今の若者は知らないであろう、昔々の土曜日には会社も学校もあったということを。日曜日と等しく土曜日が休日になったのは割かし最近のことで、当時は花金という流行語が生まれたほどセンセーショナルなものだった。花金。つまり、花の金曜日。土日休みを控えての金曜日の夜に呑み歩く楽しさを表現した比喩表用語。該当日における心の浮き立ちは他の平日に比べれば歴然とした差だ。


その心持ちを理解しようも今は使われずに死んでしまった言葉。


けれどその年を生きた人間にとって、それらの単語は死語でも何でもない。意識的に使わないようにしているのは、年がばれるという恐怖よりも理解出来ない若者への配慮の為。例え口にする機会が無くなっても、考えることは昔も今もきっと一緒だと思うから。

従来なら飲み屋街に足を運んでいたはずだろう自分は、今夜は早く家に帰ろうという決意の元に帰路につく。こんなに楽しい夜に遊ばければつまらない?いやいや。幾多にも渡る恒常じみた時よりも、俺は今しか出来ないことを選んだというだけ。


だって今日は雪名が自分の部屋にやってくる。


恋人同士なら当たり前だろうことも、社会人と学生にとってはこんな時間が取れることはいたく貴重なことだ。しかも何と出血大サービスで、二人共明日も休日というおまけまでついてくる。これを喜ばずしてどうするのだ。嬉しさのあまり思わずスキップしてしまいそうな足に力を入れるも、無意識に溢れる微笑みが止まらない。…と、タイミングよく聞こえた携帯電話の着信音。案の定それは雪名からのメールだった。ほくほくと受信した文章を確認し、そこで今日初めて自らの表情を曇らせた。…すみません、という本文のタイトルが不吉すぎる。


sub:すみません 本文:バイト先で体調不良で欠勤した方がいるらしく、その穴埋めに急遽出勤することになりました。ですので、今晩部屋に行くのが遅くなります。なるべく早めにあがらせてもらえるように上司に交渉してみますが、木佐さんは疲れているでしょうから先に眠っていただいても構いません。今、出先なので仕事が終わり次第再度連絡します。今夜中には必ず行きます。


大方予想がついていたこととはいえ、こうやって事実として確定されてしまうのはそれなりに落ち込む。一人で時間を潰すことが不可能というわけではないけれど、今日こそは二人きりになれると無条件に喜んでいたから尚更。天国にも昇る勢いだったのに、直前で叩き落された気分だ。


まあ、それでも雪名が書いたであろう文面から見るに、会う機会そのものが消滅したわけではない。むしろドタキャンの常習犯である俺が、こんな時ばかり責められないよな、と一瞬でも不機嫌になってしまった自分を猛省する。仕事にかまけて逢瀬の時間すら取れなくなる俺を、雪名は「木佐さんは社会人ですものね」という一言で笑って許してしまう。どんだけ出来た彼氏よ、と思いつつも奴に甘えてばかりもいられない。了解、待っているという文字を打ち込んで、送信ボタンを押す。返す言葉はいつも短文で、長くはない代わりに色々と言いたいことが詰まってんだよ、と誰に対してでもない言い訳を零す。

一時期は中々会えないことを理由に別れようとしたこともあるが、今となっては笑い話。不安で仕方なかった自分もいつの間に大分神経が図太くなってしまった。少しの間顔が見れないことが何だというのだ。その程度のことで、あれ程の男を手放してしまうのは惜しい。呑気に天秤に測れるようになったのは図々しくなったのか。それでもこれが彼の言う“自信”なのか。


何にせよ予想外に時間が空いてしまった。雪名と会うという優先事項を理由になるべく予定を入れないようにしていたのだが、まさかこれが裏目に出るとは。今更家に帰り一人で過ごす気分でもない。俺は雪名がいずれやって来るであろう家だからこそ帰宅を急いでいたわけで。誰もいない部屋に帰るつまらなさといったら。侘しいというか寂しいというか。


だから部屋に着く前で良かったのかなと思い当たる。狭い空間に独りきりで待つよりは、外にいたほうが気が紛れる。この調子でいけば夕食を一緒にすることは出来ないだろうから、何処かで食べていくか。うーん、でもファミレスに男一人とかは切なすぎるよな、と今度はさもどうでもいいことで悩み始める。


一緒に飲みに行こうと誘ってくれた友人もいる。けれど断っておいて今更お願いしますとも言えない。友人は既に飲みに行く相手を見つけ出している可能性もあるし、運良く都合がついても雪名が帰るような時間帯に席を立つことはきっと難しいだろう。その他適当な知人も同じような理由で選択肢としては不可。…ついでに浮気の類はもっての他だ。恋人関係存続の危機に陥る。


後腐れなく、程よい所で切り上げ可能。一緒にいて楽しい一で、なるべく主導権がこちらにあると望ましい。そんな都合のいい相手はいないよなあ…と考えながら、夜の街の中を歩く。と、人ごみの中に見知った顔があったような気がした。道をすれ違いざまに抜けていった人影を視線で追えば、自分の目に狂いがなかったことが証明される。慌てて早足でその人物の背を追いかけて、届く声を投げた。律っちゃん、と。


自分の呼びかけに気づいたらしい彼は、振り向いて僅かに瞠目しながら「ああ、木佐さんこんばんは。偶然ですね」と答える。視線の先に見えたのは相変わらず皆の頬が緩んでしまうようなほがらかな笑顔だった。俺には負けるけど。お返しとばかりに良くない微笑みを浮かべてやれば、エメラルド編集部に馴染み危機的状況に鋭くなった彼は、それを察してか直ぐ様逃亡の体勢に入る。がしかし俺の方が一枚上手だった。がしりとその腕を掴んで逃さないようにと固定する。


「ねえ、律っちゃん。これから一緒に飲みに行かない?」
「え…、いや。木佐さんも仕事で疲れているでしょうし、そんなのご迷惑…」
「遠慮しなくて良いんだよ?律っちゃんに会社で迷惑かけられることなんていつものことだから!俺、そんなこと一々気にしてないからさ!ね、行こ?」


俺の反論に、律っちゃんはぐ、と押し黙った。流石律っちゃん。俺が何を言おうとしているかをすぐに察してくれたね。俺は賢い子が大好きだよ。


仕事で迷惑かけているお詫びに、酒に付き合え。端的に言えばこうだ。


少しだけですよと渋々了解した彼に笑いながらおっけー、と答えてやった。雪名が仕事を終えて家にやって来るまでの僅かな時間。どうやら無事に問題なく過ごせることが出来そうだ。


という訳で、本日の予定発見。


++Good Luck,Good Love++


経緯はともかく、仕舞いにああなってしまったのは一体何故だったのか。


有無を言わさぬように律ちゃんを引き連れ訪れたのは、大通りから僅かに離れた居酒屋だ。ビルの隙間に隠れるようにひっそりと佇むその店は、だから発見自体が酷く難しい。最初に入ったのは勿論友人に誘われたのが理由で、それまではものの見事に素通りしていたが、友人と一緒に訪れたのをきっかけに最終的には店の常連となってしまった。


「…何だかあまり居酒屋らしくない店ですね」
「でもメニューとかまんま居酒屋だよ?こういう雰囲気、律っちゃんは嫌い?」
「いえ、むしろこんな感じのお店は好きです」
「それは良かった」


店の中の作りは大方モノトーンで構成されている。暖色と白色の入り混じったライトが万篇もなく中を照らすも、そこに過剰な眩しさは感じられない。店を包む空気はどちらかといえば喫茶店に近いのだが、全面個室な辺り歴とした飲み屋だ。


従業員に案内された部屋に入ったところでようやく一息ついた。金曜日の夜だというのに、こんな素敵な店に良く入れたものだと後輩くんは純粋に感動しているらしい。しきりにきょろきょろと視線を動かしている。潜り込んだという表現はきっと正しくなく、だってこの店は会員のみの飲食を許しているからだ。一見さんお断り。慣れ親しんだ客だけを入店させるという形式。つまりは客を店側が選別していることに他ならないが、それを横暴とは指摘するのは間違いだろう。例えば客が女性だったとしたら、質の悪い酔っ払いに絡まれることなく楽しく過ごせるという保証を得たに近く、だから酒を提供する店にも関わらずこの上品さを保っているのだ。


清楚な空間を維持するに、つまり客側としても連れてくる人間を選定しなくてはならない。本人は嫌がっているが彼は一応は大手企業社長のご子息であり、時折見せる動作というものにも何処か品がある。だから大丈夫だろう、と判断した。思えば自分が誰かをこの店に連れてくること自体初めてで、まあ予想はつくだろう行きずりの男なんてもっての他だった。


適当な料理と、まずはビール。二人だけのささやかな飲み会の始まりだ。


酒と料理の品数は相当に準備されていて、その一つ一つが中々に美味だ。自分にとっては夕食代わりでもあるが、この美味しさなら余裕で腹に入る。ビールを飲みながら唐揚げを食べ、時折会話をする。それを何度か繰り返しているうちに、次第に律っちゃんの顔から険が取れていく。


「木佐さんとなら、一緒に飲んでも楽しいですね」
「酒は楽しく飲んでなんぼでしょ?暗い気持ちで飲む酒ほどまずいものはないんだから」
「ああ、確かにそうですね」
「律っちゃんは俺と逆っぽいよね。お酒を飲む時って、そんなに楽しくないの?」


切り返すように質問してみれば、律っちゃんは一瞬だけ困ったような表情を浮かべて言葉を濁す。


「楽しく飲みたいんですが、楽しく無くなると言いますか」
「何、律っちゃん一人酒でもしてんの?だからつまらないとか?」
「いえ、一緒に飲む相手はいるんです。でも何と言うかその相手が問題なんですよね。いつも最後には酔っ払って喧嘩になってしまって」


彼がぽろりと零したプライベートに、こちらの方が思わずどきりとしてしまった。同じ会社の人間でしかも自分の後輩であるとは言え、他人の個人的事情を追求する趣味は俺にはない。だから律っちゃんの日常とやらに地味に反応してしまったわけだが、それに突っ込むべきかどうかでしばし躊躇する。まあ、相手にもよるがそういった詮索をされることが苦手な人間だっているから。


今の台詞は軽く流した方がいいのかな。と考えつつも、決意するのに心が幾ばくか揺れてしまった。


彼の紡いだ言葉は、誰かに聞いて欲しくて敢えてという可能性もなくはない。そうやって判断に困りぐずぐずしているうちに、彼はメニューを持ちながら次は何を頼みますか?とのほほんと俺に尋ねてきた。どうやら今までの会話は強制的に終了してしまったようだ。タイミングを逃して失敗したのか、それとも逃げ道を与えられて助かったのか。


俺の気をよそに律っちゃんは楽しそうにぐいぐいと酒を仰いでいる。その光景を眺めながら、頭の中にふとある言葉が浮かんだ。えっと、誰が言ったんだっけ…。あ、そうだ高野さんだ。高野さんが律っちゃんは酒癖が悪いからあまり飲ませるなと忠告してくれたんだっけ。思い出しながら律っちゃんの姿を確認するに、ほろ酔い気分の笑顔がちらついているがそれくらいは余裕で許容範囲だ。大の大人だし、自分で飲める酒の量くらいはきっと把握しているだろう。それが甘い考えだったと知るのは、案の定律っちゃんが酒を飲みすぎてぐでんぐでんになってしまった頃合。危なくなったら止めなくてはと分かっていたはずなのに、俺もつくづく詰めが甘いなあと苦笑いを一つ。


「木佐さん、きいへますかー?!」
「はいはい、聞いてますよ」


律っちゃんは完全に出来上がって既に呂律が回っていない状態だ。にも関わらずまだアルコールを欲しがっていて、代わりにソフトドリンクを渡してやる。このお酒甘くておいひいれすね〜とにこにこ笑いながら伝えてくる律っちゃんに、そりゃあまあオレンジジュースだからねと内心で呟く。中和されて酔いが覚めてくれることを祈りつつ、誘った張本人は仕方なしに彼に絡まれてやる。


途中携帯を何度か確認した。雪名からの連絡は未だない。


「きさひゃん、きひゃひょうたひゃん」
「…律っちゃん…人の名前で遊ぶの止めてくれないかな?」


人が意識を反らしたのを俊敏に感じ取り、見計らったように彼は俺に絡んでくる。自分の方を見てくれたことが嬉しいのか、うひゃうひゃと楽しげに律っちゃんは笑っている。営業用スマイルは何度か見たことはあるけれど、そういやこんなふうに感情のままに笑う姿は初めてかも、と思った。いつもそうやって笑っていれば、律っちゃんも可愛いのにねと心の中で囁いて。


以前お花見を称した飲み会に参加した時、律っちゃんはこの姿を見せる前に高野さんによって回収されてしまった。けれど居座り続けなくて正解だったと思う。彼に絡まれるのは酷く面倒なことだけれど、今みたいにほにゃりと笑われると何もかもを許してしまいそうになってしまうから。これでは、傍にいて惚れるなと言われる方が無理な話だ。


突然ばたりと律っちゃんが机に突っ伏してしまった。とうとう寝てしまったかと顔を覗き込むと、どうやらそうではないらしい。確かに瞳はうつろなままだが、彼の唇はへらりと歪んだままだ。


「ねー、きさひゃん」
「はい?」
「きひゃひゃんは、好きな人っているんれふか?」


突然何だろうと驚きながら一瞬固まっていると、むくりと律っちゃんが勢いよく起き上がった。ごめんなひゃい、聞いちゃらめれしたよね、と慌てたように謝罪を始める彼に、どうしようかなと悩んだものの、結局は口を開くことにした。雪名の代わりとして律っちゃんをこの店に引きずり込んで酔わせたのは自分。その原因を彼に語るのはつまり礼儀というものだ。


「いるよ」
「ほんひょれすか?どんな人なんれしょう?」
「どんな人…うーん。俺よりは年下」
「きさひゃんより可愛いんれひょーか」
「可愛いっていうより格好良いかな。俺、実は面食いだし」
「そうなんれふか。意外れふ。きひゃひゃんが可愛いものが好きらから、可愛い人らと思いました」
「ああでも、可愛いところもあるな。普段会えなくてだから久し振りに会ったとき、子供みたいに喜んで抱きしめてくるし、所構わずキスしようとするし。たまにバイト先に寄った時に目が合うと、露骨に嬉しそうな顔もするから。そういうところまだまだ幼いんだけどさ。俺の為に料理を練習して作ってくれたり、仕事が忙しいことを理解して待っていてもくれるし、そういう所は俺よりも大人っぽいかなって」
「へぇ。きひゃひゃんはその人のこと、本当に好きなんれふねー」


彼の言葉にはたと気づいた。今自分が言ったのは、もしかするともしかしなくても惚気というものなのだろうか?無意識に口にした台詞だとはいえ、今頃じわじわと恥ずかしさがやってくる。今まで雪名との関係をひた隠しにしてきた反動か、ついぺらぺらと話してしまった。というか人前で本気で自分の恋話をしたのは実はこれが初めてで。酔っ払い相手なのでどうせ忘れてしまうことだろうけれど、何だか居た堪れない気分だ。


「律っちゃんはどうなのさ?」
「俺?」
「好きな人はいないの?」
「いまふよ」


意趣返しの意地悪だったのに即答かよ、と苦笑いしてしまった。彼は何故俺が笑っているのか理由が分からないらしく、きょとんと首を傾げている。人様の内部事情を探る趣味はないけれど、自ら明かしてしまった後はまた別の話。惚気けて恥ずかしい思いをするのが俺だけなのは不公平だ。


「あ、もしかしてあの子?律っちゃんに仕事中良く電話をかけてきた女の子」
「違いまふよ。あの子はただの幼馴染れす。付き合っていふのは別の人」
「え?律っちゃん今付き合ってる人いんの?」
「はひ。結構前から」
「へー、そうなんだ。うーん、じゃあ誰だろう…。とういうか、俺にその相手が分かるのかな?」
「きひゃひゃんも知っている人れすよ」
「もしかして同じ会社の人?」
「正解れふ」


職場恋愛とか意外と律っちゃんやるなとか考えながら、手当たり次第知っている女性陣の名前を挙げてみるも、どれもこれも不正解。男の名前ならともかく、興味の無い女の名前など覚えていられるはずもなくあっさりと降参する。自分の付き合っている相手を明かしていないのだから、当てられなかったということは諦めたということに等しい。まあ、それでも会話は続けることが出来る。


「何がきっかけで好きになったの?」
「…本棚の高い部分にある本を取ってくれたことれすかねー」
「律っちゃんよりも背が高いんだ?」
「高いれふよー」


その返答にどうしても胴の部分だけが長い女性の姿を想像してしまい、無意識に笑いがこみ上げてくる。律っちゃんの言葉尻を捉えて中途半端な妄想をするあたり、俺も割と酔っているのかもしれない。良く考えてみろ。頭の中で動く動物は、女という以前に人間じゃない。


「じゃー律っちゃんは、その人の何処が好きになったの?」
「………好き?」
「色々あるでしょう?優しい、とか明るくて傍にいるのが楽しい、とか。」


顔とか、顔とか、顔とか。口をついて出そうになって慌ててそれを堪える。


「良く、分かりません」


躊躇うように微笑んだ後、ちょっと悲しそうに律っちゃんは答えた。


「初めは俺から付き合ってくださいとお願いひて、後になってから逆にその人からお願いされまひた」
「ん?っていうことは付き合って別れて、またよりを戻したってこと?」
「はい」
「それってどれくらいの期間なの?」
「十年です」
「は?十年!?」


驚愕に目を見開く俺の前で、それでも彼はけろりとしたままだ。あっさりと当然の様に言い切った彼を見つめると、何か可笑しいことを言いました?と不思議そうな表情を浮かべる。十年という長い歳月をここまでライトに言い切った人間は初めてだった。ということはおそらく彼が高校生の時にその関係が生まれ、十年越しに純愛を貫いたということで間違いないのだろう。付き合って飽きたら別れるを繰り返した自分にとって、それはそれは途方もない年月だった。


会話をするうちに律っちゃんの言葉がいつものそれに戻ってきた。酔い醒ましにと自分の余った烏龍茶を差し出してそれを飲ませる。話をしている最中に何か思うことがあったらしく、律っちゃんは何も存在しない空を眺めながら、ふふ、と一人笑みを浮かべた。


「何度も忘れようとしたんですけど、でもやっぱり駄目でした。別れてから十年ぶりに再会して、けれど二度と好きにならないと決意したのに。結局なんだかんだあってまた好きになってしまって」
「てかさ、そんなに好きだったなら何で別れたの?」
「………すれ違いですね。十年前の俺は、あの人が好きで。それが自分の人生の全てで、だから誰よりも愛していたんです。けれどその相手はもしかしたら、俺のことを好きなんかじゃないかもと疑ってしまって。自分の想いを尽くしたのに、それが何一つ返ってこないと錯覚して。自分が愛してもらっていると信じることが出来なかったから。そうなってしまいました。…全部、俺のせいです」
「律っちゃんさ。別れるとき、辛くなかった?」


唐突な俺の質問に、刹那彼が体を強ばらせた。伏せた瞳が、心無しか揺れているように思えて。


「辛かったに決まってるじゃないですか。あの人が俺の世界の全てだったんですから。あんなに幸せだったのに、自分のことを少しでも好きでいてくれていると思っていたのに。それが全部偽物だって、俺の勘違いだって分かってしまって。毎日毎日思い出しては、泣いてばかりいました」
「……何だか変なこと聞いてごめんね」
「…いいんです。だって今更どうこう出来るものではないんですから。…でも、本当は怖いんですよ。またあの人を失うことがあるかもしれないと思うと。もう一度あの人と離れ離れになったら、俺はどうやって生きていけばいいのか分かりません。こんな爆弾を抱えるくらいなら付き合わない方が良いって分かってるんです。…でも、それでも。俺はあの人が好きなんです。俺は、あの人じゃなきゃ駄目なんです」


ふるふると俯いた律っちゃんが震え始めた。何事かと思い慌てて声をかければ、彼はぼろぼろと大粒の涙を零していて。


「俺、何で先輩のことを信じられなかったんだろう。本当に、好きだったのに。どうして自分が好きな人のことを、信じてやれなかったんだろう」


突然の泣き出した彼を驚き慰めようとするも、何と言えばいいのか上手く言葉が見つからずに結局は途方にくれたように静かに泣き続ける律っちゃんを見守るしかなかった。俺がどんな言葉を伝えても、それが何の役にも立たないように思えて。どうして、何でと掠れた声で呟きながら、彼はずっと涙を零し続け。ようやく落ち着いたと思う頃には、事切れたようにすやすやと眠っていた。


まずいことを聞いてしまったかなあ、と自身の行動を反省する。例えば、例えばの話だ。もし自分が雪名と別れることになってしまって、過去になったその出来事を誰かに掘り返されてしまったら。きっと傷つくなんて言葉では足りないくらいに、嘆き苦しむことだろう。ようやく治りかけた古傷を暴かれるのは、その傷を作ったときよりももっと痛いはずだ。自分が彼のそれを無理矢理こじあけてしまったのだ。その苦痛を想像しただけで泣きそうになって、ごめんねともう届きはしない謝罪を彼に繰り返す。


柔らかな髪に手を埋め込ませて梳き流す。薄く開いた唇から、“先輩”という声が聞こえた。それが彼の好きな人なんだなと、何となく分かってしまった。


先輩、先輩か。あのねえ、律っちゃん。俺は律っちゃんと比べて恋愛経験と呼べるものが本当に少なくて、その気持ちを全て理解出来るわけじゃないんだ。だから俺が感じる痛みとかは全部想像の域で、今から口にすることはその延長だと考えて欲しい。律っちゃんは、十年間その先輩のことが忘れられなかったんでしょう?そしてその先輩とやらも、結局は律っちゃんと同じ気持ちだったんだよね?それなら、


律っちゃんがその人を泣くほど好きだったなら、先輩だって泣くほど律っちゃんが好きだったと思うよ。律っちゃんのこと、ちゃんと心から愛していたと思うよ。




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