最後に何を描こうか?心は既に決まっていた。
スケッチブックを傍らに、古臭い建物の中に踏み込んだ。歩く度にぎしりと大きく鳴る床は、緩やかな伴奏に。カタカタと揺れる窓は、打楽器の震え。陽だまりの中に浮かぶほこりは、くるくるとワルツを踊る。小さな鼻歌。暖かな空気。誰もいない。一人だけの音楽会。
持ち主の無い部屋のドアを次々と開けていく。中の物は全て運ばれて、からっぽの室内。からっぽな建物。宝物を失った宝箱のようなそれ。開いた扉から差し込んだ光が、決壊したダムのようにあちらこちらに溢れる。眩しくて、思わず目を閉じた。もう一度瞼を上げて見えた世界が、あんまりにも美しくて。少しだけ泣きそうになった。
けれど、私が描くべきは「今という美しい時」ではない。
木で出来た小さな椅子を見つけて、そこに腰を下ろした。窓の奥に見える新緑と青空が綺麗。瞼を静かに下ろして、声を潜める。聞こえる、聞こえるの。ずっと昔から皆がここにいて。会話をしたり、喧嘩をしたり、時には泣いたり、最後には笑っていた声が。暗闇の奥に、見える。見えるの。肩を震わせて涙を零す姿。抱きしめて慰める姿。大切な人を傷つけられて、怒りに拳を握り締める姿。最後には輪を作って、笑みを浮かべたその光景。
今はもう二度と戻ることはない、懐かしい出来事。
けれど、私が描くべきは「過去という美しい思い出」ではない。
スケッチブックをおもむろに開く。真っ白なその紙面に、ひたすらに鉛筆を滑らせる。一週間後には無くなるこの場所。その全てを目に焼き付けて。大好きだった私の居場所。…もう二度と会えないのね。
数多の生徒がここに訪れ、各々が豊かな時を過ごしていったのだろう。果たすべき使命を終えた者達は、きっとここで誓ったに違いない。いつかまた、ここに戻ってくるからね。いつかまた、皆と一緒にここで会おうね、と。
いつか、っていつだろう?叶う確率はどれくらいだろう?
口約束の「いつか」を信じられるほど、私は子供ではないけれど。
その「いつか」を馬鹿みたいに信じられる、純粋な大人でありたい。
一心不乱に手を動かし、その絵が完成する頃にようやく気づいた。私と同じように、最後のお別れにきた彼がすぐ側に立っていたこと。想いを馳せるような瞳に微笑みを浮かべると、彼が尋ねた。これは、何を描いたものなのですか?
モノクロの世界の中。互いの手を握りながら泣きじゃくる、幼い二人の少女の姿。
笑いながら答えた。
私が描いたのは、美しい「未来」です。
『問題編(元閑話休題2)』
彼女は絵を描くことが好きだった。
真っ白なキャンパスに彼女はひたすらに筆を滑らせる。
青いリンゴを目の前にすれば、赤いリンゴを彼女は描いた。降りしきる雨の中に佇みながら、彼女は青空を紙いっぱいに広がせた。芽吹く小さな息吹は、大輪の花に。流れる川は、悠久の海に。彼女はただただ無心で描いた。
そして、一枚のキャンパスがここにあった。二人の人間が向き合って何かを指し示す奇妙な構図。誰かが尋ねた。これは何を描いたものなのですか?彼女は答えた。
私が描いたのは未来です。
彼女=杏
二人=羽鳥&千秋
彼=?
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