それは緩やかに時が流れるように。


最初の異変に気づいたのは、三ヶ月くらい前のことだ。ようやく本としての形が見えてきた小説を読みながら、あれ?こんなことあったっけ?と不思議そうに甘奈が首を傾けたことが発端だ。何言ってるのよ、そこは甘奈が詳細を教えてくれたところでしょ、そうだっけ?とその時は二人そう語り合うだけで終わった話。けれども思えばそれをきっかけに、彼女の様子がどんどん変わっていった。こんな出来事を私は知らない、この場面に私っていなかったよね、とか。おおよそ他人事の様に本を読み返す甘奈を見て、ああそうか、そういうことだったんだと私はようやくその事実を知ったのだ。


甘奈が昔の記憶を完全に失くしたのは今から数日前。このお話ってやっぱり面白いね。一体誰が書いたのかしら?そう彼女が口にした時だった。


昔の記憶がそうやって次第に失くなっていくと分かっていて、だからその為に書き上げた物語だ。彼女の方がその到来が早かったというだけ。最近は私も物語を書いた張本人であるにも関わらず、事の経緯を思い出せなくなっている。甘奈のようになってしまうのは、時間の問題だった。


楽しいことを楽しいと思っても、それは私の感情じゃない。本を開くたびに私は“当事者”ではなく“読者”になっていく。ぼろぼろと溢れ落ちた記憶はこの文字の中に吸い込まれ、もう私の所には必要ないということ。悲しいとは感じないけれど、寂しいとは思う。大昔の記憶は私から離れ、そしていつしか何を忘れたかも思い出せなくなる。そうしてようやく昔の私は、深い物語の奥で静かに眠ることが出来るのだ。


実は甘奈の記憶が失くなった時、らしくもなく泣いてしまったの。彼女は私が何を泣いているのか分からずに、ぽかんと口を開けて。それでも、透ちゃん?泣かなくても大丈夫だよ?と言っても私を抱きしめてくれた。昔は私の方が先に消えてしまったから知らなかったけれど、残されることってこんなに辛かったんだって。だから昔の自分の言葉を何度も何度も謝った。彼女は訳も分からないくせに、笑って私を許してくれた。それが嬉しかった。


大好きな物語。その本を私と彼女以外に見せるだとしたら、最初の人は決まっている。


何もかも全てお見通しの、美濃にだ。他の人には割り切ってお兄ちゃんと呼べるんだけど、彼だけはまた別だ。だって美濃は美濃だ。彼だけは私達を”透”や”甘奈”という名前で呼ばない。初めて美濃と出会った時に、彼は呼びにくいという理由で実は私達に名をつけてくれていたのだ。そうして人に怪しまれない時に限り、私を昔の名前で呼ぶ。たった一人の人間。


目の前で出来上がった本の頁を、美濃が次々と捲っていく。その光景を満足げに眺めて、私は椅子の上で静かに瞼を閉じる。今度目覚めた時、私は本当の“雪名透”になるだろう。何となく予想できたことだ。もう覆すことの出来ない事実。でも、私は精一杯生きた。だから、これで良い。私は、確かに幸せだったのだから。


本を読み終えた美濃が椅子に座ったままうたうたと眠っていた自分に声をかけ、その音に反応するように子供の“私”はぱちくりと目を覚ます。


「面白かったよ」
「本当に?私も、その本が大好きなんだ!だからどうしても美濃お兄ちゃんに見せたかったの!でも、これって一体誰が書いたんだろう?書いた人の名前は載って無かったよね」
「……透ちゃん?」
「何?美濃お兄ちゃん」


あの時は泣かないでと無理な約束をしてごめんね。涙を零して分かった。大切な人を失うということがどれほど痛いか。だから、今だけはそうやって泣いても良いよ。迷惑ばかりかけてごめんね。今までありがとう。


今度は私の代わりに”透”が、美濃を抱きしめて慰めてくれるはずだから。


私は美濃のことが好きでした。大好きでした。伝えることが出来て、本当に良かった。



『問題編(元閑話休題8)』

だって、あの子ったら泣くのよ?私がいなくなるって泣くのよ?変ね。いなくなるって言っても、何も死ぬわけじゃないのに。

でも、あの子ったら、何処にも行かないでって泣くのよ。最後には、私と一緒に行くだなんて言い出す始末。でもね、そんな馬鹿な言葉すら嬉しく感じるだなんて、私もきっと変なのよね。

けれど、貴方は泣かないでね?きっと私まで悲しくなっちゃうから。ねえお願いよ、美濃。





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