身の丈程高く聳える塀やら手摺やらというのは、少年達にとっては恰好の度胸試しの場であって、それは中学生というひとつの起点を迎えた遊馬にとっても未だ時偶の楽しみであった。鞄を肩から提げたまま、手摺の天辺に両手をかけ、ひょっ、と身軽な猫のようによじ登って、随分と狭い足場に立つ。河の向こうに浮かぶ夕焼けから吹き付ける風が、思いの外強く遊馬の頬を撫でた。
 風になびいた水面のさざめきは、駆け抜ける車のエンジン音に混じって、小さく声をあげている。橙の光を受けて輝く水の帯はどこまでも延び、肉眼ではとても見えない地平線の向こう、遙か遠くにまで続いているのではないかとすら思えた。河川敷の鮮やかな緑をした土手も、更にそれを挟む白い遊歩道も、果ては街に林立するビルまでもが夕暮れに染め上げられている。

「遊馬くん、そんなことしてると、いつか落っこちちゃいますよ」

 その様を見守っていた真月が、ふとそう口にした。半ばからかいのような声音でかけられた言葉に、遊馬は夕焼け混じりの瞳を真月へと向けて、大丈夫だって、と返しながらへらりと笑う。焔のように揺れる瞳を見つめ、真月は、そうですか、と困ったように零した。
 何かの拍子に足を滑らせて頭から真っ逆さま、という事が起こるかもしれない。枷を付けられていない好奇心と行動力は、時に周囲を不安にさせるものなのだと、遊馬は知らないのかもしれなかった。事実、真月は内心穏やかではなく、いつ遊馬が河に落ちてしまうのかと気が気でない。不意に強い風が吹き付けて遊馬の足下を掬い、その細い身体が中空に投げ出され、幼い指先が空を掻き、そのまま水面に思い切り叩き付けられるのではないかと、嫌な光景が瞼の裏を過ぎっていくのだ。
 真月の内心を知ってか知らずか、遊馬は再び大丈夫だと言い放ち、やたらと狭い手摺の上で器用に半回転して見せた。夕日に背を向けて風を受けながら立つ遊馬の姿は何とも非現実的で、よもやこれは幻なのではと思い込んでしまう程に危うく、殊更真月の胸の内に潜む薄暗い感情を掻き立てる。

「……翼が、付いてるわけじゃないんですから、」

 どことなく自虐じみた苦笑混じりに、そんな不安の声が真月の口から漏れた。身体的な感覚には優れる遊馬のことだ、恐らく落ちる確率はほぼ無いのであろうが、彼は所詮弱っちい人間であるが故、万に一つが有り得ないとも言い切れないのだ。いっその事人間の背に翼でも生えていたならば、こんな妙な焦燥に苛まれる事もなかっただろうに、真月は胸中でそうごちた。
 真月の言葉にも遊馬は屈託無い笑みを見せて、そうだなぁ、とまるで思案するかのように口にする。川縁の土手を舐めるように吹き抜けた風が仄かな緑の匂いを纏って、遊馬の頬をそっと撫でて通り過ぎていった。ばさ、と制服の裾がはためいたのを目にして、真月は咎めるかのように少々低く、遊馬の名前を呼ぶ。しかし遊馬はそれを気にするような素振りも見せず、やはり微笑みながら言葉を返した。

「もし、俺が天使だったら、そんなふうに、真月に心配してもらうことも無かったんだろうな」

 夕焼けに染まった空に霞んで溶けていくかのように、ぼんやりと欄干に立つ遊馬の姿は、口にする言葉も相まってかどうしようもないくらいに非現実じみていて、今にも消え入りそうなその姿を見せつけられた真月はどこか薄ら寒いものを感じ取った。この感覚が一体何なのかと問われれば説明に困るような複雑極まりないものが、ゆっくりと此方に這い寄ってきて、足先からじわじわと上ってくる。
 がぁっ、と騒音を引き連れてトラックが一台、すぐ傍を通り過ぎた頃、漸く真月は我に返って遊馬に駆け寄った。何より真月の心を支配していたのは、不安に他ならなかった。死んだ者は黄泉の国に昇って天使になる、そんなくだらない話が脳裏にふと浮かんだのだ。

「やめてください、そんな、縁起でもないこと言うのは」

 いつになく真剣にそう言えば、ごめんな、という返事と共に申し訳なさに満ちた苦笑が降ってきた。遠くを走る車の走行音に掻き消されてしまう程にか細い声で紡がれた言葉に、真月の顔が歪む。どうしてこの少年はこんなにも自分を不安にさせるのだろうか、らしくもない苛立ちが胸中に生まれて、唇がかたく引き結ばれた。
 真っ直ぐに送った視線の先では、遊馬が白く広がる雲を背負って立っている。真月にとっては、それがまるで白く美しい翼を生やしているかのように見えて、柄にもなくぞっとした。そんな真月の不安をよそに、遊馬は身軽な猫のようにすたりと欄干から真月の隣へと降り立つと、帰ろうぜ、と常と変わらない笑顔を浮かべながら、何事も無かったかのように声を掛けてきた。
 そこからは何時もの帰り道も同然で、他愛ない話をぽつぽつとしながら、時に笑い、時に下らない事で盛り上がって。そろそろ遊馬の家に差し掛かろうかというところで、遊馬がぽつりと零す。

「人ってさ、いつかは死んじゃうんだぜ」

 恐らく誰に掛けられたわけでも無かったであろう、ひどく気弱な声音の言葉は、どんな凶器よりも深く真月の胸を抉った。気がつけばもう九十九家の門扉はすぐ傍で、遊馬は先程の調子など嘘だったかのように明るい声でまた明日の一言を告げると、真月にぱたぱたと手を振りながら、三角屋根の家の中へと消えてしまった。
 夕焼け空はもう宵闇になろうかという頃合いで、薄く紫をその身に宿し始めている。毒々しく見える空を睨みながら、真月は胸中に潜む不安を圧し殺そうとするかのように、縁起でもない、とだけ呟いた。また明日、その言葉すら嘘のように思えて仕方なかった。



ダ ス ク



2013.05.05


 

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