親知らず


「やだー、怖いー!けんじろーが抜いて」
「専門外」

ばっさりと切り捨てられたのが、数週間前。ことの発端は、私が親知らずを抜くのが怖いと泣き叫んだことだ。ギャーギャー騒ぐ私を尻目に、医大生の賢二郎は淡々と勉学に励んでいた。グリグリと背中に額を押し付けてみたり、お腹の方に腕を回したり、髪の毛をいじってみたり、構ってもらえないかと必死になってみたけど、どれも失敗。終いには、

「邪魔するなら帰れよ」

とまで言われる始末だった。ガクリ、と肩を落とす。だけど悪いのは私だし、嫌われたくはないので、その日はおとなしく賢二郎の布団に潜り込んで、1人でお昼寝したのだ。サラサラとノートに何かを書き込む音と、たまに暗唱しているのか、ブツブツと聞こえてくる声が子守唄だった。そのことに少しだけ感謝をして、夢の中へと落ちていった気がする。眠る前に、「頑張れよ」って聞こえた気がするけれど、あれはきっと夢だ。社会人1年目にもなって、親知らず如きで怖がる私に、きっと呆れたに違いない。あの時はそう思っていた。







抜歯の後は、発熱する可能性がある。抜いた部分が腫れたり痛み止めが効かない人もいる。そのため最低でも2日は仕事の休みを取ってくださいと言われた。優しい私の会社は、きちんと連休をくれた。冷蔵庫にゼリーやプリン、スポーツドリンクを買い込んで、来る時に備えた。だけど、

「じんどい…痛い…」

左の上と下を同時に抜いた。それは、連休を取り過ぎるのが申し訳なかったから。だから、2回で終わらせるつもりだったのだ。だけど、この調子では、残りの右側は上と下分けて抜いた方が良いかもしれない。想像以上に辛い。何かを胃に入れて痛み止めを飲まないといけないというのも分かっていたけれど、冷蔵庫まで行くのが億劫だった。かろうじて水筒に入れていたお茶で、痛み止めを口の中に放り込む。なんとか横になったところで、ピンポーンとチャイムが鳴った。
 しかし、起き上がる気力はない。こんな昼間に誰がやってきたのか。そんなことを思ったけれど、居留守を使うしかないな、と思ったところで、玄関がガチャリと音を立てる。不味い、鍵を閉めていなかっただろうか。嫌な汗が流れた。ドキンドキン、と心臓が不安を煽ってくる。どうしよう。こわい。しんどい。助けて。助けて、賢二郎、

「…は?起きてんのかよ」

その姿を捉えた途端、瞳から涙が零れ落ちた。それは辛さによるものか、はたまた安堵か。今の私には区別がつかない。眉間に皺を寄せた賢二郎が、ゆっくりと私の方へと近づいてきて、額、首筋、手首…と順に触れていく。冷ややかな指先が心地よくて、瞳を閉じると、涙が滝のように流れ落ちていった。

「……名前?しんどいな」

これでもかというくらいの優しい声。労るように撫でられる額。なんでここにいるの。専門外だって、言った癖に。

「対症療法は俺の管轄」

私の疑問を意図も容易く理解して、後は任せろと優しく微笑まれる。それに縋り付くように手を伸ばせば、しっかりと握ってくれた。それから、頭部を冷やしてくれたり、インスタントだったけれど、お粥を用意してくれたり至れり尽くせりだった。

「反対側は、いつやんの?」

スケジュール帳を開いて答えようとしたところで、"書け"と言わんばかりに差し出される紙切れとペン。ぶっきらぼうな物言いな割に、こういう配慮が、いつだって優しい。だから、次も頑張れる気がする。そう思って笑うと、ピリリと頬に鋭い痛みが走った。それに苦しんでいると、

「…おい。聞きたいことは済んだから、さっさと寝ろ」

再び布団をかけられて、寝かしつけるように、優しく撫でられる。苦しみに耐えつつも、それから守るように賢二郎の優しい手が、ずっと私に触れている。おかげであたたかな夢の中へと誘われていったのだった。



20210630
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