僕の知らない世界というのはおそろしく広くて、僕のようにちっぽけな存在なんてその時間の流れと人の濁流とに呑まれて死んでしまうんじゃないかと錯覚してしまう程だった。
 だからこそ、臆病者の僕は誰にも侵されることのない安全地帯を、誰一人として踏み入ることのできない鍵のついた小さな部屋を探して行く当てもなく走っていた。この馬鹿みたいに広い世界にそんな場所なんてあるわけないと、僕が一番よく知っているというのに。
 それにしたって奇妙極まりない、人は皆こんな臆病でだめだめでできそこないを体現したような存在の僕に向かって、この上なく優しい言葉をかけてくれる、もしかしたらその言葉の裏にどす黒く渦巻くものがあるのかもしれないけれど。
 詰まるところ僕はどこに行っても、どこまで走ってもひとりぼっちになる事なんてできやしなかった。

「遊馬!」

 ほら、また一人。僕の知らない世界に生きる僕の知らない人が、僕の名前を高らかに叫んで僕を引き留めた、どうしてだろう。腕を掴む力はびっくりするくらいに強くて逃れる事なんてできない程なのに、不思議と温かくて、まるで僕を気遣っているかのように優しかった。
 放して下さいと言いたかったけれど、当然臆病者の僕にそんな事なんてできるはずもなく、僕はただその人を前にして立ち尽くすしかなかった。真っ直ぐに見つめてくる海色が痛い、射貫くみたいな視線に僕は閉口した、不安と恐怖とで涙が出てくる。

「どうしたんだ、お前……」

 口を噤んだまま泣きじゃくる僕を、目の前の彼は優しく宥めてくれた。頬を伝う雫を態々指で拭って、大丈夫か、なんて言葉を掛けて、終いにはそっと僕を抱き締めてくれた。
 その優しさが、怖い。
 僕からしてみれば世界なんていうのはみんな敵だ、誰一人として味方なんて居なくて、誰も彼もが臆病な僕を嘲笑っている、それが僕の知っている世界の筈だ。なのにこの人はやたら僕に優しくしてくれる、それは当然奇妙だったし、それ以上に僕の不安を掻き立てた。

「やめて、ください……っ!」

 知っている、世界というのは何時だって無慈悲で、平等に人々を見守ってくれているからこそ決して弱者に干渉はしないのだと。この人だってきっとそうだ、上っ面では僕のことを気に掛けているけれど、どうせ本性は周りと大差ないんだろう、そうに決まっている。
 ぱしん、と掴んでくる手を振り払って、逃げ出した。他人の冷酷さを知っている癖に、あのまま優しくされたら心を許してしまうような気がして怖かった。後から僕を呼ぶ声がする、知らない、僕の世界にあんなにも優しく僕を呼んでくれる人なんて居るわけがない、お願いだから夢なら醒めて、早く、はやく、

「……遊馬?」

 やはり現実は無慈悲だ、どうせ有りもしない空虚をまるで事実のように映し出す、再び名前を呼ばれて、今度こそ僕は悲鳴を上げた。途端、足から力が抜けてへたり込んでしまう、これが安堵故の脱力ならばどれほどよかったことかと、涙が出てくる。
 他人の前でこんなに泣くだなんて、情けない、情けない、と僕の心の奥底から、誰かが僕を嘲っていた。不安ですくんだ足はとても立ち上がることなんて許してはくれず、僕はただ道端に蹲ってコンクリートの上に小さく沁みをつくるばかりで。
 なにかあったのか、なんて優しい声で語りかけてくる誰かの白い指先がのびてきて、そっと肩に手が置かれた。俯いて泣きっぱなしの僕に、幾度も心配の声をかけてくる見知らぬ人の声は、まるで僕の心をゆっくり溶かしていくみたいだ。
 どうせ救われる筈もない僕の心をほんの少しでも騙してやろうと、静かに、水面に小波を立てるみたいに、安堵を煽る。最悪だ、どうして世界はこんなにも僕を陥れようとするんだろう。僕が触れた世界は須く僕を傷つけるためにあるのだと、心の奥底に潜む悪意は意地悪く笑んで語りかけてきた。

(世界は、優しくなんてない)

 世界は優しいなんて最初にほざいたのはどこの誰なのだろうか、僕はその人に会ったが最後、相手を思いきり殴り飛ばしてありとあらゆる罵声を叩き付けるだろう。それ程に、僕はその嘘が憎かった。世界は優しさを抱いているだなんていうくだらない論が、この上無い程に憎たらしかった。
 僕に声を掛けてばかりの誰かは、遂には先の人と同じく、まるで壊れ物でも扱うみたいに僕を抱き締めてきた。小さな子供をあやすみたいに、大丈夫だ、を繰り返しながら僕の背中をさする。
 所詮、その優しさも偽りでしかないのだと、悪意は心の奥底から声を張り上げた。そんなことは、僕が一番よく知っている。みんな揃って僕に嫌悪や憐憫の目を向けていて、時偶投げかけられる言葉すら総て僕をどん底に陥れる為のものなのだと、此の世で一番よく知っているのは僕だから。

「やめて、優しくしないで」

 だからこそ、怖かった。今にもその偽者の優しさに身を任せてしまいそうで、その優しさに溺れてしまうのではないかと不安になって。いっそのこと虚偽であったとしても身を投げてしまおうかと思わせる程に、僕の心は揺らいでいる。
 曇り空の色をした瞳がいやに暖かく僕を見つめるものだから、遂に僕は圧し殺すことの出来なかった嗚咽を上げた。どうして世界は、こんなにも僕につらくあたるのだろうか、答えは出ない。



溺 死



2013.03.06


 

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