いい加減に勘弁してほしい、と思う。



※溢れるは、ただ一つの言の葉※



徹夜続きの入稿前、一段落を終える頃には既に瀕死の重体。肉体的には勿論、精神的にもかなり追い詰められている。せめて会社に風呂とベッドがあればそのままふかふかな布団に華麗にダイブして永久に眠り続けてやるのに!と、意味不明な意気込みを燃やすのも、きっと疲れている証拠だと思いたい。


とりあえず玄関。せめて玄関。頑張って意識を保つんだ俺。

家に着きさえすれば、もう玄関の床だろうがなんだろうがそのまま倒れこんでも構わない。そう呪文のように繰り返し唱え、疲労困憊の体をだましだまし鞭打って、ようやくマンションへと辿り着く。勿論、帰り道をどう来たかなんて記憶はあやふやに決まっている。

見慣れた自分の部屋のドアが、視界に入ったそのとき時の喜びと言ったら!歓喜に満ち溢れる胸は今にもはちきれんばかりだ。


―やばいうれしい。うれしすぎる。


純文学を愛してやまない癖に、感情の表現が酷く単純だが、本当に、ただ、その気持ちでいっぱいで体に満ち溢れるときは形容詞なんて必要なく、たった一つの単語で間に合うのだ。


ただでさえ回りくどい現代人。理由だの原因だの結果だの意見だの私見だの。余計なものを付け加えるから、本来伝えるべきものが見えてこない。繊細でそれで居て美しい言葉の欠片を継ぎあわせ、たった一つの感情や情景を雄大に綴る小説家とは違って。文字を重ねて、伝える、術を知らないから。


付け加えることが出来ないのなら、付け加えるべきではないのだ。きっとその方が、自分の感情をうまく伝えることが出来るのだろうしうまく伝わるのだろう。と、自分なりの解釈を俺は信じている。


玄関のドアノブに手を掛けたところまでは覚えている。けれど、途端すぐに暗転。目が眩み、一瞬意識が無くなってキスされている、と頭が理解したのは咥内に高野さんの舌が侵入した頃。


出遅れた抵抗。突っぱねようと服を掴んだ掌は全てを奪い去るような強引な口付けのせいで、ただ縋り付くそれになる。ぞくり、と。支配していた睡眠欲を押しのけて、確かな情欲が晒された肌に触れられた所からじわじわと湧き上がる。まずい、まずいと頭の中でシグナルが点滅する。流れる髪の毛に絡む指先。耳元で、律、と熱く名前を呼ばれれば、快楽に慣らされた体は、いつの間にか抵抗するのを止めている。


玄関にすらたどりつけないってどうなんだ。


何一つ思い通りにならない現実に嘆いている割には彼の行為を何一つ拒めない自分が酷く恨めしい。



視界の端に彼の姿を確認して、ああ、またか、と思う。



また、流されるのか。俺は。


※※※
気づけば、朝。部屋に差し込む陽光は柔らかく窓枠に切り取られた空は、まるで写真のように青々としている。開かれた隙間から流れる、心地よくそれでいて静謐な風。


ああ、何ていい天気。出来ればこの爽やかな休日の目覚めを自分の部屋で味わいたかった、と悔やむことも最早日常茶飯事になってしまった。嘆かわしいことに。


好き勝手された体は互いの汗や唾液やら精液やらでべとべとだ。受け入れた場所は特に。腰から全身に這い上がる鈍痛が羞恥心を酷く煽る。また、流されてしまった。恥ずかしい恥ずかしい。死にたい。いや死ねないけど。


それにしても昨夜の高野さんは容赦が無かった。繁忙期の直後、ということも一因ではあるのだろうけれど、ほんとうに、酷く情欲的というか、ねちっこいというか。大変しつこかったと思う。体中に張り付く紅の跡が、物言わぬ証拠だ。


達しても達しても縋り付く腕は悲鳴を上げる肉体を離そうとせずに、ただただ貪欲に貪る。抗議の言葉は乱暴に塞ぐ唇に飲み込まれ、跳ね除けようとする指は、彼のそれによって絡められ無理やりにシーツに縫い付けられる。余りの苦しさに涙を零せば、それすらも逃さないとばかりにざらりとした舌で拭われる。


俺の全部が、無くなる。搾り取られる。言葉も、行為も、思考も、何もかも。全て高野さんに奪われて、頭が真っ白になって。自分が誰かすらどうしてこの人にこんなふうに抱かれているのかすら、忘れかけた頃を見計らったように、耳元で囁くようにそれでいて愛しげに名前を呼ばれる。


どうかしている。本当にどうかしているのだ、自分は。こんなに酷いことをされているのに、彼の言葉がまるで鉛のように、深く深く重く心に響くなんて。


※※※
本日の高野家の朝食は和食らしい。


ふわふわのだし巻き卵を筆頭に鮭の塩焼き、自家製たくあん漬けにわかめとたこの酢の物。豆腐となめこの味噌汁に最後に炊きたて玄米ご飯ときたもんだ。


―腹立たしいのは、この人と食べ物の趣味まで似ているということ。


昨夜は結局夕食にすら取ることか出来ずに高野さんの部屋に連れ込まれた。結果、食事を食べ損ねた身体は酷く栄養を欲している、と強引な理由をつけ自分を納得させ、テーブルに並べられた料理にいそいそと箸をつけた。

ちなみに高野家でご飯をいただくことは、これが初めてというわけではない。おそらくはかなりの頻度で、この部屋でご馳走になっている。誠に遺憾ではあるが。その理由は、どうぞご想像にお任せします、としか言えないのがとても悲しい。

そんな微妙な状況を充分に理解したうえで、高野さんは俺にもういっそ一緒にここに住んじまえ、と大変傲慢に言い張る。がしかし、彼の提案はほぼまるっと聞かなかったことにして、無視を決め込んでいる。


けれど高野さんの作る料理に全く魅力を感じずに、彼のお誘いにも少しも心が揺れない…わけではないのだ。


だって、だから一度高野さんの手料理を食べてみたらいい。例えば、この黄金色のだし巻き玉子絶妙な甘さ加減といい、こんがり程よく焼けた表面といい。箸からはみ出るその質量感と存在感は圧倒的で中は蕩けるように柔らかく繊細で、舌の上に広がる味は溶けるみたいに滑らかなのだ。


何これ料亭料理?と毎度毎度内心突っ込まずにはいられないのだが作成した張本人は何処吹く風で、ただテーブルを挟んで自分の真向かいに座り先ほどから緩みっぱなしの表情を浮かべて、俺の食事の様子を眺めている。嬉しげに、そして楽しげに。薄く目を細めて。


―むかつく。


何がむかつくって、全部。全てだ。


彼が強引に自分を抱くことにも、それなのにそれを拒めない自分も。会社では傲慢で意地悪で怒鳴ってばかりのくせに、こうやって二人きりの時は酷く優しくて、一番に自分のことを考えてくれる。それが少し嬉しいと感じてしまうこと。


久しぶりの休日だっていうのに、結局また二人で過ごすことになる。平日だって、同じ職場で散々お互いの顔を見ているのに。けれど、それが次第に当たり前の日常になりつつあること。


まだ、他にも。たくさんたくさんある。その全てにおいて共通して言えることは、全ての物事において俺は高野さんの掌の上で踊らされているという事実。


否、ほだされていると言ってもいいのか。これ以上、彼に近づいては駄目だと、頭では分かっているのに確実に彼に心は傾いている。悔しいことに。


なんで。一体どうしてこんなことに。考えれば考えるほど、分からない。ああ、わけが分からない。


悶々とどうにもならないことに頭を痛めているとふと、高野さんが喉の奥でくつくつと笑い始めた。はっとして俯いていた顔を上げれば、彼と眼が合う。そして慌てて逸らす。こんなことすら、最早日常の一種に飲み込まれしまう事実。もうどうすればいいのやら。


悪いことをしたわけでもないのに、居たたまれないと感じてしまうのはおそらく、自分の考えを高野さんに見透かされているような気がするから。そして、その想像はたぶん当たっている。でなければ、こんなに嬉しそうで優しげな瞳を彼が浮かべるはずがないのだから。


だから、いい加減に勘弁してほしい、と思う。


「何が、そんなに楽しいんですか?」
「何がって、何?」
「っ…だからっ、そうやって、人の顔を見て笑って、
 何がおかしいんですかと聞いているんです!」


意を決して高野さんに抗議をすると、とぼけたようにああ、と彼は生返事を一つして


「いや、お前のこと、やっぱり好きだなーと思っただけ。」


別におかしくて笑っていたわけじゃなくて。お前があんまり幸せそうに俺の料理を食べてるから、そんなお前の顔が見れて、嬉しかったんだよ。と、当然のようにしれっと恥ずかしげもなくおっしゃる。勿論、聞いてるこっちの身はお構いなしだ。

恥ずかしいことを言っているのはあっちなのに、なんでどうして俺が恥ずかしい思いをしなくてはならないんだ!と憤慨する。


歯に衣を着せぬ台詞を返されて面くらい、一瞬だけ、ぐ、と喉を詰まらせて。押し殺したような声で、でも、俺は嫌いです、と抵抗するように言えばいいんだよ、別に。俺が勝手に好きなだけだから、とまたもや飄々と告げられる。


―いいや、よくない。それはいちばんよくない。


思っていても、それを口にすることも出来ない程、高野さんの微笑みから目が反らせない。彼の言葉を無視出来ない。ああ、もう嫌だ。こんな風に高野さんに振り回されるのは。それが、心の底から嫌だと感じない自分が。


だから、本当に勘弁してほしい。



ただ彼が好きで好きでたまらなく好きで追いかけて、追いかけて彼の読む本の世界すら全て愛して。彼を愛して。全てを愛し尽くしたあの頃と、もう何もかもが違うのに。


十年前に別れたとか、初恋は実らないだとか、男同士だとか、職場の上司関係だとか、付き合ってもどうにもならないとかそんな事柄を全て覆して。全部押しのけて。


彼への想いが次から次へと胸の奥から溢れ出し思わずその感情を告げたあの日のような、どうしようもない感覚を、嫌でも思い出してしまって。


どれくらいの間とか、他の人よりも誰よりも、なんて形容詞なんてなく勿論周りくどい言葉なんて、何一つ思い浮かばずに、言葉を繋ぎ合わせることも出来ずに。本当に、小さな小さな単語で、自分の想いの全てを打ち明けたあの時のように、




彼に、ただ一言。



好き、と告げたくなってしまうから。


※※※
でも、まだいえない。だから、いわない


私の高律は大変残念。


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