「ねえ、トリ。俺とキスしてみない?」


結局そういうことになってしまったのは、成り行きに他ならない。勿論自分から行動を起こしたということは断じてなく、むしろ動いたのは吉野の方だった。いつもの休日。彼は勝手に人の部屋にあがりこんで、漫画や菓子類を散らかしていく。毎週恒例の出来事に怒る気力もなく、俺はといえば吉野の隣で黙々と本を読む。それが日常だった。


ご飯でも一緒にどう?程度の軽い誘い方。だから、一瞬だけ言われた意味が分からずに思わず狼狽えた。読んでいた漫画を床に放りだした吉野は、まじまじと俺を見上げていて。は、と鼻で笑って、そんな冗談に俺が引っかかるかと言ってやった。それでも、吉野は黙りこんだままで。


手を伸ばしたのはそれから数秒後のことだ。


夢か幻か。どちらであっても今後こんな機会は一切無いだろうと腹を括った。触れた唇の温度が告げるのはこれが都合のいい幻覚ではないということ。


「………」
「今度の漫画の為の資料か何か?随分体当たりだな」
「まあ。そんなところで良いんじゃない?」



何だそれは。



この事件をきっかけに事あるごとに吉野は俺にキスをねだるようになった。俺から誘ったことは一度も無い。けれど吉野のお願いに自分が断ることも無かった。流されるまま口付ける。そうこうしているうちに、強烈に彼の中に舌を滑らせ思う存分蹂躙したいという欲求が自分の中に湧きあがり。けれどそれを実現させたことは一切無い。荒れ狂う葛藤を抑えて、ただ触れるだけ。それだけだ。


一体何をやっているのか、と自分でも思う。それでも、一度触れてしまえばもう一度触れたくなるし、二度触れれば彼を離したくないというふざけた感情が生まれる。三度触れれば、吉野を自分の物にしたいという衝動に駆られて。まるで蟻地獄の中にいるみたいに、ずぶずぶと深みに入っていくのが分かる。それを理解していても、行為を止めることが出来ない。彼を跳ね除けることが出来ない。



だって、俺は吉野のことが好きなのだから。



「なあ、柳瀬」
「何だよ」
「俺とキス出来るか?」
「…土下座されてもお断りするレベルだな」
「全くもって同感だ」


級友の柳瀬に問えば、案の定模範通りの回答が返ってきた。昼休みの屋上。吉野は授業中に居眠りをしていたことで、担当教師からお呼び出し中だ。購買から購入したサンドイッチを頬張りながら、柳瀬が言った。


「何、千秋とキスでもしたの?」
「………」
「ふーん。そっか」


吉野の友人として紹介され、隠していた恋情をものの二、三日で見破ったのがこの柳瀬だった。お前、千秋が好きなんだろ。尋ねられて、否定出来ずにそのまま肯定することになった。やっぱりそうかとブツブツ呟いている柳瀬に、吉野との関係もここまでかと覚悟した。けれど柳瀬はそんなやりとりがあったにも関わらず、俺のことを吉野に暴露することは無かった。柳瀬曰く、別にお前はどうでもいいんだけど、千秋に泣かれると俺が困るんだよ。俺にとって千秋は大事な友達だし、と。


「で、どうしたらいいと思う?」
「そんなの俺に聞かれてもね」


別にお前と友達になったつもりは無いけど、と口悪く柳瀬は言う。けれど相談まがいな俺の台詞を投げ出さずに最後まで聞いてくれるあたりが彼の優しさだ。柳瀬が吉野に気がないことを分かりきったうえでのやりとりだが、もし柳瀬がライバルだったら相当面倒なことになっていただろうと予測する。考えても仕方のないことだが、想像力が豊富なのはひとえに吉野のせいだ。


「相変わらず鈍感だよな」
「まあ、それが吉野だからな」
「そっちじゃなくてさ」


首を傾げて意味不明な台詞を発する柳瀬を見やれば、タイミング良く説教を終えた吉野が戻ってきて。その言葉の真意は掴めないままだった。




流石にこれ以上は自分の理性が持たないと判断したのは、再度吉野に迫られた時だ。吉野とキスをするのが嫌なわけではないが、理解不能な関係を続けていくことは出来ない。意を決して、もうこれ以上は止めようと切り出すと、吉野はありったけの力を使って俺を突き飛ばした。そうして床に倒れ込む俺の上に馬乗りに跨る。見上げれば吉野は酷く真面目な表情を浮かべ、挑むように俺を睨んでいた。


「お前、どういうつもりなんだ?」
「何が?」
「いくら漫画の為だって言っても、こんなにキスする必要なんてないだろう?」


自分に言い聞かせる言葉でもあった。恋焦がれた人に求められて、それを拒むことは非常に難しい。それはずるずると行為を続けてきた自分にとってもだ。けれどここで止めなければ、きっと一生吉野の思うがままだ。こんな関係と続けたところで何の意味もない。デメリットしか存在しないのなら、踏みとどまるべきなのだ。


「俺、漫画の為だなんて一度も話してないけど」
「…何を言ってるんだ?お前」
「トリ。俺って好きでもない人とキスするような人間に見える?」


幼少期の頃から付き合ってきた仲で、だから吉野の性格なんて言わずもがな分かりきっている。適当でだらしないところもあるけれど、それを凌駕する位良いところだってある。吉野は素直で、だから嘘はつかない。吉野は正直だから、心にもないことを口にしたりはしない。



………でも。だって、それではまるで。



「何で俺がトリの気持ちに気づかないと思うわけ?」



きっと柳瀬が言った鈍感という言葉は吉野ではなく俺に対してだったのだろう。先に気づいたのは吉野で、だから最初の一歩を踏み出せない俺に歩み寄ってきたのだ。漫画の為だと決めつけたのは俺で、行為の意図を分からせるためだけに吉野は今の今まで続けたのだ。


落ち着けと痛めた頭を抱えこむ。吉野と言えば、俺の上で満足げに笑みを浮かべている。ああそうか、そういうことだったのか。結局俺は、吉野の掌の上でまんまと踊らされていただけなのだ。


「トリの鈍感」
「…すまん」


素直に謝罪してみれば、吉野は俺の体に密着してそのまま背中に腕を回した。頬に息が吹きかかり、僅かながらに小さな音が耳に届く。




もう一回、して?



求める言葉に反論なんて不可能だ。ああ、畜生。煮るなり焼くなり好きにしろ。



1、小さな嘘さえ見抜けるほど

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