久方ぶりに吉野の部屋へと訪れてみれば、そこには死体と称しても良いくらいのおどろおどろした物体が部屋のど真ん中でうつ伏せになっていた。一応は予定通りの時間にやってきたというのに、客を出迎えるにしては随分な態度だ。吉野、と惰眠から引き剥がすように名前を呼べば、ん?トリ、何でここにいるの?と目を瞬かせて彼は驚く。もう一度説明する。俺は吉野の家に訪れるという約束があったからこそここにやって来た。しかもその約束を最初に言い出した張本人は、お前だ馬鹿。


勝手知ったる家の中、家主を一旦は放って置いて自分用のコーヒーを作ろうと思った。珍しく挽きたての豆があったので、勝手にそれを使用させていただく。香ばしい香りが鼻腔をくすぐると同時に、いつの間にか起き上がっていた吉野は、俺には砂糖を多めになどと注文をつけてくる。誰がお前の分を準備すると言った、とは口にしない。用意したカップも、湯の量も最初から二人分だったから。


「いやー、悪い。準備しようと思ってたんだけど、起き上がった瞬間寝ちゃった」


ぽりぽりと頭を掻きながら吉野が笑った。心なしか彼の表情は優れない気がする。怒る気力もなくなって彼に出来立てのコーヒーを渡してやった。零れたミルクが、螺旋を描きながら底へと沈んでいく。


「それは貧血じゃないのか?」
「…うーん、かもしれない」
「かもしれないって、お前な」
「大丈夫だって!これくらいで弱音なんて吐いてなんていられないし。折角連載を任されるようになったのに、此処で頑張らなきゃいつ頑張るんだよ!」


相変わらず前向きな思考回路に、ため息をつきたくなるのを堪えてコーヒーを流し込んだ。努力をすることはいたく結構なことだと思う。自分がこれと決めたことに懸命にする吉野の姿は決して嫌いじゃない。ただ彼は熱中するあまりに自分自身の体をおろそかにしがちなのだ。今までそれが原因で何度倒れたことか。実際その現場を目撃し、その度に吉野に言ってやりたくなるのだ。そこまでして漫画を描く意味があるのか。体を壊すくらいなら、いっそ止めてしまえば良いのではないかと。


「うん。トリが心配してくれるのは嬉しい。でも、俺は止めないよ。だって漫画を描くことが大好きだから。自分の好きなものってそう簡単に止められるものじゃないだろ?」


核心を突いた台詞であったことを、多分吉野は知らない。やっぱりこのコーヒーは美味いわーなどと言いながら、のほほんを笑みを浮かべている。


「で?お前が言い出したんだろ?新しい漫画の単行本が出たから、そのお祝いしろと。一体俺に何を求めているんだ?」
「求めているとかそんな大層なものじゃなくて、ただ久し振りにトリの作ったご飯が食べたいなあ、という可愛いおねだり」
「それはいつものおねだりと何が違う」
「分かんないかなー。いつもより愛を込めて作って欲しいってことだよ」


妙に腹が立って、唐突にぺしりと吉野の頭を叩いてやった。何するんだよと彼は憤慨していたが、材料はあるんだろうな?と問い返せば、途端ぱあっと表情を緩めた。


家に帰ってくるなり、上着だけを脱いだ状態でソファーへと腰をかけた。全体重を預けて息を付きながら天井を仰ぐ。数ヶ月ぶりの吉野は、相変わらずの彼だった。自分の中の虚像と実物が全く代わり映えのないことの安堵し、それは自分たちの関係も変わらないことを意味するのではないかと一方で悲観する。


実家から送られてきた食材を、帰り際に吉野から押し付けられた。その中身を確認すると、いくつかの野菜と共に小さな本らしきものが混ざっていた。確認すればそれは先程話題になった吉川千春の最新刊で、ご丁寧に著者直筆のサイン入りだ。おそらくは俺に対するささやかなプレゼントのつもりなのだろう。


ぱらぱらと中身を捲りながら思い返す。徹夜続きで何日も眠っていなかった彼のこと。校了を終えた直後そのまま倒れてしまったこと。過労と栄養失調と判断されて、点滴されたまま横たわっていた吉野の姿は痛々しかった。そんな状態になっても、彼は描くことを止めなかった。愛を込めて作り上げたこの本は、だから多くの人の心を掴むのだろう。


自分が愛したものに愛されるということは、これ以上ない幸福なのだと思う。


「まあ、俺には無縁な話だがな」


いくら愛を込めて料理を作っても、どうせ吉野には届かないと知っている。俺では吉野の心は掴めないし、告げる勇気も無ければだから受け入れられることもないのだろう。きっぱりと諦めればいいものの、それが出来ない。好きだから、好きでいることを止められない。なんだ、自分も吉野と同じような人種なのだと気づいて、苦笑いを一つ零した。


既刊の分を含めて、我が家には吉野の本が二冊ずつある。一冊は自分が購入したもので、もう一冊は吉野が贈ってくれたものだ。重なった場所に、新しく手に入れた本を乗せた。変わらない日常の中、想いだけはこうして積み重なったまま。



「俺をやる」祭4.だから、受け入れて



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