家に帰ると、母親が嬉々とした表情で段ボールの中をがさごそと弄っていた。鼻歌をうたう彼女とは正反対に、俺はどかりとソファーの上に座り込んで溜め息をつく。不穏な空気を醸し出す息子の状況を彼女が見過ごすはずもなく、随分機嫌が悪いのね、どうしたの?と不思議そうな表情で尋ねてくる。無論、真実など語れるはずもない。母親お気に入りの、それこそ十年近く親交の深いお隣さんの、その息子を。自分のせいで泣かせてしまったことなど。


ふと、思い出す。そう言えば、昔の小野寺は結構な泣き虫だったよな、と。…いつからだろう。あいつ、ある時期に急に泣かなくなったような気がする。それまではたかが大きい虫が服に付いたくらいで泣きべそをかいていたくせに。一体いつからだっけ?…いや、そんなことは今更どうでも良い。どうにかしたいのは、小野寺を俺が泣かせたという事実だけだ。


彼の涙は、予想外に俺の良心を縛り付けた。いつもいつも俺の隣にいるときは笑っているか、怒っているかのどちらかだったので、泣くという行為を目の前でされるとどうして良いのか分からなかった。ただ、胸の中にそれこそ絶え間なく罪悪感が湧きあがり、ああ、どうすればいいのだろう。どうしたら小野寺は俺を許してくれるんだろう、と検討外れなことを考える。


許すって、何を?俺は、謝れば良いのか?謝るって、何を?


あの会話の流れからして、そんなつもりは無かったとは言え、彼の手にしたプレゼントを馬鹿にするような形になったことは流石に自覚していた。しかもそれが俺の彼女…仮初ではあるものの…市ノ瀬の為に購入したもので、それを当の本人でないにしろ、あれだけ貶めれば誰だってそりゃあ怒るし、傷つきもするだろう。その点に関しては、深く深く反省はしている。


けれど小野寺の涙の理由は、本当にそれだけだったのだろうか。


何か、大切なことを俺は見落としているような気がして、でもそれが分からなくて。酷く苛々する。そんな空気を読み取ったのか、母親が俺の名前をふいに呼んだ。暇なら、こっちに来て手伝いの一つでもしなさい。実際心の中は大修羅場中だったが、彼女の言う通りにした方が気が紛れて少しでもマシかもしれないと考えた。ソファーの上からのそりとた
ちあがる。渋々といった表情も漏れなく付け加えて。


「何、これ」
「懐かしいでしょ。今までの政宗と律っちゃんの誕生会の写真よ。我ながら上手く取れてるわ〜」


そこにあったのは何故かアルバムに整理されている訳でもない写真の束で、よくよく見ると彼女の言った通り、これまでの過去の誕生会を鮮明に写し出しているものだった。記憶の中に、確かプレゼントを手にした自分を前に彼女がカメラを持っていた記憶があるこれは紛れもなくその時のものだ。なんできちんと片づけて置かないんだよ、と小言を告げると、だって忙しくて出来なかったのよ。どうせ時間があるなら、政宗が整理しなさいよ、と。


反論する気力もなく、何気なくその一枚一枚を捲って見る。一年毎に古くなっていく写真はだけど意外に酷く懐かしいような気がして。そして写真の中には照れくさいのかにこりともしない俺の傍に、いつも笑顔を浮かべた小野寺の姿があって。そうか、もう来年は。小野寺がこの風景の中にいることは無いんだとふと考えて、慌てて振り払った。違う。これは少しセンチメンタルな気持ちになっているだけで、決して彼がいないことが寂しいというわけじゃない。自分の気持ちを誤魔化すように手の動きを早めて、そして最後の一枚に辿りつく。それは、遠く幼かったあの頃の自分の姿で、その隣には何故か少し半泣き状態の小野寺の姿があった。



あ、この頃はまだ小野寺もこんなふうに泣いていたんだっけ。



何となく感慨深く眺めていると、目ざとくその写真を見つけた母親が、あら、懐かしいわねえと明るく声を上げた。


「それ、政宗の一番最初のお誕生会の日の写真よ」
「これより前の写真ってないの?」
「ある訳ないでしょ。そもそも政宗のお誕生会自体、私が離婚する前まではやってなかったんだから」
「そう、だっけ?」
「お誕生会をやる機会を作ってくれたきっかけをくれたのはお隣の律っちゃんだから。私は一生あの子には頭が上がらないわね」
「小野寺が、何かしたの?」
「やあねえ。忘れちゃったの?…律っちゃんはね、私に教えてくれたのよ。政宗が欲しがっているもの」


俺が、欲しがっているもの?


「それにしても、あの時は色々あったわねえ。もう随分昔になるけれど。あの時泣き続ける律っちゃんを一体どうしようって、母親二人で悩んだっけ。結局、それを解決したのは政宗だったから拍子抜けしちゃったけれど」



『それならおれにまかせてください』



そう言い切って笑う小野寺の笑顔がふいに脳裏に浮かんだ。ああ、これは多分その時の記憶だ。何が欲しい?と聞かれた俺は、一体何と答えたんだっけ。それがどうして、彼を泣かせてしまった結果になったんだっけ。



「今の政宗がこれを聞いたら、きっと恥ずかしくて泣きたくなるわよ」




近くの公園に呼び出したのは俺で、市ノ瀬はそんな俺を待ちくたびれたというようにブランコに乗りながら唇を尖らせた。高校生になってそんなもんで遊んでいるなよ、と軽口を叩けば、こうでもしなければやってられないのよ、と呟いた。多分、俺が彼女を呼び出した原因も、理由も、市ノ瀬にはきっと分かっている。分かっているからこそ、こうやって茶化すことしか出来ないんだと思った。


「市ノ瀬、あのな」
「ストップ。…それよりまず先に、私の話を聞いてくれる?」
「……ああ、分かった」


市ノ瀬の意見を尊重すると、彼女は満足そうに頷いた。しばらくの沈黙の後、市ノ瀬が躊躇うように口を開く。


「実はね、何となく内緒にしてたけど。私、小野寺くんと少しお話をしたんだ」
「……小野寺と?」
「うん。それで、お願いされたわ」
「何を?」
「これから先、高野くんのお誕生日にはどうか一緒にいてあげてくださいって」


実際、ちょっと笑っちゃったわ。だって一応彼氏と彼女の関係よ?相手の誕生日を祝うなんてことはそれこそ当たり前のことで、だから私当たり前でしょって思わず言っちゃった。そしたら小野寺くん、ほんとうに心底安心したような顔をして、ありがとうございますって私に感謝なんかするから。だから聞いちゃった。どうしてって。どうしてそんなことを聞くのって。


「……高野さんには、内緒にしておいてくださいね」
「それは、勿論」
「すごくすごく昔の話なんですけど、俺、一度だけ高野さんに何が欲しいかを聞いたことがあるんですよ。それこそ幼い頃だったので、きっと高野さんは覚えてもいないとは思いますが」



『なにか、ほしいものはありますか』




「高野さん、“家族”が欲しいって。そう言ったんです」




ほら、あの人。ああ見えてじつは寂しがり屋ですから。自分は一人で良いなんて顔しているくせに、実は人恋しくて堪らない人なんです。それならそうともう少し愛想の一つでも良くすればいいのに。ああ、でもこんなに素敵な彼女さんがいるのなら、これ以上悪口は言えませんね。


「小野寺くんは、それでいいの?」
「良いんです」
「でも、小野寺くんは、本当は高野くんのことを」
「良いんです。だって俺には、高野さんが本当に欲しいものをあげられませんから」


だって俺は高野さんにとってただの幼馴染です。ただのお隣同士て、しかも俺は男だから。結婚できるわけでもないし、だから家族になれるはずもない。あの人の傍にあることが出来ない。寂しさに寄り添えない。…だから、高野さんから何も受け取ることが出来ないんです。そんな資格は俺にはないから。



「俺にはあげられるものしかあげられない。持っているものしか渡せない」



あげられないから、一生貰うことも出来ない。



本当は、俺があの人のずっと隣にいられる存在でありたかった。



ああ、だから。小野寺はいつだって自分の誕生日に彼が俺に渡したものを欲しがったのか。自分には与えることは出来ないから。受け取る権利がないから。まるで同じものをぐるぐる回すみたく、結果、何もないようにしたのか。だから、捨ててくださいなのか。それが俺の本当に欲しいものでは無いことを彼は分かっていたから。……でも、そんなのは。



そんなのは小野寺の自分勝手な思い込みだ。



「これで、私の話はお仕舞。さて、高野くんのお話しを聞こうじゃない」
「市ノ瀬、ごめん。別れてくれ」
「…まだ、ストーカーの件、解決してないんだけどなぁ」
「それでもごめん。別れて欲しい」



目をそらさずに彼女を見据えて告げると、市ノ瀬はやれやれと言った表情を浮かべた。



「高野くんは、市ノ瀬さんと恋人同士の関係になってみたものの、付き合ううちに何かが違うと思って別れることにしました。振ったのは高野くん。振られたのは私。筋書はこれでOK?」
「……ああ」
「それじゃあ状況証拠を作るから、目を閉じて歯を食いしばりなさい。それと、何かむかつくから耳も塞いで…。良い?これは罰なんだから、分かっているわよね?」



そして、全ての茶番の用意が出来ると、市ノ瀬は手を大きく振り上げた。



人間にはね、自分一人を愛してくれる人間がいればいいんだし、私も愛する人はただ一人だけで良いのよ。ああ、本当にそうだった。だから私は手段を選ばなかった。嘘までついて、彼を繋ぎとめようとした。


でも、結局は駄目なのよね。愛した人に、既に愛する人がいた場合は。


誰かを不幸にしてまで幸せになろうとした人間が、自分を不幸にしてまで相手を幸せにしたいと願った人間に叶うはずもないのだから。











家族が欲しい、とあの人は言いました。



だから俺はぜったいにそれを彼にプレゼントしてあげようと心に決めました。



家族になる方法は、何となく知っていました。昔々お父さんとお母さんは赤の他人でだけど結婚をしたから家族になれたんだって。だから俺も家族になれるんだって信じていました。お母さんに、男の子同士は結婚できないんだよって優しく諭されるまでは。



彼と一番最初に出会った時のことは今も良く覚えています。あの時彼が自分に本を渡してくれたことが凄く凄く嬉しかったことも。その気持ちをどう伝えればいいか分からず、結局同じように本を返すことが出来なかったけれど。その本を気に入ってくれたみたいに、彼があの本の感想を語る姿を見れたこと、本当に幸せだったのです。


そんな幸せな気持ちをくれたあの人だから、あげたかった。彼の欲しいものをあげたかった。幸せになって欲しかった。


でも結局家族になんてなれやしない俺は、あの後彼のお母さんに泣きながら頼んだのです。


「どうか、まさむねくんといっしょにいてあげてください」


あの人が家族を必要とするのなら、それをあげるのが俺の精一杯。俺は彼の家族にはなれないから、だからせめて彼のお母さんがいない間は、あの人に新しい家族が出来るまでは、家族の代わりに傍にいようと決めました。泣き虫は卒業して、笑っていようと決めました。

兄弟みたいだけど、兄弟じゃない。家族になりたくても、家族にはなれない。


いつしか彼には、一生一緒にいたいと思う人が現れるのでしょう。その時になったら、俺はこの場所を喜んでその人に譲り渡します。こうしてやっと、あの人には念願だった家族が出来る。そうして俺はあげられないものをようやく彼にあげられる。



いつか失くしてしまう場所。最初から終わりが見えていた未来。



俺は、身代わりでした。



あの人の本当に傍にいる人の身代わりでした。


あの人を朝起こすのも他の誰かの役目になり、授業をサボる彼を追いかける俺ももう必要なく。だからこれが一番の結末なのだと思います。これで良かったのだと思います。あの人の隣で笑う自分がいつか自分の知らない他の誰かにとって代わったのだとしても。いつか俺が、捨てられる存在になるだとしても。



少しだけ、その事実を。むなしいと思ったとしても。



ああ、今頃。今更になって。小野寺の考えていたことが手に取るように分かる。馬鹿だな、と呟いた。本当に大馬鹿者だと嘆いた。


確かにあの頃の俺は、純粋に家族が欲しいと思っていたのかもしれない。それこそ口には出さなかったけれど、一人家に残されることを心の何処かで寂しい、とも。だから傍に誰かがいてくれたら嬉しいと、ただ単純に考えたのかもしれない。でも、結局ずっと俺の傍にいてくれたのは小野寺だったじゃないか。そうやっていつも俺の隣で笑っていてくれたのは確かに彼だった。



家族のように俺と一緒にいてくれたのは小野寺で、それは誰かの身代わりなんかじゃなかったのに。



久しぶりに訪れた小野寺の部屋は、相も変わらず整理整頓のせも出来ていないような状況だった。よくこんな中でぐーすかと眠れるよなと半ば感心して、ぐったりとベッドの上に体を投げ出す彼の顔を覗きこむ。ぎしり、と自分の体重を受けた音が部屋に響いた。指先にこつりとした何かが当たった。本だった。何処か見覚えのあるそれを手に取って眺める。すぐに気づいた。これは、俺がずっと昔に小野寺に誕生日のプレゼントとして贈ったものではないか。はっとなって辺りを見渡して、今度こそ気づく。大事そうに、何かを守るみたいに、眠る小野寺を囲んでいるのは、全て過去に俺が彼にあげたものだ。


それが分かった瞬間、プツリと何かが切れた。


「おいこらこの馬鹿!!起きろ!!」


本の表面でべしりと小野寺の頭を叩いてやると、それこそ小野寺は文字通り驚いたように飛び起きた。痛む頭を撫でながらきょろきょろと辺りを見回し、ようやく意識が覚醒して、俺の姿をその瞳に捕えたらしい。


「…な、何で高野さんがここにいるんです?」
「お前に用事があったから」
「用事って…。…というか、その顔、どうしたんです?」
「彼女と別れたから。その証拠」
「……はあ?!な、何でそんなことになってるんです?」
「色々あった」
「色々あった、じゃないですよ。ちゃんと説明してください!!」


「ちゃんとした説明が必要なのは、お前の方だろ。こんなものを俺の身代わりなんかにしやがって」


小野寺がひくりと、息を呑むのが分かった。


「だから、俺にきちんと教えろ」
「な、何をですか?」
「本当にお前が欲しかったもの、ちゃんと俺に言え」
「……欲しいものなんて、ありませ」
「嘘つけ。お前の嘘なんかとっくにばれてるんだよ」


告げた瞬間、小野寺はまた驚いたような表情を見せて。そしてちょっと顔を伏せたかと思えば、高野さんは一体何なんですか、と口にした。堪えきれなかった涙をぼろぼろと零しながら、俺を咎めた。


「高野さんには俺の気持ちなんてちっとも分からないんですよ!!俺が今までどんな気落ちでいたのかとか、俺がどんなに醜い感情を持っているかとか!知らないから、そんなことが平気で聞けるんです!!俺は、実際酷い人間なんですよ。自分勝手で自己満足で、誰一人幸せに出来ない駄目な人間なんです!!」
「それでも、俺はお前が傍にいてくれてさえすればそれで良いんだよ」
「……何ですか、それ」
「なあ、小野寺。お前は一体何が欲しい?」


小野寺が自分のことを本気で考えてくれたことが嬉しかった。俺がずっとずっと本当に欲しかったものくれていたのはいつもいつも小野寺だった。


だからあげたい。今度は俺が。彼が望むものなら。何でも。どうやってでも。


何時までも俺の質問に答えないままに泣き崩れる小野寺の体をそっと引き寄せて抱きしめると、彼はしっかりと俺の腕にしがみついた。とりあえず、あのマグカップは返品するぞと小声で言えば、嗄れた声でどうして?と小野寺が尋ねる。


「あの柄はお前には似合わないから」




だから言え。言ってくれ。望むものを全部。俺に教えてくれ。




君がそれを欲しいと言うなら全てあげる。





おしまい








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