北海道の空気は、震えるほどに寒い。


北の国は極寒の地であることはあらかた有名だが、実際その地を踏みしめて分かるのは、一度防寒具を脱いで外に出ようとするものなら大体数時間後には凍死死体が出来るということだ。生まれも育ちも関東圏だった俺にしてみれば、冬の寒さなどは何とか服を着込んで暖房器具を少々使えば乗り越えられるという感覚。その思い込みが間違いを犯した最大の要因であることは分かりきったことだ。結局寒さに打ち震える俺を見かねて、雪名がコートを購入してきたものだから。至れりつくせりですね、と毒々しく文句吐けば、もう木佐さん一人の体ではないので、と笑いながら奴は言う。


目覚めると窓の外は真白の世界で、ガラス窓にはびっしりと霜が張り付いていた。手の温度で溶かしてから、まあるい円越しに見えた下界は何とも幻想的だった。この旅館に辿り着いた時には見えていた道路は、今や雪の橋のような状態になっている。おそらく従業員だろう人々が、せっせせっせと雪かきをしているのが細やかに見える。


特にすることもなく単なる時間潰しのひと時。時計の針は午前十時を指している。昼食の時間にはまだまだ早すぎるし、それなら雪名と一緒に遊べば良いかと思うも、ぐっすりと気持ちよさそうに眠る彼を起こすのは忍びない。


それなら答えは一つだ。どうにかして、俺だけで退屈と付き合わなければならない。


けれど読書することはもう飽き飽きだし、温泉にも肌がふやけるほど入ってしまったので、流石に止めておこう。良薬も摂取量が多過ぎると劇薬になるもので、いくら若返りの温泉で有名だとしても、これ以上若くなったら俺だってそれなりに困る。


というわけで一人で出かけるという選択肢はつまり当然な成り行きであった。この歳になって未だ豪雪というものを経験したことが無いのも理由だったのかもしれない。冬の北海道の地を産まれて初め踏んで、そのあまりの雪の多さに驚きを通り越して興奮してしまった。雪国に生まれた者からすれば、大雪などというものは生活にとって邪魔でしかないと雪名は口にする。だから何処か現実味の無いその言葉を、自身で納得させる為の行為の様な気もした。


雪名が自分にと選んだコート、ぬくぬくとした毛糸の帽子とマフラーを着込む。膝丈まであるお洒落仕様のブーツは、今は単なる長靴の代用。ちょっと出かけてきますと宿主に声をかけて、外へと出かけた。空は、澄み切った青空だった。


一晩で良くもまあここまで雪が降るものだな、と妙に感心してしまう。大きめの紅いスコップで捌けられた雪道を歩きながら辺りを見回した。吐きだす息が白く、凍てつくような空気に頬が痛む。うん、やっぱりクソ寒い場所だ、と悪態を付きながら、それでも前に進む足は止まることは無かった。


一本道だった雪の歩道は、大きい道路へと繋がっている。何時車が行き来しているかも分からない道は、何処か寂しげに見える。確か、此処を突っ切ると田んぼに行くはず、と自分の勘を信じて雪の山へと足を出す。ずぼりと、膝ごと雪の中へと埋まってしまった。普段は羽のような軽さのイメージがある雪も、積もり積もってしまえば見事な重量だ。…うん、抜けない…と四苦八苦を繰り返し、何とか抜け出しては前に進んだ。


そうやって歩いた先には、吹きさらしの雪原。周りにぽつぽつと家が見えるものの、手を伸ばす限りに真っ白な世界は、まるで映画のシーンでも使われているような光景だ。きょろきょろと辺りを見回して誰もいないことを確認してから、ぼふりと体を倒した。新雪だったからか、想像していたような衝撃は無かった。


実はちょっと夢だった。こうして、雪の中に眠るという行為。でも実際やってみると案外寒いものだなと、白い太陽を感じながら目を閉じ思った。


静かだった。耳元には何も音が届かなかった。だから頬に冷たい感触がして、その時初めて粉雪が降り始めたことに気づいた。頭上には青空が広がっているのに、全く何処から落ちてきたのか。まあ、山の天気は変わりやすいというから、その前触れかもしれない。この場所にいるのもほどほどにして帰らなければと思いつつも、体は動かない。ぱちくりと開いた瞳が、瞬きを繰り返した。


雪の降る音は何故この耳に聞こえないのか。昔から不思議に思っていた。


都会では雪の降る機会が滅多になく、夜眠った後に雪が降り始めては街を白く染め。けれど朝起きた時点でああ、雪が降ったのだなという認識をするばかりで、子供の頃は雪の降る瞬間を見たかったとよく悔しがったものだ。せめて雨のように雪もその音が聞こえさえすれば、自分にだって気づくのに。そう思っていた幼少期の自分が、今はもう懐かしい。


答えは簡単。雪の音は、白き結晶が自身の音を吸い込んでしまうから。


だから自分達には何も聞こえないのだ。聞こえないのに、けれど気づけばそこにある。何とも不思議な現象だ。でも、おそらく雪名であれば今更何を言っているんですか?木佐さん、という答えが返ってくるのだろう。その姿があまりにも鮮明に脳裏に浮かびあがるので、思わず一人で笑ってしまった。


雪の中に埋もれてしまった耳を研ぎ澄ます。雪名が生まれ、そして育った場所だ。だからここに存在した時の彼の声が雪に吸い込まれているように思えて。彼の記憶を、雪に覗く。


「…木佐さん」
「……?雪名?何で此処に?」


不意に名前を呼ばれて驚き飛び上がると、すぐ目の前に息を切らした雪名の姿があった。外に出かけてくるというメモ書きは一応残してはいたものの、何処へ向かうとは伝えていなかったはずなのに。というかこの散歩自体が目的地の無いものだったので、純粋に彼がここにいることに驚いた。


「旅館の人から聞きました。こっちの方向に歩いて行ったって」
「…そこまでは分かるけど、道路から先のこと」
「木佐さんが物珍しそうに雪景色を見ていましたから。きっとこんなことだろうと思っていました。しかも、ご丁寧に足跡までつけてくださって」
「あーあ、はいはい。起こさなくて悪かった。ごめんなさい」


回りくどい叱咤に素直に謝罪して、雪名の顔を仰ぎ見る。太陽の逆光のせいで表情は分からなかったものの、多分消えた俺を必死になって探してくれていただろうことは直ぐに察した。


もそもそと立ち上がり、伸ばされた手にそっとしがみつく。白いクッションから離れれば、ぼろぼろと服の脇から小さな雪玉が落ちていった。帽子の隙間から入った結晶を、雪名が優しく削ぎ落としていく。溶けた水滴が頬にぶつかり、冷たいと思ったその瞬間だった。


乾いた唇に仄かに温かな感触が宿る。至近距離に雪名の長い睫毛が見えた。


だから、外でキスとかするのは止めろと言っているのに。出会った当初から、本当に妙なタイミングで口付けするのが雪名は好きだよな、と内心に思う。でもまあ自分達以外の人間が存在していないことはもう確認済みだし、しょうがないかと静かに瞼を閉じた。


多分俺には、雪名に言いたいことがやまほどある。でも、時に何も言えなくなるのは、こいつが俺の言葉を奪っているから。全て音を、吸い込んでいるから。


不安も、恐怖も。己の弱さも、何もかも。彼はこうして、自分の中に取り込んでしまうから。


それでも、雪名の心は未だ透明なまま。白く眩しい笑顔を俺に見せる。


彼には、雪の名前が宿るから。だからこんなにも狂おしいほど、俺はこの光景が愛しく感じるのだろう。


「…んで?俺の実家にはいつ挨拶に来てくれるの?」
「まだ木佐さんのことを俺の両親に話したばっかりじゃないですか」
「善は急げ」
「急がば回れ」
「もしかして、お前怖いの?」
「それはまあ。…九歳も年下の名もない絵描きがお宅の息子さんをください!とか言うんですよ。殴られる覚悟はしておかないと」
「殴りはしないよ。俺の血族、大体面食いだから。綺麗な顔に傷は付けない主義」
「ああ、その遺伝子を受け継いでいるから木佐さんは可愛いんですね」
「話を逸らすなよ。俺だってお前の両親に会うのは死ぬほど緊張したんだからな。だからお前も、出来れば死ね」
「死んだら挨拶どころじゃないですよね」


それでもやや弱気な雪名の掌をぎゅう、と握って、思い返すようにいつかの言葉を口にした。


「俺が雪名を好きなことは、雪名の自信にはなりませんか?…俺は、本気で好きな奴じゃなきゃ親に紹介なんてしないから。俺が振り絞った勇気を、雪名も見せてはくれませんか?」


答えは聞こえない。でも参ったなという表情を浮かべる雪名の笑顔は、とてもとても穏やかだった。


今度は俺が、彼の不安を吸い込もう。雪名の言葉も何もかも。だって全部俺のものだから。


雪道の中に型どられた足跡。春になれば消えてしまうその軌跡も、けれど自分達が確かに歩んだ道には変わりはない。見えなくても、消えてしまっても。静かに積もったそれは、きっと永遠に此処に残るのだ。


ゆきのなまえ
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