それは突然の出来事であった。いつも通りに朝食の支度を終えた名前が、突然真っ青な顔をして厠へと駆け込み、嘔吐し始めた。暫くして覚束ない足取りで戻って来たが、食欲が無いと言って食事に手を付けず、一時間もしないうちに厠へと戻って再び吐くような有り様。大丈夫かと問うてみても大丈夫だとしか答えない。どうする事も出来ぬ俺は、兎も角水分りの娘の元に居るだろう島田にこの事を伝えに行った。
 
「ややが出来たのではありませんか?」
 
一通りの話を終えた後、そう告げたのは島田では無く工兵であった。何故か若侍がいの一番に「なッ!?」と驚きの声をあげていたのが気に掛かりもしたが、意図せぬその答えに、俺は思わず眉を顰める。
 
「やや…?」
「赤ん坊の事ですよ」
 
そんな事は解っている、とばかりに睨み付けてやるが、工兵はさして気にした様子も無く言葉を続ける。
 
「食中りであるならば、もっと症状は酷いはず。ならば悪阻と考えるのが自然でしょう。お二人はそういう間柄なのですし」
「ヘイさん…言い分は尤もですが、も少し言い方ってもんがあるでしょうに…」
 
情緒も何もあったものではないと、島田の女房がぼやく。当の島田はこめかみに手を当てながら深い溜息をついていたが、色黒の侍が両の手を叩き始めたので、俺はそちらへと視線を向ける。
 
「いやいや、何ともめでたい事よ!」
「ほほお!九の字、オメェ父親になんのかァ!良かったなァ、おい!」
 
機械の大男に背中を強く叩かれるのも気にならぬ程、今し方耳にした話を、何処か夢現の様な感覚で幾度も噛み締めていた。
 
 
 
 
 
 
 
悪阻が落ち着いてくると、日に日に名前の腹が膨らんでいく様子が目に見えて解るようになった。その中で小さな命が息衝いているなどと俄かには信じがたかったが、手を当て、耳を当てると、微かだが確かに生命の存在が感じ取れる。
 
「あ、今また動いたよ」
 
名前が驚いたような声を上げたので、思わずその腹を撫でていた手を止めたが、そのような気配は感じられなかった。ほら、とその場所に手を導かれても、やはり何も感じられない。思わず怪訝な表情を浮かべたその時、掌に小さな小さな衝撃が走る。赤子が腹を蹴ったのだとすぐに解ったが、驚きのあまり反射的に手を引いてしまった俺を見て、名前が可笑しげに笑う。
 
「……痛くは無いのか?」
「ううん、まだ大丈夫。これからもっと胎動が激しくなったら、痛みもあるって言われたけど、でも」
 
言葉を区切り、己の腹を緩慢な手付きで摩りながら、酷く穏やかな笑みを浮かべる名前。
 
「この子が確かに此処にいて、懸命に生きていることを思えば、痛みも苦しみも、全部が愛おしいんだよ」
 
未だ嘗て目にした事の無い表情と、耳にした事の無い声音に、これが母親というものなのだと、漠然とだが明確に知らしめられた。
 
 
 
 
 
 
 
水分りの家から、断末魔のような悲鳴が何度も上がる。それは戦場で幾度も怪我を負い、時には死線を彷徨いながらも決して泣き言一つ洩らすことの無かった名前の口から発せられているとは到底思えぬもので、もしやこのまま死んでしまうのではないかと、跳ね上がりそうになる身体を押さえ込むのに必死だった。島田や他の者達も似たり寄ったりで、皆一様に険しい表情を浮かべている。女達が慌ただしく出入りし、中で必死に動き回ったり名前へと声をかける中、男である俺達はただ外で立ち竦む事しか出来ない。
 
「……こういう場面では、女性の方が余程肝が据わっておりますねぇ」
 
蒼褪めて見える顔で、工兵が苦笑いを浮かべる。全くだ、と、島田の女房も頷いた。
 
「おなごが腹を痛めて子を産む分、男はその身を挺し、妻や子を守って行かねばならん」
 
島田が神妙な顔付きでいう。それは俺に対して向けられたものらしかった。視線だけをそちらへとやれば、顎髭に手をやる島田と目が合う。お主にそれが出来るのか。言外にそう尋ねられているような気がして、俺は黙ったまま視線を逸らした。
 
 
 
 
 
 
 
やがて、一際大きな悲鳴と共に、大きな産声が上がる。男達がその場で互いに顔を見合わせる中、扉が開かれ、水分りの娘が転がるように飛び出て来る。
 
「無事に、お生まれになりました…!元気な、男の子です…!」
 
周囲が安堵の吐息で満たれるのを感じつつ、気付けば娘の横を通り抜けて家の中へと駆け込んでいた。中央に敷かれた布団に、今にも死んでしまいそうな程に弱々しくなった名前が横たわっている。だが、汗で髪が張り付いているのも気にならぬ程、その表情は穏やかな充足感に満たされていて、見詰める先には新しい命があった。此方に気付いた名前が、いつか見たあの笑みで、小さく俺の名を呼ぶ。その声に引き寄せられるようにして、傍らへと歩み寄り、膝をつく。
 
「……ほら、この人が、あなたのお父さんだよ……」
 
母親の言う事が解るのか、小さな手が何かを探す様に宙を彷徨い始める。握れば潰れてしまいそうな、小さな果実の如き幼い手。自分が酷く緊張しているのを感じながら、震える指を差し出せば、その小さな手からは思いも寄らぬ強さでしかと握り締められる。その瞬間、言い知れぬ何かが胸の内に込み上げ、思わず息を飲んだ。そして、このか弱い命を自分が守っていかなければならないと、強く、強くそう想った。
 

まろ(空腹
 
装飾指定が一切無い場合この様なレイアウトになります。 
 

 
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