街中で彼の姿を見つけたのは、多分偶然じゃなかった。


ほら、割とよくある話だろう。例えばふと昔の友人のことを唐突に思い出して、今頃どうしているかな、などと想像していると、道端でばったりと会ったりする不思議な現象。それは人間の第六感とやらが働いている故だということはよく聞いているが、実際のところの真実は分からない。分からないけれど、確かにそういうことがあると私は知っている。


今日の日付がクリスマス前日で、私の家族が今夜は外に出かけましょうと以前から予定を立てていて、それで。多分、それだけのはずだった。この日は、私にとってなんの意味もない一日のはずだった。


クリスマス一色の暗い街中を歩きながら、私の家族が白い息を吐き出しながら早く早くと急き立てる。レストランを予約した時間にはまだ到底早く、けれどそれは言わないまま苦笑いを一つ零し、私は足を早める。ちらほらと雪が降っていた。ホワイトクリスマスだった。


進むべき道は人の波で溢れていて、流されゆくまま歩いていくのが精一杯。せめても、はぐれることのないようにと、家族の掌を握る。それが恥ずかしいのか、私の子供達は手なんか繋がなくても大丈夫、と頬を赤らめて言うが、最後には諦めたように溜め息をついた。



その時だった。すれ違い様に彼に出会ったのは。



確率的に考えれば、こうやって偶然出くわす可能性はゼロではなかったし、例え可能性というものがゼロだと算出されようが、こうして出会ってしまったのならそれが百パーセントだ。通り過ぎた一瞬、すれ違った刹那。彼は気づかなかったけれど、私はすぐに彼だと気づいた。



彼のことについて語るには、私の過去について少々説明しなくてはならない。



私は、昔々にある一人の女性に恋をしたのだ。



その女性はとても明るくて、快活で。聡明でそれでいて美しくて、見る人全てを魅了してしまうような女性だった。最初の出会いこそあまり良いものではなかったが、私が彼女と恋に落ちるのもすぐのことだった。小難しい話をするのも、下らない会話で笑い合うのも、彼女とするのが一番楽しかったし、ああ、だから私は最初から彼女と一生一緒に過ごす運命みたいなものを確信していたのだ。


お互いの仕事が忙しくて、思い通りに会えない日だってあった。だからこそ毎日でも彼女と会いたかった。彼女と毎日を過ごすことが出来たらどんなに幸せだろうと。だからその遠かった夢が現実になったその日のことを、私はいつだって昨日のことのように思い出せる。


そう、彼女と私には一人息子がいたんだ。こんなふうにはらはら小さな雪の舞う冬の日のこと。小さな全身を使ってここにいることを泣き叫びながら伝える小さな命をこの胸に初めて抱いたとき、本当に不覚にも、うっかり。私は涙を一つ零してしまったんだ。



幸せだった。ああ。あの時の私は、確かに幸せだった。



けれど、まるで三文小説によくある煽り文句みたいに、その幸福は長くは続かなかった。



いつから、ではなくいつの間にか。お互いの仕事が順調に進む度に、私と彼女は擦れ違いが多くなった。家の中で顔を合わせることが少なくなった。会話が減った。もし私と彼女がただの友人だったらそれで別に構わなかった。でも、私と彼女は夫婦だった。一つ屋根の下に住む、家族だった。会話の成さない家族なんて、他人にすぎなかった。



擦れ違いというのはただの詭弁だ。私たちはそもそも最初から間違っていたのだから。



彼女が自分ではない他の誰かを愛していること、薄々は気づいていた。けれど私は、その恋の勝負とやらに勝ったのだと思い込んでいた。彼女と最終的に結ばれたのは私だし、だからそれで良いと思っていた。愛する我が子に、彼女の愛した人の面影を見るまでは。


疑問はいつしか確信に変わり、私達の間には喧嘩が絶えなくなった。


彼はつまりは犠牲者であって、なんの罪もないことは分かっている。罪があるだとすれば、それは母親である彼女に、彼女が心底愛した人に、そして事実を受け止める寛容さがない私自身にそれはあった。けれど、出来なかった。もう愛せなかった。彼を目の前にすれば、つい暴言が出てきそうになり、それを懸命に堪えて何か話しかけようとする。でも、声に出来る言葉なんかなく、結局私は彼を避けるようになり、彼も私を避けるようになった。


母親は子供を産みさえすれば母親になれる。けれど父親は子供と一緒に親に育つ。でも、私は彼の父ではなかった。家族でもなかった。赤の他人だった。



彼女と別れてから数年。もう日常の中に彼の顔すら思い出せずにいたのに。



肩越しに通り過ぎた瞬間に、はっきり彼だと分かった。



急用を思い出したから。食事の時間には戻る。家族にそう告げて、小走りに彼の姿を追った。追いかけて私が何をするのか、何がしたいのかも分からないままの尾行。彼の姿は残念ながら見失ってしまったけれど、先ほどまで彼の隣を歩いていた青年の姿を見つけることが出来た。


彼より、若干若い年齢だろうか?彼とは違った柔らかそうな茶色の髪に、健康そうな肌色。大きな緑色の瞳が酷く印象的で、じろじろと観察しているうちについ目があってしまった。


「何ですか?」
「ああ、すみません。そちらの商品を見せていただきたくて」


見つけた場所がたまたま雑貨屋の中で、青年がその店の商品の一つを手にしていて助かった。クリスマスで賑わう店内。咄嗟についた私の嘘は、青年の疑いを取り払うのには十分だった。すみません、と駄目押しのように謝罪すると、いいえ、良いんですよと青年は私に丁寧に慎重に商品を手渡しする。



「なんと言っても、クリスマスですから」


青年はそう告げると、私に向かって一つ微笑んだ。



「実は、悩んでいるんです」
「何を、ですか?」
「クリスマスのプレゼント。子供に、何を贈っていいのか分からなくて」


それは一か八かの賭けだった。唐突に怪しい男からこんなふうに話しかけられれば、訝しむのが普通だった。基本的に、誰かを騙したり平気で嘘をつけるような人種でもない私は、だからこの嘘がすぐに青年に見抜かれてしまうのを恐れた。けれどそれは要らない心配だった様だ。それはこの青年が人を疑うということを知らない人間なのか、それともクリスマスというこの日の気分に浮かれているのか。どれが原因かは分からないけれど、青年が返事をしてくれたことについては純粋に安堵した。


「お子さん、いくつくらいなんですか?」
「だいぶ大きいよ。だからこそ、あの子が何が欲しいのか分からなくてね」
「何が欲しいか、聞いたりしなかったんですか?」
「ああ」
「会話の中から、それっぽいものを口にした記憶は?」
「残念ながら、無いんだ。そもそも私達には、会話が無かったから」


という台詞を告げれば、青年はあからさまにしまったという顔をした。けれど私の視線に気づいたのか、すぐさま取り繕ったような笑顔に変わる。成程、この青年はいたく正直な人間であって、それをどうやら表情に隠せないらしい。軽い嘘をついている私がそう言うのも何だけれど。


「仕事が忙しくてね。すれ違いばかりで、子供と会話する時間がなくて。そうこうしているうちに、子供は親の知らないうちにちゃんと成長しているものだから、いつしか会話がかみ合わなくなる。だから益々何を話して良いか分からなくなって、結局何も話せなくなって。あの子のこと、私は何にも知らないんだ。何一つ分からないから、父親失格だなとよく思う」



失格どころか、私は最初から彼にとって父親でも何でも無かったけれど。


「ああ、すまない。私一人がぺらぺらと話してしまって」
「いいえ、大丈夫です。となると、その子が好きだったものって分かりますか?部屋の中にずっと置いてあるものとか。そういうのから辿るのも手段かなって」
「……そう言えば、昔から本が好きな子だった」


前の私の台詞なんてまるで聞いていなかったみたいに、青年は何食わぬ顔で会話を続けた。真実、耳にしていなかったということは無いはずだし、青年が敢えて私の言葉に何も返さなかったのか否かは分からない。少々残念に思う気持ち半分、少しほっとした。そうですね、貴方は父親失格ですね。そう断言されるのが、本当は怖かったのかもしれない。



「本好きなら話は早いです。俺の専売特許みたいなものなので」
「君も、本が好きなのかい?」
「ええ。大好きです」



青年が私を連れて行ってくれた場所には書籍関係の文具品のコーナーで、彼は私にこれなんてどうですか?とブックカバーを勧めてくる。こういうものならいくらあっても使えるし、いつまででも持っていることが出来るから。いつまでも、という言葉に惹かれて、私はその商品を三つ手に取った。


「ありがとう、これで何とか父親の面目は保てそうだよ」
「いえいえ。ここで会ったのも何かのご縁でしょうから。お役に立てて幸いです」


いそいそとプレゼントを包む店員の耳に、彼が他の商品に気を取られている隙にこっそりと囁く。かしこまりました、という言葉に一つ笑って、再度店内を物色し始めた青年に声をかけた。


「ところで君の方は大丈夫なのかい?」
「何がですか?」
「君も、誰かのプレゼントを探しているのかと思って」
「……ええ、まあ。そういうことになるんでしょうか?」


随分歯切れの悪い返事だなと思っていると、最後は疑問形で返された。いや、私に聞かれてもと小声で答えると、そうですよね、と青年は目を細めながら笑う。


「知らないんですよ、俺も」
「え?」
「ええっと、プレゼントを渡したい相手のことです。何が好きかとか、何が嫌いだとか。俺、全然その人のこと全然何にも知らないんです。何かを知りたいと思っても、何から聞けばいいのかも分からないし。だから何を話して良いかも分からない。どれだけ不器用かは分かってますよ。でも、出来ないんだから、知らないんだから、仕方ないじゃないですか」



でもね、と彼は息をついてまた言った。



「それだけが理由で、俺は自分のことを相手の傍にいる資格のない人間だなんて思いませんよ。俺という人間は一人ですし、相手にとって俺という存在も一人です。自分の為に一生懸命プレゼントを選んでくれている人を、自分の大切な人じゃないと考える馬鹿が何処にいますか?」



此処にいた。



私のコートの中で、けたたましく携帯の着信音が鳴り響いた。それは案の状私の家族からのもので、慌てて電話に出ると火が付いたように怒られた。ちらりと見た腕時計の針は、レストランの予約の時間を過ぎている。とりあえず一通りの謝罪をして、今すぐ向かうという台詞を残して電話を切った。目の前の青年がさも可笑しそうに、くすくすと笑っている。



「メリークリスマス。早く家族の元に行ってあげてください」
「メリークリスマス。君のクリスマスが、幸せなものであることを祈るよ」



店員から受け取った二つの袋のうち一つを、その青年に押し付けた。慌てた様子を見せる彼に、クリスマスプレゼントだと笑いながら答える。納得したのか否か、彼は言った。それなら俺は、もう一つとびっきりのプレゼントを差し上げます、と。




今まで知らなかったこと。私がもう忘れてしまっていたこと。




本当は私が知っておくべきだった、たった一つのこと。




その言葉を聞いた瞬間、やっぱり私は迂闊にも涙を零してしまったのだ。







会社からの野暮用で店の中で散々小野寺を待たせてしまったにも関わらず、彼はいたく上機嫌だった。最後に見た瞬間には無かったはずの紙袋が、彼の腕の中に抱かれている。それは何だ?買ったのか?と尋ねると、小野寺はふるふると首を振って笑いながらこう告げた。



「貰いました」
「…誰に」
「勿論、サンタクロースですよ」



果たしてそれは新しい彼のジョークなのか。真剣に考えているとけたけたと小野寺が笑い出したので、単にからかわれているだけなのだと分かって思わず肩を竦めた。


恋人になったというのに、お互いがお互いの欲しいものがいまいち分からないという理由で、今日はこのまま小野寺と二人で店を回る予定だった。買い物と言えばそうだったし、デートと言えばそれも正解だ。選ぶ小物ひとつでも揉めるし、食べる食事一つでまた揉める。全自動掃除機器が欲しいと強請る小野寺に、俺自身が掃除機器だと言えば彼は笑う。それこそ馬鹿馬鹿しそうに、可笑しそうに。…幸せそうに。



「さて、それでは。何が欲しいかそろそろ決めていただけましたか?」
「何でも良いんですよ。本当に。高野さんが俺の為に選んでくれたものならそれで」
「お前が何が好きかとか、何が欲しいとか。俺は知らないから」
「……高野さんって、ほんっと馬鹿ですよね」



その口調があまりにも自分のそれと似ていたので、思わずくつくつと笑った。例えば夫婦は一緒に過ごしてくるうちに性格が似てくるという話もあるから、お前と俺の場合にも当て嵌まるのかな、と告げれば小野寺はふふんとちょっと偉そうに語り始める。



「別に夫婦じゃなくても、ずっと同じ空間で過ごしていたらそりゃあ性格が似てくるのも当たり前でしょう?」
「そういうものかね」



あのサンタクロースさんが高野さんに何処か似ていたのも、そういう理由なんでしょうし。



最後の言葉は聞き取れなかったので、何?と聞き返すと小野寺は、何でもありませんと首を振った。何か重要なことを聞き逃したような気がする、と顔をしかめて呟くと、そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。でも、いつかは。いつか、きっと。また同じことを聞ける日が来ますよ。実際、高野さんには来たでしょうと小野寺は言った。



真っ白な雪をその掌の中で受け止めながら、小野寺は静かに消えゆく結晶を見届ける。その姿をじいっと見つめていると、くるりと振り返りながら小野寺は語った。



「俺だって、高野さんのことを何も知りませんよ。未だに、高野さんの全てを俺が知ることは出来ません。でもね、十数年前の俺は、高野さんに一目惚れしたんですよ。名前だって、年齢だって、家の場所だって、何にも知らないのに、俺は高野さんのことが好きだったんです。高野さんが俺の何も知らないと言うのなら、どうかこれだけは知っておいてください」





全てを知らなくても、誰かを愛することは出来るということ。






私が貴方を、愛しているということ。






私は、本当に彼女のことが好きだった。愛していた。だから、彼女と家族になりたかった。だから家族になった。血の繋がっていない彼女と家族になれたのなら、ああ、君とだってきっと家族になれたのにね。…遅すぎる後悔。あの日聞いた大きな産声。嬉しかった。君が生まれてきてくれて、私は本当に嬉しかったんだ。



擦れ違い様に見た彼ら二人の表情は笑顔だった。青年は感情後すぐ顔に出てしまう子だったから。幸せなのだろうと思った。幸せで良かったと心から思った。



ありがとう。君は私の宝物だった。それを私は大切に出来ずに手離してしまったけれど、君のことを愛する人が宝物のように君を守ってくれますように。ずっと笑っていられますように。今はただそれを祈るよ。



メリークリスマス。そして、誕生日おめでとう。



可愛い私の息子が、ああ神様。どうか幸せでありますように。





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