弓なりにしなった体はトリによってベッドへと強引に押し付けられた。互いに汗ばむ体を重ね合わせて唾液混じりの口付けを交わす。喉奥から漏れる甘ったるい嬌声を押し出すように、彼は自分の弱いところを集中的に責め立てる。掠れた声でトリ、と名前を呼べば、普段人前では絶対に呼ぶことがない下の名前を、恍惚の表情で千秋と口ずさむ。ぱたりとトリの顔から汗が落ちた。それが丁度自分の目元に落ちたものだから、まるで自分が泣いているみたいだと一つ苦笑いを零した。本当は泣き出したい心持ちであるけれども、ここで涙を零しては水の泡だと自分に言い聞かせた。


トリが口にする名前と、心の中で呼ぶ名は同じものじゃない。


そう考えたら、もう嫌だと思った。堪えていたはずの涙が一筋、頬を流れた。慌てて取り繕うとしても、情事の最中のことだ。言い訳などをする必要もなく、きっとトリは勘違いしてくれることだろう。ああ、泣いてもいいのだと思えたら、次から次へと涙が溢れた。断続的に動き硬直して、直後に弛緩する。疲れたようにばたりと覆いかぶさるトリの体を抱きしめながら、もう一度言い聞かせる。これは単なる性欲処理の一つで、だからこの行為になんて意味はない。だってトリにはちゃんと好きな人がいる。それは、自分ではない。


トリにとっては、どうせ叶わない恋だったのだ。俺はそれを知っていたというだけで、慰めるという名目だけでこの関係を持ち出した。それが結局、自分の恋が永遠に実らないと教えてくれたのだから、皮肉なことだと思う。


もう嫌だ。こうやって愛の無いふりをするのは。


++告白++


運命を変える出会いというものは現実において漫画の様に劇的ではない。例えば少女がパンをかじりながら遅刻遅刻と言って走り、曲がり角を出た所で少年とぶつかって転んでしまう。双方の主張による口喧嘩のままに別れた第一印象は勿論最悪。けれどその少年が実は少女のクラスの転校生で、それをきっかけに少年と少女は恋に落ちていく。というのが少女漫画の代表的なセオリーであるが、まあ現実的にそんなことは絶対に有り得ない。まずこれは身を持って実験したことだが、パンを口に咥えながら走るというのは結構な高等技術だ。運動会のパン食い競争みたく丸いアンパンなら兎も角、四角のトーストは面積が多い分重力のバランスが難しい。しかも食べているうちに、大きさ的に到底口に入れることが出来なくなるわけであって、つまり食パンをかじりながら走ることは不可能である、とトリにまるで世紀の大発見をするかの如く伝えれば、当たり前だ馬鹿という一言が返ってきた。


まずそもそも転校生であるならば、普通は時間に余裕を持って学校に来て先生に挨拶やらをしているだろうし、だから遅刻ぎりぎりの少女とぶつかる可能性などほぼ有り得ない。と、理路整然と言いやがり、それがぐうの音も出ない正論だったものだから。今度実験する時には前もってトリに相談しようと誓った。まあ、彼自身はそれに渋い顔をしていたけれど、知ったことではない。


話は元に戻るが、運命の人に出会うという出来事の大抵は、平々凡々の日常の中で起こりうるということだ。有り得ない場所で奇跡にも似た比率で、なんていうのはいかにも現実的じゃない。この世界で結ばれた恋人というのは、おおよそ少女漫画では使えないような面白みのない状況で巡り合っている。それを素晴らしいと思い込むのは本人だけで、周りからしてみれば数ヵ月後には忘れてしまうようなつまらない話だ。


けれど第三者である自分が、より鮮明にその場面を覚えているとはおかしなもので。


時期はずれでもない、珍しくもない四月編入の転校生だった。自分の通う高校はいわゆるマンモス校と呼ばれる学び舎で、だから全校生徒の人数も軽く千を超えていたほどだ。そのうえ編入試験が甘いことも有名で、故にその近辺に親と一緒に引っ越してきた子供は大抵自分達の高校に編入してくる。それはオールシーズンに催されるものであり、大体は四月、夏休み明けの九月頃に編入してくるが、この学校ではそれが当たり前のことだった。


漫画を描く以外に記憶力がない自分は、だから同じ学年だとしても顔と名前が一致するのはごく希だ。流石にクラスメートの氏名程度は覚えるが、十を越えるクラスの生徒の全てなど覚えていられるはずもない。まあ、単に興味も無かったこともあるけれど。なのに、彼と初めて出会ったことだけは鮮明に覚えているのだ。もっと明確に言えば、彼自身に原因があった訳ではないのだが。


その転校生は、鈴木直生という名前だった。


親の事情で引越しが遅れ、新学期に少々遅れて先生に紹介された男の子の第一印象は、柔らかな人だなというものだった。亜麻色のふわふわとした薄い髪に、陶器のような白い肌。まるで何処かの西洋人形かと思えるような顔のパーツに、浮かべる日溜まりのような笑顔。それがあんまりにも可愛らしくて眩しくて、思わず息を止めて見とれてしまったものだ。けれどそういった状態になったのは、どうやら自分だけでは無かったらしい。


時期的にクラスの中ではもう既に友人グループが出来上がっていたはずなのに、彼はすんなりとその空気に溶け込んでしまった。この一言だけで大体の検討はつくだろう。その姿を見た誰しもが、彼の友人になりたがったから。


愛称はナオくん。男女問わず皆が皆彼をそのあだ名で呼んだ。そこに深い意味はたいして無い。全国で一番目か二番目位に多い“鈴木”という苗字が、このクラスには彼を除いて三人もいたから、区別するために下の名前を使うことになったというだけ。安直な割には中々に便利で、しかもクラス中がそういった名で呼ぶものだから、いつの間にか自分ですら本人の許可もなくナオくんと口にする有様だった。


けれどその時の自分と言えば、彼を少女漫画のヒロインに出来ないかな、と無粋なことを考えていた。少女のように中性的なその顔立ちが想像力を掻き立て、こんな感じの女の子がクラスに転入してきて、そこで運命の男子生徒に出会い恋が芽生える。男女の立ち位置が逆転しているだけの話だが、こちらの方がまだ新鮮だった。そんな理由故に、毎日毎日彼のことを目で追う生活が始まった。


友人達と会話をしては、けらけらと楽しそうに笑って。突拍子もないことが起きると、目を見開いて驚いて。例えばクラスメイトの中で怪我をした子がいれば、悲しそうに唇を歪めて。約束を破った友人には、率直に感情のままに怒って。くるくると表情が変わる子だった。それがまた一層ヒロインらしく思え、何故だかとても愛しかった。


最初は漫画の取材のような意識を持っていた自分も、観察しているうちにナオくんのことが大好きになってしまった。ナオくんにとって自分は一番の親友とは言えないが、それなりに仲の良い部類の友人に昇格した。互いの家に赴きそれぞれの部屋に入ったことだってある。


実は自分が漫画家を目指しているということもそこで彼に告白し、けれどそんな夢物語を笑うことはせずに「うわあ、凄いね。でもこんなに上手なんだから、きっとうまくいくよ」という言葉を彼はくれた。非常に分かりやすい社交辞令だけれど、でも彼がそう言ってくれるなら当たり前に叶うような気がして。純粋に嬉しかった。


「でも、僕がヒロインだったら相手はどうするの?やっぱり同じクラスの人?」


今まで彼を見るだけのことに夢中になって、相手役の存在を失念していたなんて勿論言えない。その日以降、気を取り直すようにクラス中の生徒を観察するようになった。ナオくんに相応しい相手役。けれど彼自身のレベルが相当高い為に、中々良い相手が見つからない。彼の隣にいても違和感を覚えることなく、対等な関係を結べる存在。そうして草の根を分けた探した結果、ようやく見つかったその男。その人物以上に相応しい相手なんてこれからも見つかりそうに無かった。


幼馴染の羽鳥。

クラスメートでもある奴とは、生まれた時からの付き合いだ。だらしない自分に何年も付き合ってきくれた面倒見の良い隣人。知識も素晴らしい上に、自分の目から見ても嫌味なくらい美形な男。しかも料理が滅法上手く、故に女子にも人気がある。それだけで男子の反感を買いそうだが、付け加えて人柄も良い為か妬み僻みの声を一切聞かない。流石に褒めすぎだとは思うが、事実なのだから仕方ない。今までずっと傍にいたからこそ分かる羽鳥芳雪という男の存在は、ナオくんの相手にはぴったりのようにその時は思えた。


そこからはナオくんと羽鳥の両人の観察が始まった。本来は羽鳥の観察から始めるのが筋だが、何年も見てきた人間だし今更意識を向ける気もない。それより、ナオくんとトリの距離が近くなった時が自分にとっての絶好のチャンスだった。


二人はどんな会話をするのだろう?その時の状況は?表情は?どんな体勢で?知りたかったのはそんなこと。なのにいつしか、自分が余計なことをしたせいで気づかなくていいことまで気づいてしまった。一人ではなく、二人だからこそ。


トリが、ふとした瞬間にナオくんのことを何とも言えぬ表情で見つめていたこと。


鈍感鈍感と言われて続けている自分だって流石に分かった。否、自分だからこそ知り得た。トリと十年以上付き合ってきたから理解出来た。トリが、誰かをあんな表情で追いかけたことは今まで一度たりとも無かったと。そして、自分が少女漫画なんかを描いていたせいでもあったのかもしれない。瞬間的に悟ってしまったのだ。


あの視線は、恋をする者のそれだ。




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