「煙草、止めてみたらどうですか?俺、その匂いあまり好きじゃありません」


というような台詞をつい口に出してしまったのは、つまり売り言葉に買い言葉。明確な意図があったわけでもなく、今日も今日とて奴の思い通りに事が運んでしまったことに対するささやかな抵抗のつもりだった。


だってむかつくだろう。職場で人のことを散々こき使ってくれた挙句、帰宅しようとすれば案の定まるで待ち伏せでもしていたかのように高野さんと一緒に帰路を共にする羽目になり、後は大体皆さまのご想像通り。まるで発展性のないワンパターンのストーリーな癖に、そのループの呪縛からこれからも抜け出せそうにないこと。予想は出来ても、それを受け入れるかどうかはまた別の話だ。


人の体を勝手に熱くさせておいて、散々みっともない自分の姿をさらけださせておいて。あまつさえ当然のように眠る前のキスを求めてくるものだから、それをやんわりと掌で押し留めた。途端、視界の端に見えた不機嫌そうな表情。自分のいらいらをそのまま相手に移し替える方法。実に短絡的な思考の挙句、結局口に出来た文句と言えば冒頭の台詞だ。


その日以降、ぱたりと。高野さんは煙草を止めてしまった。


どうせ単なる気まぐれだろうと考えたのは最初の数日。おや?と思ったのは、丁度一週間後。あの人、なんのつもりだろうと訝しんだのは一か月を過ぎた頃。いよいよおかしいと思ったのはつい最近のことだった。


高野さんが煙草を吸わなくなったと同時に、あの人は俺に触れようとしなくなった。


同じ職場にいる以上、肩が触れ合う程度のことは良くある。なのにそれに意識しているのは俺ばかりで、奴は何食わぬ顔で「ああ、悪い」と小さく謝罪するのだ。いえ、大丈夫です、とだけ答えるだけで何故か俺は精一杯で、触れた肩にそっと手を伸ばしつつ、名残りを惜しむように指先できゅっと掴む。


高野さんに煙草を止めて欲しいと言ったのは自分だ。自分の都合も聞かずに勝手に何でもかんでも決めないでくださいと文句を言ったのも。


だから、高野さんは正しい。


俺の一言で自分の体の健康を気遣うようになったら、それは良いことじゃないか。大体あの人、今まで毎日毎日煙草を吸いすぎなんだって。一体一日何本吸っているのやら。体中に染みついた匂いはぴったりと纏わりついて離れやしなくて。例えばその香りがふと鼻腔を掠めて、まるで高野さんの自分の体が包まれているような、そんな錯覚を覚えることもないのなら。


それが普通なら。…自然なら。


最初から手離してしまいさえすれば良かったのに。



コンビニの中で高野さんと出くわしたのは、なんの意図があるわけではなく単なる偶然だった。籠の中にぽぽいと入れた弁当をちらりと流し見、高野さんはまたそんなものばかり食べて、と呆れたような表情を見せる。その癖、一言も語ることなくいくつかの缶ビールを同じように投げ込んで、すたすたとレジに向かって歩いていく。無意識のままにその後ろ姿を追って、彼の背中にぴたりと張り付くように並んだ。


ふと、視界の端に商品棚に整然と並べられている煙草の箱が映った。


高野さんが、しかめっ面を浮かべながらすっと指先を伸ばす。慣れた手つきで店員が高野さん愛用の煙草を一つ手にとり、音を立ててレジへと通す。何だ、やっぱり我慢できなかったんですね、としたり顔で告げる俺に、それでも高野さんはただ一言うるせーよ、とだけ答える。にやにやと笑いながら、けれど俺は何故だかほっと胸を撫で下ろすのだ。


ああ、いつもの高野さんに戻った。


という一連の流れはつまり自分の妄想に過ぎなくて、籠の中の商品だけを購入した高野さんは、俺を置いてさっさと店を出て行ってしまった。するりと抜けだすようにして消えた彼を茫然と眺めて、そして自分の中の何かがぷつりと切れるのが分かった。


袋の中の弁当の中身が崩れることも構わず、全力で奴の姿を追いかける。高野さん!と幾度となく声を張り上げて、彼がその音に気づいてようやく振り返った瞬間に、手に持っていた小さな箱を力任せにぶん投げる。至近距離故の命中。痛みで眉をひそめる高野さんに、絶え絶えの息のままに言ってやった。


忘れものです。


そして気づいたら見上げた視線の先には、汗ばんだ高野さんの姿があって。リズミカルに動く体の振動に呼応するように、何度か意識が飛びかけた。変なの、としたたる汗を感じながら思った。いつもと同じことをしているのに、いつもと何かが違う。違和感の原因は、嫌でもすぐに気が付いた。


この人から、あの匂いがしないから。


ぽっと先端に赤い火が灯り、風もないのに白煙がゆるやかに右へと逸れていった。正直、煙草を止めるのも限界だった、とぽつりと独り言のようなことを告げる高野さんに、ああ、そうなんですかとこれでもかとそっけない風を装って答えた。


「お前、この匂い嫌いなんじゃなかったの?」
「勝手に過去形にしないでください。今も、別に好きじゃありません」
「結構昔から、止めよう止めようとは少しだけ思ってたんだけどな。あー、でも結局駄目だったな。これでも最長記録だけど。……好きなものは、やっぱりそう簡単に止められないか」


そう口にして嘆く高野さんが、出来るだけ俺から距離を取ろうとしていることは知っている。吐き出される煙が、俺にふりかからないようにと気に留めていることも。何だかなと思った。ほぼやっかみで言ってみただけの台詞をこんなにも真に受けて、俺を気遣ってくれることは嬉しかった。でも、あれほど抱き合った行為の直後に、ただ指先一つ触れられることすら出来ないのは、寂しいと感じた。


ねえ、だから。高野さんも本当は、寂しかったのでしょう?


消そうとしても無駄だった。消えるまでなんて到底我慢出来なかった。憎くて、憎くて、嫌いでたまらなかったはずなのに、結局忘れることも出来なかった。ただの数日間も、数か月も、これまでの十年も。


そしてきっとこれからも。


「まあ、煙草を吸わないお前には分からないだろうけど」
「分かりますよ」


触れられないのが寂しいのならば、俺から手を伸ばせば良いだけの話だ。人差し指が高野さんの白い肌に触れると、そこからじわりと温かさが伝った。


「俺にとってのあんたも、似たようなものですから」


簡単に止められたら、苦労はしません。





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