにミハエルは再び絶叫する、しかしいくら喚こうとミハエルが見ず知らずの少年とキスをしてしまったことは変わりようのない事実であって、現にミハエルはしっかりと少年の唇の感触を覚えてしまっていた。
 マシュマロのようにふんわり柔く、それでいてしっとりとしていた少年の唇の感触を思い出しミハエルは再び赤面した、それに、自らの下で口元を押さえて瞳を潤ませ顔を真っ赤にしている少年の姿までもが思い出される。別段男色なんていうとんでもない趣味があるわけでもないけれど、今思い返してみれば中々に可愛らしい男の子だった、年頃の少年に向かって可愛いだなんて本人の前で口にしたら問答無用でぶっとばされそうなものだが。
 そう、彼は見るからに思春期入りたての少年といった風貌だった、あのくらいの歳なら好きな子の一人や二人いてもおかしくない、そんないたいけな少年の唇を、あまつさえファーストキスを奪ってしまうとは。
「うっわー、僕最低ー……」
「漸く自覚したか」

 今更ながら耐え難い程の自己嫌悪に陥って頭を抱えたミハエルをびしりと指差しながら、凌牙はにやりと意地悪そうに笑った。いやはや全く、こんな漫画のような事態が起こって良いものだろうか、実に信じがたいと思いながら先に思い出した唇の感触を忘れようとするべく、ミハエルは半ばやけくそ気味にサンドウィッチをぱくりと一口囓った。



 第二の事件が発生したのはその後、屋上をあとにして教室に戻ろうとした時のことだった。空っぽになった弁当箱を片手にミハエルは凌牙と下らない雑談をしながら階段を降りていた、そして目的のフロアに到達し凌牙に別れを告げようと顔を上げた、その瞬間である。背後から、正確に形容するならば先程降りてきた階段の上方から奇声とも悲鳴ともつかない絶叫が聞こえてきて、弾かれたように振り返った。

「は、あ!?」

 そこで彼は再び朝方の如く呆然とすることになった、視線の先には、階段の最上段から落下してくる男子生徒の姿。柘榴の色をした瞳を見開いてぽかんと空いた口腔から悲鳴を響かせながら落ちてきた少年に、親方空から男の子が、なんていう下らないボケを噛ます暇も反射的に回避する暇すらも無く、ミハエルは少年を体で受け止める羽目になった。どすん、と腹に響いた鈍い衝撃に嘔吐感が胸元までせり上がってきたがぐっと堪えて、危うく頭から地面に落下しかけた少年を確りと抱き留める。
 しかし流石に細身のミハエルでは力不足だったのか、加えられた力のベクトルに従って思い切り後ろに倒れ込んでしまった。その後ミハエルは盛大に後頭部を打ち付け、先程の腹部への痛みにも匹敵する痛みに口からは、おうふ、という妙な悲鳴が小さく零れる。
 半ば抱き込まれるようにして受け止められた生徒は何が起きたのか把握できずに目を白黒させていたが、漸く自らが置かれている状況を理解して自らを抱き留めてくれたミハエルに、ありがとう、と感謝の言葉を投げかけた。しかし当のミハエルは痛みの余り返事の一つもできず、返せたものと言えば引き攣った笑みぐらいだったが。

「……あの、」
「ん、何かな……?」

 暫し大人しくミハエルに抱え込まれていた生徒だったが、不意にほわりと頬を赤く染めて口を開いた。あたかも照れているようなその仕草にミハエルは胸が高鳴るのを感じたが(そう男子生徒相手に胸が高鳴るのを!)、生徒が何か言いたげな表情を浮かべているのを察し問いかけて、そして瞬時に彼が言いたかったことを理解した。
 周りがやたら騒がしい、女子のきゃーという昂揚じみた悲鳴やら男子の冷やかすような口調の言葉やら未だ近くに留まっていたらしい凌牙の爆笑やら、その理由は実に明白だった。ミハエルと件の生徒は往来のど真ん中で熱烈に抱き合い、ともすればキスしてしまいそうなほどの至近距離にお互いの顔が迫っているのである。これでは騒がれるのも当たり前だ。
 次の瞬間、ミハエルも生徒と同じく頬を真っ赤に染め上げて、ごめん、と謝罪を口にしながらお互いの体を引き離した。相当に恥ずかしかったのだろう、生徒の頬は熟れた林檎の如く染め上げられ、柘榴の瞳はひどく潤んでいる。扇情的、そんな形容が思い浮かんでしまった自分をぶん殴りたい衝動に駆られつつ、ミハエルは相手の顔をじっと見つめ。

「……あれっ、ちょっと待って、君、もしかして」

 その生徒の顔立ちやらなにやらが今朝方巻き込んでしまった少年に重なる気がして、そう声を掛けた。当の生徒は何のことだとミハエルを見つめ返したが、暫くの後その問いかけの意に気がついたらしく、そして相手が何者であるかもしっかりと把握してしまったらしく。
 途端、大きな瞳からぼろぼろと涙を零しミハエルを振り払うように立ち上がると、ごめんなさいを繰り返しながら駆け出して廊下の向こうへと消えて行ってしまった。その速さと言ったら韋駄天と呼ぶに相応しい勢いで、誰一人として反応する暇もなかったのである。
 ぽつん、と群衆に囲まれつつ廊下に残されたミハエルはと言えば、不可抗力で唇を奪ってしまった少年、兼、不可抗力で抱き締める結果になってしまった生徒が駆けていった方を見遣って、呆然としながら一言零した。

「これなんて少女漫画?」

 現実は小説より奇なりという言葉が頭の中に浮かび上がる、何故かどきどきと高鳴る胸を押さえながらミハエルはさっさと教室に戻るべく、制服を軽く払いながら立ち上がる。運命というのは時に面倒な結果を持ち込んでくれるものなのかもしれない、マジで、という彼に似合わない呟きは鳴り響いた予鈴に掻き消された。



奇 譚



2012.11.17



 

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