僕からしてみれば彼という存在は無垢で愚直で尚かつ救いようのないくらいに馬鹿な子供に他ならなかった、要するに取るに足らない存在だったわけだ。事あるごとにすぐ激情に駆られ、思うがままに叫び喚き散らし、後先など知った事かとばかりに本能に従順な行動原理、実に御しやすい、だからこそ彼の敵意を僕に向けさせる事は簡単な筈だった、それなのに。
 今正に目の前で立ち尽くす彼の瞳には憤怒の色など欠片も有りはしなかった、それどころか紅玉の瞳はどこか僕を哀れんでいるようにすら見える。同情だなんて下らない、そう吐き捨ててやりたかったのにどういうわけか僕の喉はその言葉を口にするのを拒否したようだ、全く、馬鹿にしている。
 耳を刺す程に痛い沈黙を破ったのは彼のほうだった、幼い顔に張り付いた口が常と変わらない、まるで知人にでも話しかけるかのように気楽な様でぱかりと開いた。

「俺は別に、お前に懺悔を求めてるわけじゃないし、お前を断罪しようってわけでもない」

 無知な彼に相応しくない言葉が相次いで僕を襲う、どういう意味だと問う前に一体誰の受け売りだとすら考えてしまう程に、らしくなかった。
 暫くの間、僕は何と口にするべきか逡巡していたが、混乱を極めた僕が導き出すことができた返答は、へえ、という感嘆とも疑問とも果ては嘲りとすらとれるような気の抜けたそれで、自分の言葉ながらまさしく不可解に尽きる。
 僕の困惑を知ってか知らずか、彼は不意に眼を伏せて口角を上げ口元に笑みを形作ると、やはり常と変わらぬ明朗な声音で続けた。

「俺はさ、救いたいんだ」

 彼が何を言おうとしているのか、解らなかった。救うだなんて、こんな絶望と狂気の淵にまで追いやられ最早身を投げるしかないような僕に対して救済だなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 朗らかに笑む彼の声はその明朗な響きを以てして、僕の脳髄をじわじわと侵蝕してきていた。

「シャークも、カイトも、ハルトも、Vも、Wも、Xも、それからお前も、皆、みーんな救いたい!」

 口許をほころばせ、眼を細め、頬を赤らめ、まるで全てを受け止めてやると言わんばかりに両腕を広げて、彼は言う。にこりと笑う幼い相貌がいやに憎たらしい、ふざけるな、と怒りを込めて低く呟けば彼も少々驚いたらしく、数度瞬きを繰り返した。しかしその驚愕も一瞬の事で、気がつけば彼は再び笑みを浮かべて僕のほうを見つめていた。
 なぜだか、怖い。緩やかに弧を描く唇から次はどんな言葉が零れ落ちるのかと想像するだけで、僕の心は焦燥と不安と、畏怖の念に駆られて仕方がなかった。僕の心情をよそに、彼は間髪置かず言葉を紡ぐ。

「まぁ、お前みたいな大人だったら出来るわけ無いって思うかもしれない、無茶苦茶だって言われるかもしれない。だけどな、出来るかどうかじゃない、やるんだよ。俺は子供だから、何をどうしたらこうなるなんて予想は全然つかないけど、だからこそ、」
「黙れ!」

 聞きたくなかった、これ以上、ただ復讐のみに向かっている筈の心を掻き乱されたくなかった。
 僕の言葉とも呼べぬ怒声を耳にした彼は、それだけで先までぺらぺらとやたら饒舌に喋くっていた口を素直に閉ざす、これじゃあまるで僕が子供じゃないか。どうして、こんなにも乱される。たかが一介のしょうもない子供の一言一句にひどく調子を狂わされ、遂には心までをも。

「トロン、」
「っ、やめろッ!」

 最早それは悲鳴に近かった、僕の口腔から飛び出した懇願の台詞は彼の声を掻き消すように響き渡る。右目がやたらと熱を持つ、少しだけ視界が歪んだ気がして、僕は慌てて身を翻して彼の視線を振り解き、さっさとその場をあとにした。
 僕の名を呼んだ声が、憤怒も怨嗟も憐憫すらも無く、ただひたすらに優しく暖かな声が耳に張り付いて離れない。彼なら、もしかしたら本当に僕を救ってくれるかもしれないとほんの少し思っただなんて、そんなことが。有りもしない左の眼窩から、涙がこぼれ落ちたような気がした。



紫 苑



12.10.28


 

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