後編R指定ご注意


それはまるで逃げ水のように姿を現し、そしてこの手をすりぬけていくのだ。


不可解な現象に気づいたのはつい最近の出来事で、日中たまに意識を失うのは疲れているせいだと思い込んでいた。編集部にて連続徹夜業務を続ける頃に、決まったように昔の夢を見るのはいつものこと。それが昼夜問わず現れるようになった。端的に説明すればその言葉一つで、実は最近の悩みの種でもあった。


はっと意識を失ったかと思えば、昔の世界にトリップしている。普通の夢とは違って、自分は当事者ではなく第三者として、その場面を眺めているという感覚だ。目の前に広がる巨大なスクリーンは自分をも包み、あたかも幻想の世界に自らを存在するように見せる。映し出されるのは、俺とあの人の懐かしい過去。


強い光の下、晒した白い紙はその身が焦げるのを嫌ってぱらぱらと自身を巡らせていく。半袖姿の幼い自分が、部屋の隅へと向かって換気しようと窓を開ける。心地よい空気が流れるのを感じた瞬間、驚くほど近くにいた先輩の姿に呼吸を止め。近づく顔にゆっくりと目を閉じながら、俺は密かに唇を震わせるのだ。


音はいつも聞こえない。けれどその声が届いたはずの先輩は、愛しそうに昔の俺の顔を見て微笑む。俺も同じ、というかすかな台詞を耳にし、夢はいつもそこで途切れる。


うつろな瞳のまま遠くを見つめて、考えるのは途切れた幻のこと。あの人を喜ばせたはずの言葉。


私は、一体何と言った?


+++夏の光+++


空は、どうして青いのでしょう。


海は、どうして青いのでしょう。


症状は時を経るほど悪化しているようで、さすがの自分も大きな病気を疑った。以前は数日に一回という程度だったにも関わらず、最近はほぼ毎日だ。夢遊病かな?と考えるも、その病気は普通眠っている時に無意識に起きて徘徊するというものであり、俺の症状とは正反対だ。起きているにも関わらず白昼夢を見る。それは多くの人間が経験することであって、俺に限ったことでもない。ただ頻度が大きく異なるということだけで。しかも厄介なことに、そうやって自分が意識をしている間もきちんと仕事をしているから始末に負えない。精神だけが何処かにいっている間も他の同僚と会話も出来るし、しかも俺がそうなっていることを知っているかのようにメモまで残している。目を覚ましていたら会議が済んでいたり、書かなくてはならない企画書が出来ていたりと、まるで靴屋の小人だ。


自覚症状があるのに、他人にはそう見えないというのも問題だ。これではたとえ病院に行ったとしても、それを医者に理解してもらえないという可能性があるのだ。随分と悩んだが、とりあえずこの問題はそのまま保留にしておく。今のところ実生活に悪い影響を及ぼす可能性は少ないし。悩みを先送りしている感覚はあったけれど、その一方でこれは病院に行けば治るという問題ではないのかも、と薄々感づいていたから。


その不思議な病と付き合うこと数日。再度夢の中から舞い戻り、はあ、っと息をつきながら意識を取り戻した自分の状況を確認して驚いた。全く見慣れない場所を歩いていて、え、何?と動揺しながら首をきょろきょろと動かす。と、隣から寝ぼけてんのか?という誰かの声が耳に届いた。


「た、高野さん?何でこんなところにいるんですか?」
「お前と一緒に来たんだろ」
「はあ?つーか、ここ何処ですか!?」
「海」
「そんなの見れば分かりますよ。だからそうじゃなくて、何で…」
「お前が俺と一緒に海に行きたいって言ったからだろ」


言い返そうとして口を噤んだ。ちょっ、ちょっと待て、待ってくれ。そういえば先日の夢の中で、俺は昔の高野さんと一緒に海に行く約束をしていなかったか?思いついて、どばどばと嫌な汗が体を流れていく。だから過去の自分の嵯峨先輩と一緒に海に行きたいという感情が伝染して、もしかして無意識のうちに現実の世界で口走ったのかもしれない。おかしいとは思っていたのだ。昨日自分の部屋に大きな鞄が用意されていて、でもそれに関しての記憶が全く無くて。出張かなんかあったっけ?と考えてメモを探してでも見つからなくて。まあ、そのうち分かるだろーと安易に放置していたことを今更後悔する。


「どうでもいいけど、あっちに店あるから一緒にかき氷でも食べよう」
「すみません、今まで俺達は何をしていたんですか?」
「は?」
「いや、ちょっと最近物忘れが激しくて」
「………さっき泊まる宿にチェックインして荷物置いて、ちょうど今出てきたところ」
「あ、ああ。そうなんですか」
「かき氷。俺はいちごにするけど、お前は何にするの?」
「あ。じゃあ、ブルーハワイで」
「邪道だな」
「ほっといてくださいよ」


行く直前だったらまだしも、目的地到着してしまったものは仕方ない。意識があってもなくても結局無理矢理に連行されたと思うし。慰めの言葉は自分を更に落ち込ませたけれど、本気で相手にしていると疲れるからもういいや。投げやりの息一つ。


どうやらここは海に近い観光地のようだ。ぽつほつと市場で見かけるような屋台の店が新鮮な海の幸を焼き、その匂いが随分香ばしい。八百屋をもう少し奥深くまで広げた空間内には、これまた漁師がその海で獲ってきたであろう魚類。見るからにぷりぷりとして美味しそうだ。お土産に買っていこうかな。あーでも、自分でさばけないからなあ…。高野さんは簡単にやってのけてしまうそうだけど。


ふらふらと店内をうろついていると、店の外で高野さんがこちらに視線を投げかける。両手には赤と青の小さな雪山が。嬉々としてそれを受け取り、偶然に空いていた白のベンチに二人で座る。


太陽の光がぎらぎらと輝き、自分たちの影が一層濃くなる。にも関わらず掬い上げた匙で雪の砂を口に放り込めば、背筋にすうっと冷たい風が走る。きーんと頭が痛くなって、それに一人笑えば、高野さんも微笑む。その表情に一瞬見蕩れ、ぱっと顔をそらす。体温が急上昇するのは暑いからであって、この人のせいではないと自分自身に言い訳する。


なんだろうね、この関係は。


高野さんのことを好きだということは自覚している。けれどその最初の一歩がいつも踏み出せない。今までに何度かそれを見透かされ、告白するように迫られたこともある。でも、喉まで出かかっておいて、それでも声に出来ないのだ。まるで何かにそれを押し止められているように、せり上がる言葉が石になって胃袋の中に落ちてしまう。そして体の奥底に留まった石はごろごろと転がり続けているのだ。


ぼんやりと考えている内に、また自分の精神が別世界へとトリップしてしまう。気づいた頃には持っていたかき氷は空になっていたので、俺一口しか食べてないのに、と涙目になる。それでも口内はひんやり冷えているので、多分俺が全部食べたんだろうな。悲しくなって落ち込んでいるところを、高野さんに引き上げられる。ほら、さっさと海に行くぞと。


太陽は空に高く上り詰め、照りつける光が眩しい。砂の中にその熱は吸収されて、まるで焼いた鉄板の上にいるみたいだ。高野さんが連れてきた場所は穴場なのか、水着姿で海を泳ぐ人もテレビで見るよりは少ない。潮風の匂いを感じながら、前を進む高野さんの姿を追いかける。


「泳がないんですか?」
「泳ぎてーの?」
「俺、水着なんて持ってませんよ」
「何、俺なら持ってそうとか思ってんの?」


歩く速度を落とした高野さんは俺の隣に陣取り、この灼熱の地獄の中手を繋ぎやがる。暑いからやめてください、と腕をぶんぶんと降ってみるも、高野さんは笑いながら嫌だという台詞を繰り返すだけ。


「あとでアイス買ってやるから我慢しろよ」
「さっきかき氷食べたばっかでしょう?」
「じゃー西瓜でも」
「なんで食べ物ばっかなんですか」
「俺が手を繋ぎたいの。駄目?」


最後の言葉でとどめを刺された。思わず瞠目して高野さんの顔を見つめれば、いつも通りの穏やかな顔だ。あーあ、もう、とぶつぶつ愚痴を言いつつ、その指をやんわり握り返してやる。小さく笑う声が聞こえたけれど、無視だ無視。


高野さんの視線から逃れるように、青い青い海を眺める。白い飛沫をあげながら寄せくる波の上には、同じく晴れ渡る青空。その美しい光景に思わず呼吸が止まる。地平線を境界にして、お互いが鏡で写しあっているようだった。


空は、どうして青いのでしょう。


海は、どうして青いのでしょう。


妙におかしなフレーズが頭の中をかすったと思いきや、気づけばまたあの白夢の中だ。図書館に浮遊する独特の匂いがつん、と鼻にくる。あの二人は?と室内を捜索すると、白いカーテンが影になって見えなくなっていただけだった。


何度か経験していることなので分かることだが、どうやら相手から自分の姿は見えていないらしい。構築された幻想は、光のように手に触れることすら出来ないから。


それでもこっそりと彼らの背後に回ってみればこれだ。先輩は昔の俺を後ろから抱き込んでいた。当然のようにあわあわと動揺する自分。こんなことくらいで恥ずかしがるなよな、と思いつつも、今の高野さんにされても同じような状態に自分はなっているわけで。そういう部分は全然成長していないんだな、と苦笑いを浮かべる。


空は、どうして青いのでしょう。


海は、どうして青いのでしょう。


口ずさんだのは昔の俺で、はにかみながら昔読んだ絵本に載っていたんですと語る。ああ、そうか。良く読んでいた本だったから、その強烈な文を今頃思い出してしまったのか。過去の自分にそれを教えてもらう。


「嵯峨先輩は、空と海はどうして青いと思いますか?」
「確か、太陽の…」
「絵本のお話ですよ?そんな科学的なことを子供が分かると思いますか?」
「………分からない。降参」
「随分早いですね」
「負け戦に時間を割かない主義なの、俺は」


最初に吹き出して笑ったのは俺の方で、それにつられるように先輩も笑みを浮かべる。何というかこういった二人の姿を見ると、何故か強烈な痛みが胸にくる。それは郷愁か、切なさか、或いは後悔か。おそらくはどれも全て。

「もともとは空の色が最初で、それを海に分け与えたというお話でした。空と海は何処か遠くで繋がっていて、そこから空の青を海に流し込んだと」
「それなら何で、空は色は無くさない?」
「繋がった場所から海はそれを返しているんだそうですよ?本の中のお話ですけれど、何だか素敵ですよね」


微笑む過去の自分を先輩が更にぎゅう、と抱きしめる。苦しいです、と本音を漏らす自分は、緩めた彼の腕からそれでも逃げようとはしない。くすりと一つ笑ってみせ、俺は逃げたりしませんよと口をすぼめて言う。


黙ったままの先輩を背におって、空に向かって掌を掲げる。薄い皮膚が透けて見える。ああ、何て綺麗な青空。海に流れ出る青。どうせ同じ色になるならば、いっそのこと。空も海も。


幼い自分が口を開いた途端途切れる夢。気づけば旅館らしい場所で、二人夕食をとっている最中。良かった、今度は食いっぱぐれなくて、ともそもそと箸を進める。


よくよく見てみれば、そこは旅館というような豪華な所ではなく、古民家を客先用に改築したような建物だった。部屋は二人にしては広すぎるくらいで、年季の入った家の梁が目に入る。そういえば出てきた料理もどちらかと言えば家庭料理のようだったし。と考えていると部屋の大きな麩が開かれて、その奥には小奇麗に着飾った女性の姿が見えた。


「お久しぶりです、高野さん。お元気でいらっしゃいましたか?」
「ええ、それなりに。この度はお招きいただいてありがとうございます」
「外出していたのでお構い出来ずに申し訳ありません。どうぞ羽を伸ばしてくださいね」


二人の会話を聞くに、どうやら知り合いのようだ。もしかするとここはこの女性が経営する宿なのだろうか、と思いつつも、でも自分よりもずっと若い女性であったためその考えを振り切る。きっと両親が経営しているとかで…、でもそれなら尚更、何故高野さんがここに呼ばれる理由が分からない。


取り留めのない会話に、笑う二人の姿がちくりと胸に刺さる。


ああ、嫌だ。これだから高野さんと一緒にいるのは嫌なんだ。愚痴愚痴と心の中で文句を言いつつも、胸が焦げる音を頭の奥で俺は確かに聞いたのだ。


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