会議を終えて何気なく自分の席へと戻ると、机の上に見慣れない長い紙切れが無造作に置かれていることに気がついた。なんだこれは?どこからか混ざりこんだのか?と訝しげに顔を歪めていると、自分の部下である副編集長から、それは社長からです、という台詞を聞いた。その瞬間、ああ、あの人ならこういう訳の分らないことをしそうだな、とうんざりとした表情で羽鳥の方向を流し見ると、今日は七夕ですから、と何とも不吉な答えが返ってきた。成程。これは短冊かと納得すると同時に、随分とご機嫌な我らが社長が大きな笹の葉を掲げてまるでタイミングを見計らったように現れるものだから。思わず苦笑いを一つ零してしまった。


井坂社長曰く、これは夏のボーナスの一種だという。

人間生きている間は少なからず不満があるだろう。それが金銭で解決出来るものもあれば、そうでないものもある。だから太っ腹な俺様がその願いを叶えてやるきっかけを与えてやろう。


つまりこれらの強制イベントは、全て社長様の粋なはからいだということらしい。周りはともかく、本人が頑なにそう信じているから。


正面玄関に飾られた笹の葉の数々は一体どこから取り寄せたのか。都会のこの地に一瞬だけ森の景色が回想され、思わず面喰ってしまう。校了がつい先日に終わった自分達はともかく、今まさに修羅場真っ最中の奴らは短冊を胸に抱えて、森林浴のごとく茫然と空を仰いでいる。確かに、休養はお金では買えないよな、と僅かに同情しつつも、さて、今自分のこの掌にある短冊を一体どうしようかと思い悩んだ。書かずに破り捨てる、などという選択肢は一切ない。あの人は、変なところでまめだから。笹の回収時に、短冊の枚数を秘書に数えさせるくらいのことはする。


ふと頭上を見上げて、参考までに他の奴らが何を書いているのかを盗み見る。無事に校了を迎えますように。とりあえず甘いものが食べたい。今年も健康でありますように。素敵な恋人ができますように。事故に合いませんように。学業が成就しますように。厄払い、等々。後半は短冊というよりもお守りという感覚もなきにしもあらず。まあ、会社で書くような短冊といえばこの程度のもので、自分のプライベートなことを書くやつなんてほぼいないだろう。それこそ、誰に見られて何を言われるものかたまったものではないから。


この会社では、自分のしたいことをやりたいようにさせてくれる。それが直接的に会社の利益に繋がっているのが主な原因だが、それを理由として前の会社を辞めた身としては、今の環境は酷く心地いいものだ。自分のやりたいようにさせてくれているのなら、それを許容してくれている社長のやりたいことにも積極的に付き合わなくてはならない。恩義とは言わばそういうことだ。


とは言っても、正直急に願い事を書けと命令されたところで、ぽんぽんとそれが思いつくような性格でもなかった。ああしてほしい、とかこうしてほしいという要望らしきものはいくつかあるが、特に短冊に記入するものではないと思う。まあ、長年秘めに秘め続けた自らの根底にあった願いは、今からおおよそ一年ほど前に、つまりは叶ってしまった訳だし。


「…あの…、高野さん。一体どういうつもりですか?」
「どうにもこうにも、自分の恋人に抱きつくのに理由がいるでしょうか?」
「高野さんに必要なのは理由じゃなくて常識です。ここ、会社だって分かっているんですか!?」


ほんの少しの間だけ俺の腕の中にいた小野寺は、声を張り上げたと思った途端、べしりと容赦なく俺を叩いてくる。いてーよ、と恨めしげに文句を言えば、自業自得じゃないですか、俺は知りません、と何とも可愛げのない反応だった。


会社の休憩室だとしても、別に俺たち以外の人間がここにいるわけじゃないし、その気配もないんだから別に良いじゃないか。というような言葉をついうっかりポツリと漏らすと、まるで汚いものを見るような目で、小野寺が俺を凝視する。分かった。俺が悪かったからその目はやめろ、と口にすると、最初からそう言えばいいんですよと彼は買ったばかりのコーヒーをごくりと一口飲み込んだ。


「んで、今日は何が食べたい?」
「基本的に話の脈絡が一切ないですよね、高野さんは」
「こんな質問、いつものことだろ?」
「あー、はいはい。そうでしたね。昨晩はこってりしていたので、今日はさっぱりしたものが食べたいです。たとえばお刺身とか」
「何それ。ほとんど手間かかってねーじゃん」
「あのですね、手間はかければいいってもんじゃないですよ?昨日だって作るのに一時間も待たされて。お腹をすかしてぐったりとしている俺の身にもなってください」
「なら、お前も手伝えば?」
「俺、最近悟ったんです。人間って、苦手なものがあればそれを無理に改善する必要もないんだって。………高野さんが一時間かかる料理を俺が手伝ったら、確実に二時間はかかると思ってください。俺に料理は、猫に小判くらい無意味だと理解してください」


何の悟りだそれは、と思いつつも、内心期待通りの小野寺の返答にほっと安堵する。そっか。良かった。小野寺は今日も自分の部屋に訪れてくれるのだと思うと、なぜだがいつも無性に嬉しくなってしまう。


目の前にいるこいつから、自分の望む言葉を、それこそ彼がうんざりしていることをも無視して引き出しているのに。それなのに、求めて手に入れて、だというのにもっともっと欲しくなる。


それは決して幸せの連鎖ではなく、むしろ過去のろくでもない遺物が作り出しているものなのだろう。


また、いつ自分が小野寺を失うかも分からないから。


ずっとこのままでいられる保証なんて何処にもありはしないから。


「…高野さん、どうかしましたか?」
「…いや、なんでもない」
「なんでも無いって顔はしてませんけどね」
「短冊」
「はい?」
「短冊に何を書こうか考えてた」


咄嗟の嘘ではあったが、小野寺にはどうやら有効だったようだ。ああ、例のアレですか、と苦笑いするあたり、心当たりはあったのだろう。


「流石井坂さんのすることだから、大胆と言うか突拍子もないというか。ま、俺達に書かないという選択の余地はありませんからね」
「全くだ」


と文句を口にする割には、小野寺の顔は特に思い悩んでいる様子もなく、むしろ何処か他人事のようだった。おや?と思っていると、目ざとく自分の疑いの目を感じとった小野寺は、得意気にこう語った。


「俺は、とっくに書き終えましたから」


探せるものなら、探し当ててみてください。




小野寺のとてつもなく分かりやすい宣戦布告に、その愚かしさを知った上で敢えて乗ってしまうのは、所謂惚れた弱みというものだろう。別に、二人きりのあの空間で問い詰めることはいくらだって出来たはず。だというのに、俺がそうしなかったのは、珍しく小野寺からのやや挑発的な笑みに、つい好奇心が掻き立てられてしまったから。


外の空気を吸いにいく振りをしながら、先ほど立てかけられたばかりの笹の葉をもう一度見上げる。そして、僅かに息を呑んだ。自分の記憶が間違いなく正しければの話だが、つい数時間前と比べても明らかに短冊の数が多い。鈴なりに連なった笹の葉よりも何倍も多いそれに、引っ張られるような形で茎が弓なりにしなっている。おいおい、これはどう考えても一人一枚の量じゃないぞとやや引きながらどうしようかと迷い、けれどこのまま尻尾振って退散するのも癪だったので、渋々ながら無数の夢の切れ端を目で辿った。


一つ一つの願いの中に彼の姿を探し、ああでも小野寺はこんなことは書かないだろうなという消去法での確認作業。まるで宝探しでもしているような途方な気分を味わうが、それでも目的のものがきちんとそこに存在しているということが確定されている分だけまだマシだ。あれでもない、これでもない。声には出さずに内心に呟き、ふと、小野寺の願いとは一体何なんだろうな、などと根本的な疑問が脳裏に浮かんだ。


その瞬間だった。あ、と掠れたような声が漏れると同時に、視線が空のある一点に止まる。息を呑むようにして唇を薄く開きながら、静かに囁いた。



見つけた。




「今日も今日で待ち伏せですか。本当に懲りませんね、高野さんは」
「ほっとけ」


帰宅しようとした小野寺の姿を会社の外で捕まえると、またもや彼は呆れたような表情を見せて俺に向かって溜め息をついた。偶然を装って岐路を共にすることも最早二人にとっては恒例行事みたいなものなのに、それでも小野寺からしてみればやはり文句の一つでも言いたくなるらしい。……けれど、歩く歩幅を狭いものに、スピードを緩やかにしてくれる辺り、以前とは画期的な違いがある訳だけれども。


「編集長を蹴落とす」
「………」
「ってのが、お前が書いた短冊だろ?」


何の気もないような素振りを見せつつも指摘すると、小野寺は特に驚いた反応もなく、ああ、そう、それです、と平然と答えた。


「折角時間を惜しんで探してやったのに。何その可愛くない態度」
「探してください、俺はなんて頼んでませんよ?見つけられるものなら、見つけてくださいとは言いましたが」
「同じ意味だろ」
「いいえ、全く違います」


きっぱりと言い切る小野寺の口調には一切の迷いがない。にたり、と白い月の光の下で笑う彼の表情に、理解したのは小野寺の短冊をあの無数の願いの束から見つけ出すというだけではきっと終わりではないこと。それが分かっているのに、それ以上に分からないから。言葉を失ったままつい考えこんでいると、くすりと、小野寺が隣で笑う声が耳に届いた。


「………俺を蹴落として、おまえは一体どうするつもりなんだ?」
「……、いい着眼点ですね。まあ、展開的に言えば俺が編集長になって、高野さんが自動的に部下になる訳ですが」
「想像出来ねーけど」
「俺も激しく同意です」
「でも、それがお前の願いなんだろ?」
「まさか」


思わず、何を言っているんだコイツは、という訝しげな表情を浮かべると、それを待っていましたとばかりに小野寺が語り始めた。


「そりゃあ昔は、まあ若干今もですけど、高野さんには大分パワハラ紛いのことをさせられたこともありましたので、高野さんを上司という立場から引きずり落としたいと一時は本気で思ってました」
「………」
「でもね。でも、ですよ。高野さんを引きずり落として、その後一体俺はどうしたいのかなって考えた時に、可笑しいことに何も思いつかなかったんですよ」


言い終えた瞬間、彼は唐突にぱたぱたと走り始めた。どう考えても全力走りでなかったそれは、だから小野寺が本気で自分から離れようとしていないことだけは分かった。遠のいていく小野寺の後ろ姿を目で追って、ああ、そういえば一年前、自分が口説きはじめたばかりの頃の彼は、こうやって逃げてばかりいたよな、ということを思い出す。


星が、随分と綺麗だった。


ぴたり、と小野寺の動きが止まって、振り向きながら彼の視線は俺を捕える。焦りは感じずにただそのままの速度に、小野寺の元へと辿りつくと、また再び一緒になって歩をそろえた。


「つまり、こういうことです」
「どういうことだよ」
「高野さんは知らないでしょうけどね。実は俺、学生の頃にアンタに告白する前の三年間、ずっとその後ろ姿を追いかけていたんですよ」
「……それは初耳」
「結局大人になっても、俺は高野さんのことを追いかけていたもので。人間って、やっぱり根本的な部分って変わらないものですから。で、俺、分かったんです。……別に俺、高野さんを追いかけて追いかけて、それでもって追い抜きたい訳じゃなかったって」


は、と小野寺が小さく息をついて言った。


「俺はね、高野さんとこうやって隣で一緒に歩きたかったんですよ。…ずっと、ずっと」


そうやって笑う小野寺の姿が、あんまりにも綺麗だったから。けれど、言えなかった。その一言が自分にとってとてつもなく嬉しかったことや、胸にこみ上げてくるものがあって少し泣きそうになってしまったことも。


「矛盾してるじゃねーか」
「何がです?」
「それがどうして、編集長を蹴落とす、という言葉に繋がるんだ?」
「…あれは、言わば暗号です」
「…暗号?」
「だって、彦星と織姫とやらは仕事をさぼったからこそ恋人と離ればなれになったんでしょう?つまり、仕事をきちんとしてさえすれば別れることもなかった。だから俺は、高野さんを蹴落とす為に、真面目に仕事をするんですよ」


もう二度と離れたくはないから。


「なら俺は、自分の後輩には絶対席を譲らない、っていう願いにでもしておこうかな」
「それはそれは、とても素敵ですね」



例えばこれからもずっと一緒にいたいだとか、お前に俺のことをこれからも好きでいてほしいという願いを口にすれば、彼はきっとこう言って笑うのだ。どうせ叶ってしまう願いなら、祈ったところで無駄でしょう?それもそうだと俺は頷き、その掌を握りしめて、その嬉しさに唇を震わせるのだ。


「今日の晩飯、なんだか凝ったものを作りたい気分」
「絶対に止めてください。俺はお刺身が良いです」
「お前、手伝いたくないだけだろ」
「違います。一時間も高野さんに放っておかれるのが嫌なだけですよ。なんで一緒にいるのに、お互いに別行動しなきゃいけないんですか」


少しだけ頬を赤らめて告白する小野寺に微笑んで、満天の空を仰いだ。


「お前、やっぱり少し料理を覚えろ」
「嫌です」
「何で」
「だって、どうせこれからも高野さんが作ってくれますから」


ああ、だからこそのその願い。祈るも無駄なことでしょう。



月夜に提灯。明るい月夜に提灯をともすこと。無駄なことの喩え。


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