恋というものは、こうも人の視界を狭めるものなのか。
大きく嘆息したいのをこらえて、眉間の皺をのばすよう努める。先ほど壁に掛かった時計を確認するため顔を上げた羽鳥だったが、すぐに目を背ける羽目になった。
古びた…正しくは現在進行形で着々と古びている、大学のサークル棟の一角。読書愛好会の部室の真ん中にのテーブル、羽鳥の向かいに座っているのは嵯峨と小野寺だ。
読書愛好会――読んで字のごとく、読書を愛好する物達の集まり。活動内容は、ただ本を読む、それだけが主のサークルだ。…だから小野寺と嵯峨の二人も、先ほどまでは羽鳥と同じく本に目を落としていた筈だった。
なのに、いつの間にか二人は本の中の一人きりの世界から飛び出し、二人きりの世界へと入り込んでいるではないか。頬杖をついた嵯峨が、隣に座る小野寺の大きな碧の瞳をじっと見つめる。小野寺は、嵯峨の視線におずおずと、だが真っ直ぐに向き合う。窓から差すひだまりに微かに透けた産毛と、照れてじわじわと染まる色で、彼の頬はまるで桃のよう。それに嵯峨は口角を上げて、小野寺はもじもじと身をよじる。
目に入っているのはお互いのみ。ああ、二人とも、手元の本などとっくに見ちゃいない。

(………俺は普通にここで本を読んでいただけなのに、何故いつの間にか邪魔者になっているんだ……)

頭を抱えたくなったのをまた堪えて、自分の本に意識を集中させる。だが、否が応でも視界の端に映るのは、目の前に座る別世界の二人。
嵯峨と小野寺が幸せならば、それでいい。奇特なサークルに入ってくれた、数少ない後輩。可愛くない訳がないし、ましてや彼らの幸せを咎めるつもりも更々ない。
…ただ、二人の幸せの弊害がこうして唐突に降りかかるのには、正直なところ困っていた。嵯峨はクールな外見とは裏腹に情熱的な一面を持っていたようで、めでたく小野寺と想いを通わせてから、今日のようなことはしょっちゅうだった。
流石に人目をはばからずに愛を語ったりだとかは、思慮深い嵯峨はしない。だが、目で語る、態度で語る。小野寺は、見えない耳を立てて尻尾でも振るかのように、いつでも嬉しそうにそれに応える。
春の花が咲くような穏やかで温かい光景、はたから見れば仲睦まじい様子。しかし本人たちに自覚はなく、ふわふわと幸福の綿毛を撒き散らす…所謂バカップルである。初々しい雰囲気がまたいたたまれなくて、自分一人で座り続けるのは居心地が悪過ぎる。

―――もう、帰ってしまおうか。

羽鳥がそう思って立ち上がりかけたとき、突然の突風のように勢い良くドアが開いた。

「やー、講義が長引いて遅くなっちゃったよ。羽鳥も嵯峨くんも律っちゃんももう揃ってるし、あと来てないのは美濃だけか。あれっ、羽鳥、その本って前に欲しいって言ってたやつ?悩んでたけど結局買ったんだ。俺はもう読んだことあるんだけど、面白かったよな、その本。最後のトリックが凄くてさ、まさか最後の最後であんなどんでん返しが……あ、ごめん、まだ読み終わってない?ネタバレだった?」

ペラペラと喋る木佐の登場に、小野寺がサッと俯く。小さな体と対象にどかりと大きな所作で、木佐は羽鳥の隣に腰かける。
本を抱えた嵯峨が、すっと立ち上がった。
「俺、今読んでる本読み終わっちゃったんで、図書館に行ってきます」
「んっ、そう?じゃあ、いってらっしゃい」
…やっと世界は自分達だけのものではないと気付いたのだろうか、本当にただ新しい本を取りにいきたいだけなのか。軽く会釈して、嵯峨はさっさと出口に向かう。
ひらひらと振った木佐の手の向こうで、小野寺も立ち上がった。
「あっ、俺も行きます!」
嵯峨を追いかける小野寺に、何だかカルガモの親子を彷彿とさせられる。
静かにドアが閉まった後、パタパタとした足音が聞こえなくなってから、木佐がにやりと笑った。
「災難だったな、羽鳥」
「……災難と言うのはどうかと。二人とも悪気はない訳ですし」
「だからこそ、厄介な災難なんじゃないか。…俺も最近似たようなことがあったって話しただろ。とにかく居心地が悪いよなあ、あれは」
木佐の言い草に、もはや苦笑を浮かべるしか出来ない。そんな羽鳥を見た木佐は、そういえばさ、と切り出した。
「因みに羽鳥はさ、幼馴染ちゃんとはどこまでいったの?」
「………………」
どういう流れでそういう話になった。無粋な質問に羽鳥が眉根を寄せると、木佐がけらけらと笑い出す。
「わー、まさしく苦虫を噛み潰したような顔。面白れー」
「木佐先輩」
羽鳥が大きく嘆息すると一層笑ってしまった木佐だったが、不意に真面目な顔になる。
「…だって、長年の片思いがようやく実ったって割には、お前は妙に憂鬱そうな気がしてさ。あの二人までとはいかなくても、もう少し幸せオーラ出してたってバチは当たらないのに」
とりあえず黙ってやり過ごすか立ち去るかすればいいさっきの災難とは違って、丁重にお断りし辛い先輩の有難いお節介も、羽鳥にとっては厄介なものだったりする。
図星を指されたことに気付かれたくなくて、「じゃあ木佐先輩の方はどうなんですか」と言ったら、「俺は怖すぎるくらい順調なの、今のとこ」とにっこり返されて、またもや溜め息を吐きたくなった。
今は十分に幸せだから、人の幸せなんて羨ましくないはずなのに。





「………おはよう、トリ」
「もう昼だ、起きろ。メシ、作ってやるから」
『腹減ったから、何か作りに来て』というメールが吉野から送られたのは、つい先程のことだった。
勝手知ったる他人の家。スーパーの袋を下げて、不用心にも鍵がかかっていなかった下宿の玄関をくぐると、足元から擦れた声の挨拶が聞こえてきた。
昨日までと何も変わらない、いつもの吉野だ。

慎重と評されることも多い羽鳥にしてみれば、あのとき一之瀬の賭けに乗ったのは、随分と思い切ったことだった。
吉野のことをいつから好きだったかは覚えていない。とにかく好きで、好きで。ある時その感情が恋だと気付いて、でも伝えられなくて。それでも、好きでいさせてくれたら、それで良かったはずだった。
吉野を好きになったことを悔やんだことはない。けれど、それだけでいられないと思うようになってしまったから、賭けに乗った。
結果的に、賭けは羽鳥の勝ち。吉野は想いに応えてくれた。羽鳥の嬉しいと思う言葉をいくつも言ってくれる、今までよりも近い距離を許してくれる。
…なのに。もっと、何かが足りないと思うのは、贅沢なのか。

――ふと、今日の嵯峨のように、もぐもぐと羽鳥手製の夕食を口に詰め込む吉野を見つめてみる。大きなたれ目をこちらに向けた吉野は、不思議そうに首を傾けた。
「ん?俺の顔、なんか付いてる?」
「………口の周り、汚れてる」
今日のメニューはハンバーグ。子供のようにケチャップで口の周りを赤くした吉野にティッシュの箱を差し出すと、サンキューと言った吉野は、適当に顔を拭いてから夕食を再開した。
一応、羽鳥と吉野も恋人同士である筈だけど、嵯峨と小野寺のような雰囲気にはなりはしない。
別に、二人と全く同じことがしたい訳じゃない。けれど、彼らにあるものが、羽鳥と吉野の間には何か欠けている気がする。それが何かはわからないけど。

「俺、お前とこうやってメシ食ったりしてのんびりしてる時が、好き」

今度は口の端に米粒を付けて、吉野がふにゃりと笑った。いい年をした男の癖に、顔に米粒を付けているのはいかがなものか。それでも心臓が跳ね上がるのはどうしようもない。

『俺も好きだよ』

そう言おうとしたけれど、ぐっと口をつぐんだ。
長い片思いで染みついた癖。自分の心の核心に近いところが、まだ言えない。

―――――結局、欠けていたのは、その言葉だったというのに。

黙々と箸を口に運ぶ羽鳥は、吉野が密かに眉を上げていたことには気付かなかった。



千秋が、羽鳥から好きだと言うのを待っていたのだと知れるのは、もう少しばかり先のこと。



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -