最近、嵯峨先輩の様子がちょっとおかしい。


普段から明るい性格というわけではなく、どちらかといえば先輩は寡黙な方だけれど。近頃拍車をかけたように先輩が自分一人で悩みを抱え込んでいるような気がする。俺と付き合うようになってから、自惚れかもしれないが少しだけ穏やかに笑うようになった彼は、だから暗い表情を浮かべる原因が自分にあるのではないかと不安になってしまう。


先輩、と声をかける。返事はしてくれないが、自分に向かって笑いかけてくれる。優しげに頭を撫でてくれる。だからその心配事は瞬時に消えてしまうわけだけれど、先輩の憂いが無くなったという訳でもない。


少しでも自分が先輩の力になれれば。そうやって躍起になって理由を探るものの、それらはちっとも見つからない。もしかすると昔うっすらと聞いた家族環境の問題かもしれない。だとすると自分のやっていることは、先輩自身の傷を掘り返すことになりはしないかと躊躇い、結局は先輩をただひたすらに見守るしかなくなる。


自身が告白する前にも、先輩は辛そうな表情をしていたと思うが、でも今はそれ以上だ。何が彼を苦しめるのかは全く分からないが、それでも苦しんでいる先輩の力になりたい。その想いだけは何一つ変わらなかった。


一緒に本屋に出かけて、俺のお勧めの本を渡して笑って。青空の下の公園で、二人で横になって寝息を立て。それでも先輩は何も言ってくれない。一言も話してくれない。けれど俺に向かって笑ってくれる。名前だけは聞こえないような微かな声で囁いてくれる。


なのに、先輩の瞳の奥は悲しさで揺れているのだ。


何故、そんな顔をするのだろう。どうしてそんなに泣きそうになっているのだろう。ぎゅう、と先輩の体にしがみつき、そっとその髪を撫でる。母親を見失った子供のような彼を慈しむように、俺がいますから、と自分は告げてやるのだ。


先輩が寂しくないように、ずっと一緒にいます、と。

「………律」
「…はい」
「好きだ」


思えば先輩から自分のことを好きだと言われたのはその時が初めてで、だから嬉しさと混乱の余りにその後の記憶が一切無い。けれど学校で先輩の姿を見かける度にその出来事を
思い出し、目が合えば恥ずかしさのあまりに顔を逸らしてしまう。ちらりと横目で流し見れば、先輩は何とも言えない表情で唇を歪めている。


もしかして精神的な問題ではなくて、本当に何かの病気なのかもしれない。


色々悩んで薬局に行って手当たり次第薬を買い、その足で近くのスーパーにも足を向ける。疲れている時は消化に良いものをということを聞いたことがあるが、自分にその料理を作れる腕はない。出来合いで申し訳ないが、レトルトのおかゆを籠に入れ、最後には林檎を数個。風邪を引いた日に、母が良く擦りおろしたそれらを食べさせてくれたことを思い出したからだ。


連絡もそこそこに先輩の家へと押しかけ、驚いた顔を浮かべた彼はそれでも玄関の扉を開けて俺を出迎えてくれる。先輩の部屋の中で、慣れない手つきで林檎の皮を剥く。若干厚いようだが気にはしない。指を切りかけて、それでも何とか擦りおろした林檎が出来上がった。


ああ、これで先輩が少しでも元気になってくれたなら。


「はい、先輩。出来ました。食べてみてください」


差し出した器を先輩が受け取る。


「もう良いよ、律」


匙で白い渦を作りながら、悲しそうに先輩が俺の方を向く。どうして。どうして先輩は俺にそんな表情を見せるのだろう。やっぱり、俺では先輩を元気にすることが出来ないのかな。何も出来ないのかな。悔しくて唇を噛みながら、それでも先輩にぎこちなく笑って見せる。


「もう良いから」
「………先輩?」


「消えて」


先輩の台詞を聞いた途端、全身の血の気が引いた。あれ?何で俺、こんなにも先輩の言葉が怖いんだろう。拒絶の言葉を聞いたのはこれが初めてではなくて、なのに足元からがらがらと世界が崩れ去る音を確かに聞く。いくら酷いことを言われようとそれは自分がうっとうしいからで。それでも体中に増殖する鳥肌が止まらない。


違和感を覚えて自分の手を見やる。声が出ないくらいに驚いた。だって自分の掌の奥に先輩の姿が透けて見えたのだから。透明になっていく自分の体に、ああ、何だ、そうだったのかと哂ってしまった。


自分は、先輩が作り上げた幻なのだ。


本来の俺は先輩に一言もなくその姿を消して、その隙間を埋める為だけに彼によって作られたのがこの存在。だから皆が居る前では一事も口を聞いてくれないし、二人きりでないと囁いてもくれない。俺の姿を見ることが出来るのは、創造主の先輩だけ。本屋でそれらを購入したのは先輩ただ一人で、公園での告白も単なる一人芝居。


そうやって貴方は、私がいない寂しさを私で代わりにしたのね。


掌をきっかけにぼろぼろとその姿は形を失っていく。象られた幻は、作り上げた本人がその存在を否定すれば後は消滅するしかない。消えるしかない。


ああ、なんて酷い人。例え自分が先輩の作り上げた幻だとしても、彼への想いは確かに本物だった。少しでも彼に笑って欲しかった。好きだと言ってくれて嬉しかった。でも、それすら先輩は幻想だというのですね。次から次へと溢れる涙も、先輩にとっては只の夢のようなものなのですね。こんなにも。こんなにも、俺は貴方が好きなのに。


考えてもみてください。先輩が作り上げた俺は、紛れもない俺自身で。だから本当にこの世界に実体として存在する本体も、先輩が大好きなら。愛していたのなら、こうやって後生別れてしまうことに、傷つかないわけないでしょう?苦しまないはずないでしょう?この世界の何処かできっともう一人の自分も、胸を押し潰されながら同じように泣いている。


どうか、それに気づいてください。傷ついたのは貴方だけじゃない。


声は音にならずに、彼にしか見えない幻は泡沫の様に光に溶けた。


残されたナイフには、溢れ落ちた二つの水滴。




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