向日葵が溢れる一枚の絵葉書が届いた。


知る人ぞ知る白い蕎麦というものがこの世には存在する。普通蕎麦と言われて思い浮かべるのは灰色のそれだが、実はあの色は蕎麦の殻から生み出されている。種のようなその表面を丹念に剃りはがし、現れるのが純白の実。執拗に捏ね繰り返して伸ばして広げ、均等に切り分けて出来上がる白糸の麺。これが、かの有名な更科蕎麦だ。普通の蕎麦より若干値が張るが、風味が格段に異なる。


子供の頃両親に良く連れられて行ったのは、老舗の蕎麦屋だった。七月頃にその店で白蕎麦を食すのが毎年の恒例事項で、これを食べなければ夏が始まるという感覚がしなかった。親は自分が生まれる前からの常連だったらしく、顔を出す度に店のご婦人が、あら、小野寺の坊ちゃん大きくなって…と言い俺の頭をよく撫でていたものだ。坊ちゃん、という呼称に違和感とくすぐったさを感じながら、けれど触れられるのは一度たりとも嫌ではなかった。年に相応しくない、皺だらけの手。この手からあの素晴らしい食べ物が生み出されているのかと思えば、むしろ触ってもらえるのが光栄なことのように思えた。


忙しさに追われ、店に足を運ばなくなってからもう何年も経つ。そんなある日、実家にその蕎麦屋から俺宛に絵葉書が届いたという。受け取ってみれば、文字はなくただ一面に咲く向日葵が映されているだけ。それだけなのに壮絶な郷愁感を誘い、ああ、久し振りに出かけてみようかな、と心惹かれたのは店による策略が成功した証でもあるのだろう。


とまあそういったことを編集部内で休憩中に話していたのを、ばっちりがっつり高野さんに聞かれていたらしい。休みの朝っぱらから電話が鳴り響いたと思えば、ガンガンと玄関の扉を叩く音。き、近所迷惑なんですけど…と文句を言えば、今日はデートだろというお約束の台詞。以前と違って着替えを待ってくれていただけ有難い…とか考えている当たりで高野さんの思う壺だ。


「あら、小野寺の坊ちゃん。お久しぶりです」
「どうもご無沙汰しております」
「一緒の方はご友人?」
「………会社の上司です」
「あら、それはそれは。遠いところわざわざお越しいただいて、ありがとうございます。どうぞごゆっくりくださいね」


古い蔵のような建物の中に押されるように足を入れた。昼の混雑時を避けた為か、思ったほど客の数は多くない。奥の空いている一席に二人で腰を下ろす。さっさと食べて、さっさと帰るぞ。そんな心持ちでお品書きに目を通していると、高野さんの視線が何処か遠くに投げ出されていることに気づいた。何がそんなに気になるんだ?と視線を追ってみれば、店の出入口の陰となる部分に一本の竹が飾られていた。


「ほら、今日は七夕でしょう?」


盆にお冷を載せながら婦人が言う。掛けてあったカレンダーを見れば、なるほど今日は七月七日だった。


「でも、どうして飾られているのが短冊はなくて糸なんです?」


高野さんが興味を惹かれたのはそこだった。凛として佇む竹の葉には、高野さんの言葉通りに無数の糸らしきものが結ばれている。後で紙を足そうも、糸は一寸程ありそれではいくらなんでも長すぎる。店の真意を訪ねようと、視線を竹から外して婦人へと移した。古い木のテーブルの上でグラスの水面が揺れる。放たれた窓から冷たい空気が髪を梳いていった。


「昔はね、短冊ではなく布切れを笹の葉に吊るしていたらしいのよ」
「布、ですか?」
「五色の布、というんでしたっけ?元々この時期になるとその布を結ぶ習慣が七夕の由来で。それが今の短冊になったというようなお話を何処かで耳にしました。布よりも紙の方が作りやすいし簡単ですものね。けれどうちの店ではもっと過去に返って、布より以前の糸を飾ってみましたの」
「白い糸ばかりだから、てっきり蕎麦の宣伝かと思いました」
「ちょっ、高野さん!」
「坊ちゃんの上司さんは洞察力が素晴らしいですね。お見事です」


後方でごめんくださーいという声が聞こえた。後から来た客に振り向き、はーい、今行きますので少々お待ちを、と婦人が言う。メニューは悩む暇なく白蕎麦二丁。本当は知ってたんじゃないですか?と頬を膨らませながら高野さんに聞けば、単なる感だと涼しい顔で返される。俺の方が常連なのに…気づいたのも察したのも高野さんというのが納得いかない。


建物の中は冷房もないのに涼しげだった。外はじりじりと温度を上げていっているのにもかかわらず、風通しいいせいか暑さは感じない。しばらして板の上に平たく並べられた白蕎麦が現れた。相変わらずに美しい色。


箸で白い蕎麦を抜き取り、それをつゆの中へ。僅かに紫色に染められたそれを口に運び一気に吸い込む。途端広がる風味と味。ああ美味しい!高野さんに誘われた時点で今日という日はろくでもない一日になることは覚悟していたから。予想せずに手にした幸運をじっくりと噛み締める。どうせ今から不幸の連続だもの。これくらいの幸せがあっても罰は当たらない。


ずずりと蕎麦を夢中になって啜っていたところ、店のご婦人が静かに自分たちの場所へやってきた。これをよろしければという言葉と一緒に白い糸が二本手渡される。短冊の変わりですがこれに願いを込めてどうぞ飾ってくださいな、と。


「糸に願うって斬新ですね」
「まー、いいんじゃねえの。こういうのも趣があって」


何故捧げるのが布でなくてはならなかったか。その起源を指先で糸をいじりながら悶々と考えてみる。かぐや姫にもあるように竹というものは昔から神聖なもので、神を迎えるための必需品であったことは知っている。では、七夕にてその神にあたるものとは何だと悩んですぐ、彦星と織姫だという結論に至る。ここまでの仮定は考えを進めるうえで一旦確定してみよう。

現代人は短冊に自分の願いを書き記し、それを飾ることによって彦星と織姫が叶えてくれるものだと信じている。彼らにしてみれば見ず知らずの人間の願いを無理に抱え込むことになり、それはオーバーワークというものだ。ただでさえ一年で唯一の日の為に懸命に働き続けた二人だというのに。これ以上第三者がその仕事を増やしてどうするのだ。自分達の願いを二人に叶えて貰うのではなく、むしろ二人の願いを私達が叶えてやらねばならないのではないか。その思考に到達して、あ、と思った。


もしかすると布を飾るという由来はそこにあったのかもしれない。こうは考えられないだろうか。織姫が一年かけて織る布は、十五光年離れた彦星へと架ける橋なのだと。織姫と彦星は互いにその布を辿って再会の時を迎える。丹念に結ばれた糸は、願いの元に橋になる。私達の願いは吊るされた糸に織り込まれ、きっとその橋の一部となるのだ。全ての願いは彼らの逢瀬を実現するために。その奇跡を叶える為に。


願うことで、誰かの願いが叶うことを信じて。


先に白い糸を結んだのは高野さんで、その表情は優しげだった。散々悩んだ挙句に仕事が上手くいきますようにと割と無難な願いに決めて。俺の心を読んだように、高野さんがふと笑った。何で笑うんですかと文句を言えば、高野さんは更に噴き出して。結局つられるように二人で笑いこけてしまった。


高野さんと別れてからの十年は長くてただただ苦しいばかりで、けれど再会してからの一年はあっという間だった。傍に共にあることの幸せを知り、すれ違う恐怖に実は今も少し怯えている。けれど、だからこそこれからは高野さんとずっとずっと一緒にいたいと強く思えるのだ。故に祈る。


どうか少しでも、彼らが一緒に過ごす時間が一瞬でも長くなりますように。


二人でいる幸せを。彦星と織姫にも。


糸は既に使い切っていて、だから代わりに二人の小指を結ぶ赤い糸とやらを献上することにした。一人で勝手に決めたって大丈夫。知っているから。ね、高野さん。


どうせ一生離れない。



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