海に例えるならそれは幾分広すぎて、湖に例えるのならそれはそれは小さすぎるものだった。

つきつきと軋みをあげる頭痛を感じながら、目の前にあるお世辞にも綺麗だとはいえない沼のようなものを眺めていた。さほど興味もない水たまりにしては濁り過ぎているそれを真剣に見つめている理由は、それ以外何も無かったからだ。建物も、植物も。人も、空も、太陽すらも。辛うじてあった大地には先に言った通りの湖面が一つ。そして気づいた。自分の体の陰になって見えなかった部分。小さな看板が立っている。


『金の斧は金の斧 銀の斧は銀の斧 等しいものが等しいとは限らない』


何だこれは。


至極正直な感想をついぽつりと漏らしつつ、そういや似たような童話があったことを思い出す。みすぼらしい木こりが神秘の泉に斧を落とし、現れた女神によって祝福を受けるというあの。まさかそんな作り話をうっかり鵜呑みにするほど若くはないので、呆れたように溜息をつく。というかうっかり騙されたみたくこの泉について考え込んでいたが、よくよく考えてみると一体ここは何処だというのだ。というか俺は何故こんな場所にいるのか。



しばし考え込んで、ああ、と思いついた。




昼下がりの出来事。駅に行く為に会社を出た刹那のこと。ごうごうという物凄い轟音と同時に向かってくる黒い車。逃げる間も無かった。駄目だ、助からない。思った瞬間包まれた白い光。次に目を覚ました瞬間には既に此処にいた。



何だ、そういうことか。さしずめこれは、しょぼすぎる三途の川みたいなものか。



いざ迎えると終わりの瞬間は酷くあっけないものだなと思う。噂に聞く走馬灯とやらも結局は体験出来ず仕舞だ。畜生、せめて死ぬ前に煙草の一本でも吸っておくんだった。



呟いた途端、看板の中にあった文字がうっすらと滲み消えていき、その後すぐにまた似たような文字が現れる。



『200円』



まさか。とは思いつつも辛うじてポケットの中に転がしておいた小銭を一つ、二つ、池に投げ入れてみる。ぽちゃりと良い音を立てて水面に波紋が広がったかと思えば、それはすぐ様元通りの姿になる。……何も起こらない。




当たり前かと少し信じてしまった自分に呆れながらポケットの中に手を突っ込むと、そこに身に覚えのある形のそれが指先に触れてびくりとした。取り出して、その形状が見慣れたそれだと分かって。



自販機かよ。しかも若干値引きされてやがるし。



こんなの現実には有り得ない。有り得ない訳だけれどこうして現実に起こっているのは、此処が死後の世界だからなのか否か。自分の中の常識など、結局未知の世界では役にも立たない。欲しいものの対価さえ払えば、何もかもが手に入る。世紀の大発見だ。これを誰にも伝えられないことが本当に惜しいけれど。



例えば。



例えば、俺の命だったらどうだろう?自分の命と引き換えになるものがそうそう捨てられるわけがないけれど。別に、自分自身が死んだってどうってことはない。それは自分の細胞が毎日生まれて死んでいくように、世界にとっての俺だってそういうものだろう。別に俺の命なんて無くなっても構わない。けれど、どうしても会いたい人がいる。そいつに会う為には、矛盾しているようだけれど自分の命が必要で。



思った瞬間にまたもや看板の文字が掻き消えて、新しい文字に切り替わる。




あれ。こんなものでもいいのか。…この程度で奴にもう一度会えるなら、安いものだな。




ぱちくりと目を覚ました途端に飛び込んできたのは奴で、たかのさんたかのさん、と名前を何度も繰り返しながら泣きじゃくる。白い病室のベッドの上でぐるぐる巻きにされている包帯と、無数に繋がれた点滴の数がやけに印象的だった。良かった。このまま高野さんが死んじゃったらどうしようって、俺。悪いことばっかり考えて。…でも良かった。高野さんが目を覚まして本当に良かった。本当に、本当に心配したんですからね。ああ、でも高野さんが戻って来てくれて嬉しいです。それに、俺、どうしても高野さんに伝えたいことがあったから。…………高野さん?



凄く凄く会いたい人がいて、ああ、でもそれは誰だっけ?




“高野さん”




それが俺の名前?








失くした命の代わりに男は水面に身を投げ入れて、永遠にその『記憶』を失った。安いものだと男は言った。それで愛する人にまた会えるなら。



金の斧は金の斧 銀の斧は銀の斧



男にとって自分の命と愛する人と共にある幸せは等しかった。


自分の幸福が他の誰かの幸福と等しいとは限らなかった。



それもまた対価の一部。



自分の幸せを願えば誰かを不幸にするそんな話。



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