一冊のみすぼらしい本がありました。表紙は今にも擦り切れてしまいそうなほどぼろぼろで、中に書かれた文字のインクも雨に濡れてしまったせいか、それを読むことは出来ませんでした。
読めない本なんて誰も手に取る者はいません。みんなみんな、嫌そうな表情を浮かべてその本が自分の手に渡ることを拒否していました。
見るに見かねた神様が、ある少年にその本を手渡しました。どうか、この本を読んでほしいと、切実に願いながら。本が大好きだった少年は、神様の言葉に「はい」と快く返事をしました。
ぱらぱらとページを捲っては、滲むインクを目で追って。ぽろぽろと零れる紙を拾い集めては、文字を繋いで。少年は、頑張りました。その本を読もうと懸命でした。いつか、どれくらいどんなに時間がかかったとしても、自分にはその本が読めるのだ、理解出来るのだと、そう信じては疑いませんでした。
けれど、ある日突然気づいてしまったのです。この本は、読めないのではなく、読ませないようにしているのだと。拒絶していたのは人ではなく、この本が触れようとした人間を避けていたのだと。
この本を、自分の宝物にしたかったのです。けれど、この本にとって私は宝物ではありませんでした。
この本を、救いたいと思っていました。でも、この本は私の救いなど必要としていなかったのですね。
悲しげに言い残して、少年はその本を置き去りにして姿を消してしまいました。
神様がその本を手にとると、本は違うのです、と言いました。私は、あの少年が好きでした。一生懸命に私の記憶を捲っては私を理解しようとしてくれて。そんなふうに愛してくれるあの少年が好きでした。
神様は尋ねました。
それならば、何故それをあの少年に伝えなかった?
―出来ません。私にはそれを伝えるすべがありませんでした。
だったら、お前のその白い紙と黒い文字は一体何の為にあるのか?
そう指摘され、本ははた、と気づきました。少年が本を理解しようとし、進めた頁はもう元に戻せないとしても。それでも、自分がいつだって、その文字を掻き集めて、それを少年に伝えることができたことを。
―お願いです。もう一度あの少年に会わせてください。
本は希いました。けれど神様は首を振りました。それは約束出来ない、と。悲しさで泣き出しそうになる本に、神様はまた告げました。再会できると約束できないように、お前達が絶対に再会しない、と約束も出来ないと。おそらくそれは神様の最後の慈悲。
なら、信じます、と本は言いました。また少年が私を手に取るその日を、待ちます。
少年が読み進めた本の頁はまだ半分。そして、残りの半分に、本は祈りをこめて記しました。
あなたを愛しています。
残された本は、だから心を決めました。あの少年にまた出会えるまで。
たった十年、待つことを。
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89、泡(字書きさんに100のお題)
泡→掬えない→救えない
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